パンケーキだけじゃ物足りない!「おかえりなさいませ、ご主人様」
十一月五日、日曜日。
ナイトレイブンカレッジ在籍のウツボの双子――リーチ兄弟の誕生日を祝うオクタヴィネル寮内のイベントが終わりを告げた、午後八時。
バースデーボーイの存在しない、至って平常運転だった一日が終わりを迎えようとしているイグニハイド寮の片隅。寮長特権の一人部屋で本日の主役の片割れを出迎えたイデアは、膝丈ながらもクラシカルなデザインのメイド服に身を包み、たどたどしいお辞儀を披露した。
現イグニハイド寮長であるイデア・シュラウドが、恋人のフロイド・リーチをメイド姿で出迎える羽目になった事の発端は、一か月ほど前にまで遡る。
「なにこれ浮気?」
クラブ活動もモストロの営業もない、ある晴れた日曜の昼下がり。特に約束をしていなくても毎週のように部屋を訪れる恋人と、だらだらゲームをしたり映画を見たりしていたイデアの耳に、青天の霹靂のような言いがかりが飛び込んできた。
視線を上げれば、本棚の傍らでフロイドがやけに不機嫌そうな顔をしている。読んでいた漫画の続きを探していたらしい彼の手に、10センチ四方の紙片のようなものが握られているのが見えた。
あれはなんだろうか、と考えてみるものの、イデアに思い当たる節はない。当然、浮気をした記憶も事実もなかった。
これまでの経験上、フロイドが〝浮気〟と称するイデアの行動は、猫や犬などのもふもふにメロメロになっている状態を指すことが多い。であれば、NRCに入学したばかりの頃に狂ったように撮りまくっていた野良猫たちの写真でも出てきたのだろうか。
そんな風に気楽に考えていたイデアは、しかし。
「んぐっ」
目の前に突きつけられた紙片の正体に気づいた途端、飲んでいた炭酸に咽てしまった。
紙片の正体は、通称チェキと呼ばれるインスタントフォトだった。そして、そこには間違いなくイデアとメイド服姿の女性が映っている。ついでに言えば、『ご主人様♡』『にゃんにゃん』といったパステルカラーの丸文字が踊り、全体が大きなハートマークでデコられていた。
「んなっ、え、な…、ど……??」
記憶の引き出しの奥底に仕舞われていた存在に、青い唇から意味を持たない音が零れ落ちる。
「どこにあったかって? この本の間から落ちてきたんだけど」
だが、なぜかイデアの意図を正確に汲み取ったフロイドは、もう一方の手に持っていた漫画を差し出してきた。
しばらく読んでいないSF漫画の短編集。きっと、以前読んだときに栞がわりに挟んでしまったのだろう。存在すら忘れ去っていた写真の出所を知ったイデアは、すこしだけ落ち着きを取り戻す。対照的に、フロイドの機嫌はますます悪くなっていた。
「なんも言わないってことは、やっぱ浮気なんじゃん!」
「ち、ちがうから! それはその、推しアニメのコラボカフェでランダムグッズを引くために仕方なく撮ったチェキでしてマドルという資本主義にのっとった対価を支払った代わりに提供されたサービスであるからには互いにそれ以上の他意はなく、そもそもそれを撮ったのは一年近く前のことなので君と付き合うどころか互いのこともよく知らなかった時期の産物でありますゆえ、浮気という観点に関しましては大いに否定するべき―—むぐっ」
「まってまって、急に一気にしゃべんないで」
「むぐぅ、むむ~~っ」
「はいはい、いったん落ち着いて~」
なにも言わなければ事実無根の浮気扱いされ、慌てて反論すれば一気にしゃべるなと口を塞がれるとか納得いかないんだが!? と、抵抗を試みるものの。かつては恐怖の対象でしかなかったウツボによしよーしと頭を撫でられるうちに、実際に落ち着いてきてしまうのだから慣れって恐ろしいなあ、とイデアは思う。
そんなわけで完全に落ち着きを取り戻したイデアは、こちらも一先ず話を聞く態勢になったフロイドに、かつての己の所業を説明することになってしまった。
「その写真はメイド喫茶……フロイド氏、メイド喫茶って知ってる?」
「あー、前にアズールが営業形態の参考としてどーのこーのって言ってた気がする。なんか、スタッフが使用人の格好してんでしょ?」
「そうそう、基本は知ってるんですな」
「興味なかったから、あんまちゃんとは聞いてなかったけど」
「まあ要は、カフェの店員がメイドで客側がその主人っていうシチュエーションの喫茶店なんだけど―—」
説明しながら、イデアは空中展開させたディスプレイにメイド喫茶に関するデータを表示させてゆく。
メイド喫茶というカフェ業態のコンセプト、その営業形態が成り立つほどにメイドが一部界隈で人気な理由、提供される基本的に原価に対して価格設定高めなフードメニューやメイド喫茶ならではのサービスなどなど。それらを動画を交えて一通り説明したところで、「これはそのメニューのひとつ、チェキサービスで撮ったものだよ」とあくまでも金銭提供の対価として得たものであることを強調した。
「行ったのは一年以上前のことだし、メイド喫茶に行ったのは後にも先にもこの一回きりだし。浮気とか、そういうんじゃないから」
「けど、わざわざマドル出してまでチェキ撮ったんでしょ? てことは、少なくともこーいう服着たメスが好きってことじゃん」
「そりゃまあ、メイドさんを嫌いなオタクなんていないんで好きといえば好きだけど。拙者の場合はあくまでも二次元や概念として好きって感じだし、この時も別にメイドさん目当てで行ったわけじゃないんで……」
「こんなスゲー笑顔でツーショット撮っときながら?」
「それは、オルトが笑ってって言うから仕方なく笑っただけだってば」
「え、クリオネちゃんも一緒だったの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってないんだけど!」
「当然オルトも一緒だよ。僕が一人でこんな場所に行けるわけないじゃん」
「だったらなおさら、なにしに行ったんだよ。食うもんに興味のねぇ先輩が、原価に対して価格設定の高いメシが食いたくて行ったとも思えねぇし」
「うーん、拙者の食への関心の低さに対する厚い信頼を感じなすなぁ。まあ、グッズ目当てだったから間違ってはないんだけど」
「グッズ?」
「そう。こんな辺鄙な島で珍しく開催された推しアニメとのコラボカフェの、限定グッズ目当てで行ったんですわ」
「あ~……」
コラボカフェという単語を聞いた途端、フロイドがすべてを理解したような表情になる。陰キャで引きこもりを自称する恋人が外出する理由に『推しとのコラボ』があることは、既に何度か付き合わされたことがある身として、非常に納得がゆくものらしかった。
「主人公たちがメイドだから、いろんなメイド喫茶とのコラボがあったんだけど。舞台のモデルが賢者の島ってことで、メイド喫茶なんて存在しないこの僻地でも、わざわざ期間限定店舗を作ってまでコラボカフェをやったんだよ。で、限定グッズが出るっていうから行ったってだけ。だから、メイドさん目当てで出かけたわけじゃないんですわ」
「けど、それって逆におかしくね? グッズ目当てで行ったのにわざわざ金払ってまでコレ撮ったってんなら、よっぽどこのメスが気に入ったってことじゃん」
最初に浮気だと思ったことが尾を引いているのか。なかなか納得しないうえに、割と的確な指摘をしたフロイドの機嫌が再び急降下する。
「ち、ちがくて! 拙者が用があったのはチェキじゃなくて注文金額なんだってば! つまり、一定の注文金額ごとに一回引けるくじがありまして……」
慌てたイデアの説明を要約すると、こうである。
限定グッズのひとつに、注文金額1500マドルで一回引けるブラインドガチャがあった。当然、そのグッズはコラボグッズの中でも目玉商品で、イデアもなんとか推しキャラのものをゲットしたかった。だが、小食のイデアが死ぬ気で詰め込んだレベルのフードとドリンクの注文金額では目当てのものを引き当てるには至らず、飲食に関してはオルトも力になれない。
結局、こういった事態を見越して用意されていたのであろう1500マドルのツーショットチェキ(メイドさんのデコレーション付き)を、目当てのものが出るまで頼み続けたのだという。
「つまり、チェキで課金したってこと?」
「そういうことですな。メイドさんのソロショットがあればそれにしたけど、転売対策にツーショットしかやってなくて。最初の方はオルトにお願いしてたんだけど、僕ばっかりじゃなくて兄さんも撮ってよ! って言われて、仕方なく笑顔を捻り出して撮ったのがそれってわけ」
正直なところ、撮った当初はなんだかんだ言ってオタク的に嬉しい気持ちもあったのだが。アニメとのコラボに押し寄せて、限定グッズのためにチェキを頼みまくるオタクとかマジきも~って思われてるんだろうな……、という冷静なオタ友のポストをマジカメで見て以来、黒歴史として記憶ごと封印することにした呪物だったりする。だから、扱いもぞんざいになってしまっていたのだろう。
それをこんな形で、しかもなんの間違いか自分なんかに出来てしまった恋人に発見されるなんて本当に最悪だ……、などと思いながら。イデアが一緒に写っているメイドに特別な思い入れがある訳ではないと納得したらしいフロイドの様子に、ほっとしたのも束の間。
「ねえねえ、オレもこれやってみたい」
「……これって、メイド喫茶に行ってチェキを撮りたいってこと?」
「うん! でも一緒に写るのは先輩がいいから、先輩がメイド喫茶やって?」
「………は? メイド喫茶は行くものであって、やるものではないんだが?」
あまりにも予想外な要望を浴びせられて咄嗟につっこんだイデアは、違うそういう問題じゃない、と今度は心の中で自分につっこむ。だが、混沌とした思考が態勢を立て直す前に、話はどんどん進んでいってしまう。
「でも、コイツも本物のメイドってわけじゃないんでしょ? だったらホタルイカ先輩がメイドの格好したら、ここがメイド喫茶ってことになるじゃん」
「ならないが? だいたいメイドは女性の使用人のことですしおすし。拙者、確かに筋肉ほぼゼロのガリヒョロ体型とはいえ、これでも身長百八十越えの立派な男子ですぞ??」
「だーいじょうぶだって。先輩めっちゃ髪長いし、イケるイケる」
「なにそのザル判定。全然イケないでしょ」
「えー。オレはこの格好した先輩のこと見てみたいんだけどな~」
「すごい気軽に言うじゃん。わかってると思うけど、断固として拒否させていただきますんで」
半年ほど前に付き合ってくれと言われた時から、ひとつ年下の後輩の唐突なお願いには何度も晒されてきたし、それなりに慣れてきてしまったような自覚もある。なんだかんだと丸めこまれたり乗せられたりして、結局はお願いを聞いてしまうことも多かった。
だが、これは駄目だ。ここは折れてはいけない。そう強く自分に言い聞かせたイデアの、気合の入った視線の先で。
「あー、そうだぁ」
なにかを思いついたらしいフロイドが、獲物を見つけた捕食者のような笑みを浮かべた。正直、嫌な予感しかしない。
「だったら~、これがオレの誕生日プレゼントでいいよ」
そして、嫌な予感ほど良く当たるのだった。
「いや、よくないでしょ……」
「でも先輩、オレに誕生日プレゼントなにがいいか聞いてたじゃん。オレは先輩がくれるならなんでもいいって言ったのに、頼むから決めてくれって言ってたよね?」
確かに言った。しかも、つい先週ぐらいに。
その際、「フツーそういうこと本人に聞く?」と指摘された通り、あらかじめ本人に聞くのがあまり一般的でないことはイデアにも分かっている。だが、フロイドはこれまでイデアが誕生日プレゼント的なものを贈ったことのあるどの相手とも違うから、仕方がなかったのだ。
オルトや両親、S.T.Y.X.のスタッフたちが相手であれば、なにを贈れば良いのかは悩むまでもなく分かった。部活仲間は共通の趣味が明確なので、そこを攻めれば間違いないだろう。誕生日のプレゼンター相手や級友といったちょっとした関係の相手には、お菓子やカップ麺のような食品を選べば無難だし、数百マドルで買える布教を兼ねたアプリ用スタンプなんかは、気に入られなくたって別に構わない。
だから、これまでイデアは誕生日プレゼントというものに関して、悩むということが無かったのだ。
けれども、フロイドはそれらのどのパターンにも当てはまらない。
一応、お気に入りブランドの靴だとか最新のゲームソフトだとか、贈ったら喜んでくれるであろう物の見当はつく。それでも、万が一好みに合わないと言われたり、気に入らないからと突き返されたりでもしたら。想像しただけで胃がギュッとなるほど、イデアはその未来を恐れてしまったのだ。
だから、直接本人に聞くことにした。「なんでもいいよ」と言われても、「お願いだから決めてくれ」と頼み込んだ。
その結果が、この惨状である。
「確かに決めてほしいとは言ったけど! それはあくまでも物質的なプレゼントを想定したものであって、メイド喫茶をする……?? ってのは適用範囲外だと思うんだけど!」
「だったらプレゼントはメイド服で、誕生日に先輩がそれ着てオレのこともてなして、ついでに一緒にチェキ撮ろーよ」
「実質メイド喫茶じゃん!」
「けど、これならオレのことご主人様って呼ぶ必要ねぇよ?」
「拙者が抵抗してる部分はそこじゃないんですけど!?」
「でもオレ、すっかりその気になっちゃったし。メイド服着たホタルイカ先輩とチェキ撮る以外の誕生日プレゼントは、受け取る気がなくなった〜」
「もっとなにか考えて! この際、テネーブルの靴でもいいから! ほら、願い星のときに言ってたやつ!」
「は? 恋人に36万マドルの靴ねだるとか、貢がせてるみてーでイヤなんだけど。それに今からオーダーしたって、オレの誕生日には間に合わねーよ」
「いきなりド正論パンチ飛ばしてくるじゃん……」
恐ろしいことに、その後も二人の問答はこんな調子で一時間近くも続いたのだが。最後には結局、いつもと同じ結果になってしまった。
「が、ガッカリとか、期待外れとか、キモイとか言わない……?」
「オレがお願いしてんのに、んなこと言うワケないじゃん」
「……ほんとに、それでいいの?」
「ソレがいーの!」
「どんな仕上がりになっても責任持てないし、やっぱり無しって文句言われてもどうにも出来ないからね?」
「ぜってー言わねえって。なんならアズールに契約書作ってもらってもいいけど」
「そこまでいうなら、まあ……わかったよ」
要するに、イデアが折れたのである。
それからの一か月弱はイデアにとって、正気と狂気の殴り合いのような日々だったのだが。今さら後には引けない、という一念だけで準備を整えて迎えた恋人の誕生日当日。
恐ろしいぐらい完璧にメイド服を着こなしたイグニハイド寮長は、鼻歌交じりで訪れたウツボの人魚に対して、ゆっくりと頭を下げたのだった。
★ ★ ★
「お誕生日、おめでとうございます」
挨拶を兼ねたお辞儀を終えたイデアが、いつもより艶やかな青い唇を開く。屋敷に帰ってきた主人という設定のフロイドの誕生を祝う言葉は、使用人らしく丁寧で声のトーンも落ち着いている。
開き直って練習しただけあり、メイド喫茶体験の冒頭としては、かなり良い出来栄えではないだろうかとイデアは自画自賛した。
「え、なんかスゲー仕上がってない?」
だが、しかし。返されたのは主人としての労いや感謝の言葉ではなく、ひどく純粋な驚愕だった。
せっかくこっちはそれっぽい空気を作ったのに、と思わないでもないが、そこはぐっと我慢する。実のところ、自分でも『これは仕上がり過ぎでは……?』と若干引くレベルの〝メイドさん〟になってしまっていることを、イデアも自覚していたからだ。
襟もとまで詰まったクラシカルタイプにしては少し丈の短いメイド服は、コスプレ衣装にしては上質なものだ。当然、付属のヘッドドレスやエプロンも、品の良さを感じさせる作りになっている。
肩を隠すような大きめのフリルと袖のあたりが膨らんだ長袖のドレス、パニエによって膨らんだ膝丈のスカートなど、男性らしい体型を隠す工夫の凝らされた衣装のお陰で、女装ならではの違和感は極端に軽減されている。白ではなく黒いソックスと、それに合わせた黒い革のハーフブーツはメイドとしては規格外だが、スラリとした長身には却ってよく馴染んでいた。
だが、それ以上に。イデアのメイド姿を完成させているのは、白い顔を鮮彩ながらも柔らかく彩るメイクによるものだった。
「正直これには、拙者もびっくりしてる」
もちろん、この完璧に近い女装はイデアの力によるものではない。
そもそも陰キャ引きオタ男子がメイド服を着るというリクエスト自体、最初から無理があるのだから。ネガティブ反応はしないという言質も取ったことだし、適当に買ったメイド服を着て終わらせよう、というのがイデアの当初の計画だったのだ。
サイズと長いスカート丈だけを見て通販で買ったメイド服を、最愛の弟に見られてしまうまでは。
「届いたメイド服を見られて、誤魔化しきれずに状況を説明したら、なんかオルトが異様に張り切っちゃって」
タイミングが良いというべきか、悪いというべきか。人間の感情を学ぶために、と映画研究会に入ったオルトの最近の関心事が、服装や化粧の違いによる人間の行動および表情の変化だったのだ。
「服装による行動変化はボディやパーツの変換に置き換えれば理解しやすいんだけど、メイクによる変化は自分ではあまりよくわからなくて……」としょんぼり気味の弟に、「でも映研での活動実績や関連知識の収集はバッチリだから! これまで蓄積したデータの実践の場として、僕に兄さんをプロデュースさせてほしいんだ!」と曇りない瞳でお願いされてしまえば、イデアに断れるはずもない。
こうして、『女装子』『男性用メイド服』『女装メイク』といったデータを新たに大量収集&分析した弟によって、まずは購入したばかりのメイド服が返品されることになり。オルトの見立てにより新たに選ばれたメイド服に袖を通し、色味の厳選された化粧品と女装を愛する先人たちの知恵が詰まったテクニックによるメイクを施されたイデアは、当初の思惑とは裏腹に完全に仕上がってしまったのだった。
「すっげー、クリオネちゃん超ヤベーじゃん。オレは先輩がメイド喫茶っぽいことしてくれるだけで良かったんだけど、フツーにドキドキしててウケるんだけど」
こんな姿、万が一にも寮生に見られるわけにはいかない、と。最初の驚きが過ぎ去ったらしいフロイドを室内に引っ張り込み、イデアは厳重に扉をロックする。そうして、なにがツボに入ったのか、ケラケラと笑い出したウツボを睨みつけた。
「なにそれウケるってどういうこと。僕はともかく、オルトのことまで馬鹿にしてるんだったら―—」
「ちげーって。人魚ってそもそも服着ねーし、陸上ってからも服なんか着たいものを着ればいいじゃん、女装とか男装とかワケわかんね~って感じだったんだけど。実際にメスっぽい服着てる先輩見たらスゲー興奮したから、陸っておもしれ~ってなったってだけ」
「えーっと、つまり、興奮してるんだ……?」
「スッゲーしてる。だからぁ、そんな美味しそうな顔すんなって」
「お、美味しそうな顔って、」
どんな、と続けようとした唇に人魚の指先が触れる。
「自分じゃわかんない? ちょっと恥ずかしそうで~、すこーし目がうるってしててぇ、齧ったらイイ声あげそうな―—か、お」
間近に迫ったオッドアイが、妖しくきらめく。指先の代わりに重なってきた唇が、誘うような艶めきを放つ青色をついばんだ。
「今日の先輩の唇、甘いね」
それは、オルトの選んだグロスに味がついてるから―—。
ちゅっちゅっと小鳥が遊ぶようなキスを繰り返すフロイドの囁きに、答えを返そうとした唇の隙間から熱い舌が侵入する。あれ今日ってこんな感じで良かったんだっけ……と。施錠したばかりの扉に優しく押し付けられながら、ぼんやりと考えていたとき。
『最高にキマッてるよ、兄さん! 今日はフロイドさん専用のメイド喫茶、頑張ってね!』
つい一時間ほど前まで着付けやメイクを手伝ってくれて、その出来上がりに満足しながら去っていった愛しい弟の声が、イデアの脳裏に蘇った。
「ちょ……っと、待ったああ!!」
「あ? なにこの流れで止めてんの?」
ぐいっと押し返した肉体の持ち主は、当然ながら不満そうに眉を顰めている。しかし、だからといってここで怯むわけにはいかない。
「だ、だって、そもそも今日の目的……というか、フロイド氏への誕生日プレゼントはメイド喫茶体験なわけでして! 今ここで雪崩れ込んだら本末転倒じゃん!」
「………あー、そういやそうだったわ」
一瞬の沈黙のあと。本来の趣旨を思い出したらしいフロイドが、わずかに身を引く。その隙に両腕の囲いから抜け出したイデアは、けれどもすぐに後ろから抱きこまれてしまった。
「でもオレ、今すぐ先輩といちゃいちゃしたいんだけど。メイド姿は見れたんだし、このままえっちなことしよーよ」
先ほどまでのオラつき具合はどこへ消えたのか。ねぇねぇお願い、と甘えるような声色に頷きそうになるのを、イデアはなんとか堪える。
ここで流されてしまっては、せっかくの計画が台無しになってしまう。今日ばかりは、それは避けたかった。
「そ、そういうのはあとで! 大体この格好は完全にオルトプレゼンツですしおすし。なんで拙者からのプレゼントもちゃんと受け取ってもらわないと、こっちの気が済まないんですわ」
「プレゼントってチェキのこと?」
「んなわけないでしょ。自分とのツーショットをプレゼントなんて言える鋼の精神、拙者にあるとお思いで?」
「えーなになに、他にもなんか用意してくれたの?」
「ふひひ、それではこちらにご注目くだされ」
フロイドの興味が逸れた瞬間を逃さず、バカでかいウツボを背中に張り付けたままイデアは室内を移動する。今日のために寮の倉庫から引っ張り出してきたテーブルと椅子が布を被った状態で、以前はオルト関係のパーツが散乱していた場所に設置されていた。
「じゃーん」
半ばヤケクソ気味の陽気な掛け声とともに、浮遊魔法でテーブルを覆っていた布を取り去る。こちらも倉庫から拝借してきた予備シーツの下から現れたのは、モストロラウンジから借りたテーブルウェアに乗ったパンケーキだった。
「えっ、これホタルイカ先輩が作ったの?」
しかも、ただのパンケーキではない。可愛らしいウツボとドクロの形をしたパンケーキが、お皿の上で仲良く並んでいた。
乾燥を防止し鮮度を保つための密閉魔法や保温魔法を解除すれば、焼き立てのような湯気と甘い香りがふんわりと部屋中に広がってゆく。自分のためのものではないし、お腹が空いているわけでもない。なのに、なぜかすこし幸せな気分になるのがイデアは不思議だった。
とりあえず座って、と促せば、イデアの背中から離れたウツボは大人しく従う。こちらの予想を超えて嬉しそうな姿に、安堵と喜びがじわじわと身体を満たすような気がした。
「さっきも言ったけど。女装した自分との写真を誕生日プレゼントにする勇気なんて、僕には無かったから」
とはいえ、フロイド的にはそれだけでも良さそうだったし、メイド姿になることへの心理的ハードルを考えれば、労力的には誕生日プレゼントに見合うものだったのかもしれないのだが。それでも、女装パートのディレクションをオルトが買って出てくれて、するべき準備がほとんど無くなってしまってからは、これだけで良いのかとイデアは散々に頭を悩ませることになってしまった。
そうして最終的に辿り着いた結論は、やるからには出来るだけ本物に寄せてみるか、というもので。メイド喫茶の提供するメニューやサービスを再検討し、自分にも用意出来そうなものとして白羽の矢を立てたのが、デコレーションサービス付きのパンケーキだったのだ、と告げる。
「といっても、実際に焼いたのはコイツなんだけどね」
「けど、それを作ったのは先輩なんでしょ?」
「とーぜん。ポートフェストでの経験が、こんなとこで活きるとは思いませんでしたわ〜」
テーブルの上に置かれたターコイズブルーの小型機器を開けば、ウツボとドクロの形にくぼんだ鉄板が姿を現す。メイド喫茶の定番メニューであるオムライス作りは最初から諦め、オムライスメーカーの開発に頓挫したイデアが、ポートフェストでの経験を活かして焼き具合と食感にこだわり開発したパンケーキメーカーは、自分でも会心の出来だと思っている。
「生地に使う小麦粉や卵も厳選したし、デコレーション用素材も上等なものをサムさんから仕入れたし。紅茶はアズール氏に用意してもらったけど、そんじょそこらのメイド喫茶には負けないティータイムを用意できたと、我ながら胸を張って言えるクオリティですわ」
普段はエナドリで埋まっている冷蔵庫からフルーツやアイスを取り出し、モストロで準備してもらった魔法瓶から紅茶を注ぐ。フロイドの要望を聞きつつパンケーキをトッピングし、チョコレートシロップでウツボとドクロをデコレーションしてから、プレートの淵に『Happy Birthday Floyd♡』とハートマーク入りで記入した。
そうして出来上がったのは、メイド喫茶で出てくるものにも引けを取らないほど可愛らしく、今風に言うとマジカメ映えしそうなパンケーキだった。
「どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
だが、今さらのようにメイド然とした口調で頭を下げたイデアに対して、それまでただニコニコしながら見守っていたフロイドが待ったを掛ける。
「メイドさんさぁ、なんか忘れてんじゃない?」
「な、なんのことでしょうか」
「なにって、この前一緒に動画で見たじゃん。おいしくなるおまじないってやつ」
「……うっ」
一気にパンケーキを完成させて「召し上がれ」まで言ってしまえば、そのまま流されて終わるのではないかと思っていた部分を指摘され、イデアは諦めの溜め息をつく。
メイド服を着ることは早々に諦めた。「お帰りなさいませ」や「ご主人様」というのも、メイド喫茶をやると決めたときから受け入れた。そんなイデアが、自業自得と分かりながらも最後まで逃げ道を探していたパート。指摘されてしまった以上、それをやり遂げるまでフロイドが食べ始めることはないだろうという現状を、もはや受け入れるしかなかった。
「そ、それでは、美味しくなるおまじないをおかけします」
オルトの見立てたブルーのマニキュアが塗られた両手で♡マークを作り、イデアは覚悟を決める。指先とお揃いの青色をした唇から、メイドカフェ定番のフレーズが零れ落ちた。
「おいしくな~れ、萌え萌えキュン!」
……しぬ。
はずかしい。死ぬ。
いますぐ記憶を失いたい。笑うならいっそ大笑いしてくれ。その方が救われるまであるレベルで恥ずかしい。
覚悟を決めたからといって受け入れられるわけではない状況に炎の毛先をピンクに染めて、イデアはじっとフロイドの反応を待つ。
だが、返ってくるのは無音ばかりだ。
仕方なくパンケーキに固定していた視線を上げれば、妙にスン……とした表情のウツボと目が合った。
かと思えば。
「ひっ」
次の瞬間、バクバクとパンケーキを爆食いし始めた恋人に、イデアは思わず身体を引く。
え、なんだろ怒らせた? なんでなんで、やっぱり萌え萌えキュンはキモすぎたってこと?? いや気持ちはわかるけど! だけどこっちとしてはやりたくないのにやれって言われたからやっただけで、それなのに怒られるとか流石に理不尽過ぎると思うんですが!?!?
イデアが目まぐるしく思考を働かせながら狼狽える間にも、海の捕食者の象徴のようなギザ歯を光らせたウツボは、柔らかくて可愛かったパンケーキを見る見るうちに平らげてゆく。最後、ウサギの形にカットされたリンゴをひと口で食べたフロイドが、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「えっと、もう帰る……?」
ティーカップを置くなり立ち上がった恋人に、イデアは恐る恐る声をかける。言質を取ったとはいえ、人の心や感情は常にコントロールできるものではない。不快にさせたのなら、今日はもう帰ってもらった方が良いだろう。
そんな風に考えていたイデアは、すぐに自分が勘違いしていたことに気がついた。
「なんで? これからが本番なのに?」
先ほどよりも濃密な色を乗せて、深く揺らめくオッドアイが近づいてくる。パンケーキの甘い匂いを纏わりつかせた人魚の喉が、グルル……と鳴るのを耳元で聞いた。
どうやら、二度目の〝待て〟は通じそうにない。静かにそう悟ったイデアは、先ほどの続きのような口づけを大人しく受け入れることにした。
最初から喉奥と上顎をいやらしくなぞる舌先に、フロイドの興奮が伝わってくる。まさかアレがそんなにツボだったのか、と逆に心配になって、「君って、あーいうのが好きなんだ……?」とベッドに押し倒されたタイミングで聞いてみれば。
「あーいうのって?」
「さっきの、おまじないってヤツ」
「別にアレ自体はどうでもいいけど。恥ずかしそうに目ぇ伏せて、酸欠の魚みたいにほっぺた赤くして、指で慣れないハートマーク作ってキュンキュン鳴くホタルイカ先輩はスゲー美味しそうだったよ」
甘いだけのパンケーキじゃ満足できないぐらい。なんて囁きを耳殻に捻じ込んでくるものだから、「キュンキュンとは言ってませんが!?」という反論を含め、イデアはいろいろと諦めることにした。
諦めてしまったものの中には、最重要任務であったはずのチェキ撮影もあったのだが。まあ、満足してるみたいだし別にいっか、と流してしまったイデアは知らない。
このあと、撮りそびれたチェキを理由に再び自分がメイド服を着る羽目になることも。
いつもとは違う姿での行為だからこそ感じる興奮や快楽に、二人して少しずつハマっていってしまうことも。
パニエを奪われたスカートから覗く太ももに吸い付かれ、ひくひくと震えることしか出来ない今のイデアにはまだ、知る由もない未来だった。