何事も始まりは突然で、終わりも突然。目まぐるしく過ぎてゆく時間の流れに置いていかれぬよう必死に追いかけていたら、その時はすでに目の前へと訪れていた。
「……嘘だ」
ぽつりとつぶやく声が、人の少ない放課後の職員室に雫の音を落とす。かろうじて動いた口以外微動だにできないほど、あんずは手渡された紙面から目を離せないまま呆然と立ち尽くした。
「おや、本人から聞いていないんですか? 彼は二年次から変わらず志望しているんですよ」
季節は秋も半ば、あんずが手にしているのは三年生が記入し提出した進路希望調査書。進路指導教諭である椚章臣に呼び出され、これを参考に彼らの卒業後を見据えたサポートおよびプロデュースを頼みたいとのことだった。
調査書を見る限り、大半はここのところ話題になっているESビル内に拠点を置く芸能事務所へ所属し、今後もアイドルとして活動を続けていくつもりのようだ。中にはアイドルではなく俳優一本にしぼったり、演出家やテレビ番組制作など裏方の仕事へ転身したり、芸能活動を一時休止して大学へ進学したいとする者もいた。
しかしこの一枚だけはあんずにとって想定外の事態だった。そんなことを話しているのを聞いたことも、誰かと話しているのを見たこともなかった。寝耳に水とはこのことかと、したくもなかった経験にあんずは頭を打ちのめされる。
『第一志望:留学 / 志望先:Paris』と絹糸のように細く美しい字で書かれた調査書の氏名欄には、同じく流れるように美しい筆跡で『3−A 斎宮宗』と綴られていた。
はなむけのフルール・ド・ソワリー
「──本当なんですか」
夕日の差し込む部屋、ふたりきり。あんずは乱れたままの息で、こちらを向く背の陰に問いかける。
「……椚先生から聞いたのかね」
「いつから決めていたんですか」
「二年の時から漠然と考えてはいた。意志を固めたのはここ最近だね」
「どうして話してくれなかったんですか」
「自分ばかり問いかけるな、僕の問いにも答えたまえ。……いずれ話そうとは思っていたのだよ、影片にも、君にも」
「……アイドル、辞めるんですか」
夕暮れの焼けるような光が、陰となっていた背の向こうから差し込む。思わず眩んでしまいそうになる反面、振り返ったその姿はあんずの目を引きつける。
「君はこの半年、僕の何を見てきたのかね」
無数の色と模様を織りなす布、整然と並べられる糸。数々の細かな裁縫道具に、縫製途中の衣装がかけられたトルソー。ここは手芸部部室、宗の夢が詰められた場所だ。
あんずは職員室で章臣から話を聞いたのち、一心不乱に手芸部部室まで走ってきた。きっとここにいるだろうというあんずの憶測は当たっていた。本人の口から聞かねば納得ができないと、頭の中に次々と生まれてくる不安を問いにして宗に投げかけた。
宗は呆れたようにため息をつくとあんずの正面に向き直る。
「アイドルを辞める気はさらさらないから安心したまえ。理想の芸術への道のりはまだまだ長い、半端に終わりたくはないからね」
「でも留学したら今までどおりには」
「そうだね、影片をひとり残すことになるから、ふたりそろっての活動は減るだろうね。けれど有事には随時帰国するつもりでいるし、こちらで舞台にも立つ。完全に活動を休止するわけではない」
留学はするがアイドルを辞めるわけではない。その言葉が聞けただけであんずの心はいくらか落ち着きを取り戻した。
だが今までのように頻繁に顔を合わせることはできなくなる。いずれ卒業してこの学び舎からいなくなることは理解していたが、まさか外国へ飛び立つだなんて。時折帰ってくるとは言えど距離の壁は高い。あんずの頭に宗への問いがまたも湧いてくる。パリ──フランスまではどのくらいの距離があるのだろう、飛行機で何時間かかるのだろう?
──どのくらい向こうにいるのだろう。
「このまま小さな箱庭にとどまっているのもこれはこれで居心地が良いが、外の大海を知るいい機会だと思ってね。服飾において最先端をゆく芸術の都・パリで、己の腕を知り、さらに磨きをかけたいんだ。そして吸収したものを自身の、Valkyrieの芸術として昇華させる。世界の俗物どもに僕たちの芸術を見せしめてみせる!」
自身の夢を追い求め、さらなる可能性を広げるため、宗は大きな一歩を踏み出そうとしている。『プロデューサー』としてはその邪魔をしてはいけない。彼が心置きなく飛び立てるようその背を押してあげるのが自分の役目なのだということをあんずはわかっていた。しかしそれでも彼女の胸に渦巻くもやは晴れない。
「……そんな顔をするんじゃない」
浮かない顔をしたままのあんずを見かねた宗が彼女を諭す。
「別に永遠の別れというわけではないだろう。距離は離れてしまうけれど、今後も君の世話になるだろうし、今ではビデオ通話もあるのだからいつでも顔を合わせられる。君は親がそばにいなければ嫌だとごねる子どもかね?」
そう、これは永遠の別れではない。会おうと思えば会うことだってできる。けれど今後も今までどおり──会う場所は変われど──顔と顔を向かい合わせて仕事の話をしたり、縫製について師事してもらったり、ともに同じ時間を過ごしていけると思っていた。これらが容易にできなくなるという事実を突如突きつけられたことで、あんずはこんなにも胸にもやが広がる原因を再認識する。
「……そうですよね、完全に会えなくなるわけじゃないですもんね。留学、応援してます。斎宮先輩」
あんずは笑顔を取り繕うと、持て余した両手を後ろ手に落ち着きなく絡ませ、それ以上宗に問いを投げかけるのをやめた。
* * *
色づいた木々の葉はとうに散り落ち、新たな芽のつぼみがほころぶのを今か今かと待ちわびる季節。校内はきたる卒業式に向けて、せわしなく、かつ粛々と動いていた。
そんな喧騒から少し離れた、誰もいないはずの放課後の教室から涼やかなメロディーが聞こえてくる。それはオルゴールの音。少し古めかしいやわらかな音色は心の底に眠る郷愁を引き出した。
途端、カタン!という物音が教室内に響いた。音のした方をはっと振り返ると、教室の出入口になずなが立っていた。
「……仁兎先輩?」
「ご、ごめっ! 邪魔すりゅつもりらにゃかっらんら!」
なずなはわたわたとあわてながら床に這いつくばり、落としたらしい何かをたぐり寄せる。その『何か』というのは一つのカセットテープだった。なずなはそのカセットテープをブレザーのポケットへしまった。
「……驚かせちゃったな、ごめん」
「いえ、大丈夫です」
誰もいないはずのその教室は2−A。あんずはひとり自分の机に向かって書き物をしていた。机の上には、年度の切り替わりにあたって必要となる仕事上の書類が積み重なっている。
「先輩、何か用でしたか?」
「ああ、まこちんいないかなって思ってさ。卒業式のときに放送委員の仕事で頼みたいことがあったんだけど、どうやらいないみたいだな」
するとなずながあんずの机へと歩み寄り、同じく机の上に置かれているオルゴールを物珍しそうに眺めた。
「このオルゴール、あんずのか?」
「はい、そうです」
「すごく綺麗な音色だな。思わず惹きつけられて聞き入っちゃったよ」
年代物の古いオルゴール。演奏のテンポが徐々に落ち始めているのに気がついたあんずがオルゴールのねじを回すと、取り戻した元のテンポでメロディーが奏でられていく。あんずはそうしてオルゴールの演奏を途切らせることなく教室内に響かせていた。
「このオルゴール、斎宮先輩がくれたものなんです」
「えっ、斎宮が?」
「返礼祭のとき、ホワイトデーの贈り物にと」
返礼祭。卒業する三年生へ感謝の気持ちを贈るため、在校の下級生たちが主体となってライブをおこなう校内ドリフェス。校外に向けても公開しており、時季的にはホワイトデーと重なるのと、ちょうどひと月前におこなわれたショコラフェスと連動しているのもあり、一般客側からするとそういう意味合いでの『返礼祭』という印象の方が強い。
表ではアイドルからファンへとチョコを贈ったが、彼らアイドルたちの間でも楽しそうに交換会がおこなわれていた。それはあんずも同じで、各アイドルへ手作りのチョコを手渡していた。もちろん宗にも。チョコのお返し、そして普段からの礼として彼がくれたオルゴールを、あんずは大事にしていた。
「へ〜、確かにあいつこういうの好きだもんな」
「私もこのメロディーが好きで、よくこうしてひとりで聞くんです。どこか懐かしくて、心が温かく優しい何かでつつまれるような……そんな幸せに浸れるんです」
たった一年、されど一年。この学び舎で過ごしたかけがえのない濃密な日々。教室、練習室、図書室、講堂、運動場、屋上──校内の様々な場所があんずの脳裏に映し出されては、場面が次々と切り替わっていく。その最後に映し出されたのは手芸部部室だった。あの場所で紡いだ時間と思い出は、彼女にとって何にも代えがたいものであった。思い出の中にはいつも宗がいて、思い返す度にまるで夢を見ているかのように温かな気持ちで満たされる。幸せなひとときだ。
「斎宮、確かここを卒業したらパリへ留学するんだよな」
「は、はい、そうです」
「あんず……このままでいいのか?」
あんずの喉がひゅっとなる。あんずはなずなの問いかけに息が止まる思いだった。なずなは真剣な表情であんずと向き合う。
「えっ、と……それはどういう意味で……?」
「斎宮のことだよ。おまえ、あいつのこと好きなんだろ?」
どうして知っているのかと今度はあんずがわたわたあわてだすと、なずなには「見てればわかる」とあっさり言われてしまった。
なずなの指摘どおり、あんずは宗のことが好きだ。いつからというのは明確ではない。誤解されやすい宗の人となりを知っていくうち、彼の中にある温かな本来の『心』に惹かれ、いつしか密かに恋心を抱くようになった。
先のショコラフェス──もといバレンタインに手渡したチョコも、『宗とマドモアゼルに』という名目で、他のアイドルに渡したものより少しトッピングを多くしてみたり、ラッピングにもこだわったり、こっそり差別化を図っていたのだ。あんずの努力が宗に伝わっているかどうかは定かではないが、あの宗が受け取ったということは少なからず好意的ではある──とあんずは勝手に考えていた。
Valkyrieも返礼祭に出たいとみかから申し出があったときにも、彼になずなと同じことを言われたのをあんずは思い出す。宗のことをよろしく、怖い顔をしてることが多いけど、どうか最後は幸せな笑顔にしてあげて、とみかに伝えると、彼は快く受けてくれたのち、すっと切りだした。
『でも、あんずちゃんはそれでええのん?』
自分が宗に想いを寄せていることを、あんずはみかには話していたのだ。みかはあんずのことを、宗を笑顔にできる貴重な一人だと思っている。あんずがこのまま宗に想いを伝えないまま離れ離れになってしまうのを、みかは懸念しているのだ。
みかに問われたときには上手く答えることができなかった。『アイドル』と『プロデューサー』という立場上、これ以上親しい関係になるのは好ましくないということをあんずは理解している。理解しているからこそ、行き場のない想いを持て余していた。ましてやその想い人は、幾日後かには遥か遠く異国の地へと旅立ってしまう。どうすればいいのか見当がつかぬまま、何もできずに時間だけが過ぎてしまっていた。
あんずは顔をうつむかせ、返す言葉をなくす。
「その様子だとまだ告白してないんだろ」
「いいんです、伝えたところで迷惑をかけてしまうだけですし」
「迷惑に思うかどうかはあいつが決めることだと思うぞ」
えっ、と予想だにしていなかった返しにあんずは顔を上げる。なずなと目が合うと、彼はあんずにニッと笑いかけた。
「相手にどう受け取ってもらえるかなんて、やってみなきゃわからないだろ? 言わないままずっと後悔する方がよっぽどおまえを苦しめると思う。あいつは傲慢でひねくれてて面倒くさい性格してるけど、この一年そばにいるのを許していたおまえのことを今さら拒絶するほど薄情なやつじゃない」
伝えてしまっていいのだろうか、受け入れてもらえると期待してしまっていいのだろうか。あんずは恐怖に身が縮む思いだった。確かに出会った当初と比べれば、宗の人に対する態度はずいぶんやわらかくなった。けれど彼の優しさを知っているからこそ、それに甘えてしまうことになるのではという不安もよぎる。
しかしなずなは、動かなければ何も始まらないとあんずの背中を押す。『後悔』の重みを知る彼の言葉は、あんずの固まった思考をほぐした。
「この際だから思ってること全部ぶちまけてやれ! 斎宮みたいなやつには正面から直球でいくのが一番効果的だからな」
オルゴールの音がまたも止まりそうになる。するとなずながそれを机から持ち上げ、あんずの両手を取ってその中に収めた。
「おまえら二人が回す歯車は、きっと止まることはないよ」
胸を打たれたあんずの瞳に、うるうると薄い水の膜が張る。しゃんと姿勢を正したあんずは、なずなに誓うようにしてしっかりとうなずいた。
「仁兎先輩、ありがとうございます……! 私もこのオルゴールを見習わないといけないですね……うん、自分で踏みださなくちゃ」
あんずはオルゴールを見つめながらひとりごとをつぶやいたかと思うと、はっと何かを思い立ったようにあわてて自分の荷物を鞄に詰め始めた。
「あ、あんず? どうしたんだ?」
「ごめんなさい! ちょっと影片くんに会いに行かなきゃって思って」
「影片……みかちん? 斎宮じゃないのか?」
「斎宮先輩を送りだすための準備をするんです。こうなったら立ち止まっていられません」
そう話すあんずは楽しそうに、晴れやかな笑顔をなずなに見せる。彼女は教室の出入口で律儀に一礼をしたのち、足早に去っていった。相変わらずせわしないなあと、なずなは彼女の跡を眺めながらふっと笑みをこぼす。
「頑張れ、あんず。お前ならできる」