一度目にした瞬間から、その心はあっという間もなく容易に奪われた。
歴史の長さと精巧さを兼ねる建物が立ち並ぶ街が、雲の中を抜けて眼下に広がる。その中央にそびえ立つ塔──エッフェル塔がこの街のシンボル。古きよき伝統と、夢の未来への革新を同時に発信していく世界最先端の芸術の都・フランスのパリに、遥か遠く東の海の向こうから一機の旅客機が降り立った。
ひとあし地につければ、澄み渡る鮮やかな青天に迎えられ、初夏の乾いた風が爽やかに頬をかすめていく。おそるおそる踏み入る街は、視界に映るものすべてに興味を引かれるほど芸術美にあふれている。駅から始まり、通りに面する店の看板、ショーウィンドウ、街灯、アパルトマン、通りの反対側や少し遠くに見える美術館、公園、寺院、教会……。それらに施される装飾や彫刻に目を奪われ、心のシャッターが間に合わない。これほどの西洋文化を東の国で体感するのはなかなか難しい。この街全体がひとつの大きな美術館のようだ。想像していたのより規模の違いに圧倒される。
「──ついに、来たんだね」
「来たんやなあ。フランス、パリ……!」
ふたりの旅人は初めて触れるパリの空気を取り込もうと深呼吸をひとつして、これから始まる旅への希望を託すように、通りの奥の方に小さく見えるエッフェル塔をきらきらとした瞳で仰いだ。
「せやけどあんずちゃん」
「どうしたの、影片くん」
「ここ、どこやろか?」
「……どこ、だろうね」
ぬあ〜〜〜!!という間抜けな叫び声が天高くへと響き渡った。
恋はひそかなオートクチュール
あんずとみかがここフランス・パリへとやってきたのは、数日前のできごとがきっかけだった。
ES所属のアイドルたちそれぞれの個性を活かして作られる、世界でたった一着だけの『専用衣装』。その企画を取り仕切るあんずが、みかの相方である宗の専用衣装を作り上げたときのことだ。話が持ち上がった際パリにいた宗は、すでに参加を決めていた現地でのグループ展へ展示する作品の製作で忙しくしていた。そのため本来であれば自らの手で一から創りあげるつもりでいた専用衣装の製作をほぼあんずに一任することに決めた。それでもいてもたってもいられず、専用衣装の完成を待たずして日本に一時帰国した宗はあんずにいくらかの──と言うには量が多く事細かな──修正点を伝え、彼自身は最後の仕上げを務めた。
そうして無事に宗の専用衣装『スカーレットエンペラー』が完成した。宣伝用の撮影を終えたのち、宗は迫るグループ展の準備のため、別れを惜しむ間もなく再びパリへと飛び立っていったのだ。
「えっと、あんずちゃん地図持ってへんかったっけ?」
「紙の地図はないけど、スマホのアプリを開けば……って、あれっ、これ方角どうなってるんだろう……」
「んあああ!! おれたち、勝手のわからない外国で路頭に迷って、このまま飢え死にしてまうんや〜!!」
みかが誇大妄想を膨らませ、無意識に不安を煽る。ご覧の通り、ふたりは目的地への道に迷ってしまっていた。
「大丈夫だよ、いざとなったら誰かに聞こう」
「あんずちゃんフランス語できるん!?」
「できないけど……翻訳のアプリもあるし、なんとかなるって!」
ずいぶん便利な世の中になったものだ。スマホひとつさえあれば困ることがないくらいだ。あんずは手にするスマホアプリの地図と一枚のチラシ、そして周りの景色を何度も見比べ、きょろきょろとしながら進むべき道を探す。しかし初めての街並み、異なる空気、馴染みのない言葉──『外国』という大きな壁がふたりの前に立ちはだかっていた。
あんずが手にしているチラシは、宗が先日パリへ戻る際にくれた、彼がこの度参加するグループ展のもの。チラシとともに留められている紙はその招待券二枚分、証明として宗のサインが流麗な筆跡で記されている。宗は「どうせ来られないだろうけど」と言ってあんずにチラシを手渡したが、宗が日本を発ったあと、みかの提案により宗に内緒でこっそりグループ展を訪れて驚かせようということになったのだ。あんずもみかもフランスもといパリを訪れるのは初めてのこと。見栄を張るあんずにみかは多少の不安を覚えるが、彼も自信があるわけではない。あんずのことは信頼している。彼女とともにこの困難を乗り越えねばと頭を振るって己を鼓舞した。
あんずはあんずで初めてのパリに心躍っていた。彼女はこういった西洋の雰囲気が好きで、かねてから憧れを抱いているのだ。ほんの数日ぶりとはいえど、こちらで宗に会うのも初めてだ。宗が普段どんな生活を送り、どのように人々と交流しているのか、あんずは心配も兼ねて気になっていた。黙って来たことを怒られるかと思うと少し緊張もするが、彼を頼るわけにはいかない。自分たちでなんとかしなければと地図とのにらめっこを再開した。
そうしてなかなか次の一歩を踏みだせずにふたりがおろおろしていると、ふと背後から声をかけられた。
「Maybe you want to go “there”(もしかして『そこ』へ行きたいの?)」
ぎょっとしたふたりが振り返ると、そこにいたのは若い男性だった。背が高く、なめらかな栗色の髪がつややかに陽の光を反射する。おそらく現地の人なのだろう、淡い青色をした瞳の彼は朗らかな表情であんずとみかに視線を投げかける。パリではフランス語だけでなく英語も通じると聞いてはいたが、自分たちが観光客だと一目でバレてしまうとは。意気込んではるばるやってきたはいいものの、あんずはいささか自分が情けなくなった。
「んあっ!? え、えっと……ぼ、ぼんじゅ~る……?」
「違うよ影片くんっ、この人がしゃべってるのフランス語じゃなくて英語だよ! あー……『I’m sorry, we cannot speak English and French each well. Could you speak repeat one more(ごめんなさい、私たち英語もフランス語も上手く話せないんです。もう一度話してもらえますか?)』」
勇気を振りしぼったあんずが精一杯の英語で返すと、青年はあんずが手にしているチラシを指差し、にこりと笑った。
「You want to go there, right I’m just going too, I’ll guide you.(そこに行きたいんだろう? 僕もちょうど向かうところなんだ、案内するよ)」
青年はにこやかにそう言ってひとり歩きだすが、あんずとみかは互いに顔を見合わせ、彼を信じてよいものか半信半疑でいる。ふたりがついてこないことに気づき、きょとんと立ちすくんだままの彼らを目にした青年は、ボトムスのポケットからスッとスマホを取りだしてさらに言葉を続けた。
「Would I like to call “Shu”(なんなら僕から『シュウ』に電話してみるかい?)」
* * *
あんずとみかに声をかけてきた青年は、宗が通う服飾学校の同級生だった。あんずが手にしていたチラシ、招待券に記されていた宗のサインが目に入り、声をかけたという。ふたりは事情を説明したうえで、彼に会場まで案内してもらうことにした。
『へえ、シュウの学校の後輩なんだ』
「はい、宗さんがいつもお世話になってます」
「お師さん、こっちでも上手くやってるんやろか……?」
『シュウとはよく話すよ。気難しい性格をしてるけど、創造性と縫製の腕はピカイチだ。僕も彼の才能に憧れる』
街中を走る路線バスに揺られながら、お互い翻訳アプリを駆使して会話をする。青年は幸いにもフランス語のほかに英語も堪能で、アプリを使わなくてもかろうじて理解できる内容もあった。
大通りを走っていたかと思いきやひとつ裏の小さな通りに入ったりして、その度に窓枠の景色が移り変わる。青年の話によれば会場まではさほど遠くなく、このバス一本で最寄りのバス停に到着するという。
『ええと、ミカにアンズといったね』
「おん! お師さんとふたりで『Valkyrie』いうアイドルやってるんよ」
『アイドルか、シュウの相方だなんてすごいね。苦労させられることも多いんじゃないかい?』
「確かにお師さんの言うことは細かくて厳しいけど、お師さんと一緒に舞台に立つのがおれにとっていちばんの幸せやから。お師さんとValkyrieのためなら何だってしたいんよ」
みかがにっこり笑うと、青年も納得したように『そうか』とつぶやき、にこりと微笑んだ。そして次にあんずへと目線を移す。
『それで、アンズはシュウの……?』
「わ、私は──」
「あんずちゃんはお師さんのガールフレンドやねんで♪」
あんずが最後まで言葉を紡ぐ前に、なぜか嬉しそうにしているみかが取って代わってしまった。正直に話そうかどうか迷っていたあんずはあわてふためく。
『君が、シュウのガールフレンド?』
「かっ、影片くん!! 何もそこまで言わなくても……!」
「へっ、あかんかった?」
嘘はついてへんけどなぁ……と悪気はないらしいみかをあんずがむうっとにらむと、その視線に気がついたみかはビクッと肩を跳ねさせ、両手を合わせて「ごめん~!」と謝罪した。
宗とあんずが交際を始めたのは、宗が夢ノ咲学院を卒業し、パリへ飛び立つ前のこと。あれから数ヵ月、月日はまだ浅い。早々に遠距離交際をすることになったふたり、もちろん双方ともに承知のうえではあるが、寂しくなることはどうしてもある。日本での仕事の関係でやむなく帰国したりもするが、ふたりきりの時間が取れることはあまりない。数日前にも顔を合わせているとはいえど、宗に逢えるというのはあんずにとって貴重な機会なのだ。
『アンズはシュウのどんなところが好きなの?』
「えっ!? えっと……揺るがない確かな『自分』を持っていて、細かに気遣ってくれる優しいところ、でしょうか」
もじもじと気恥ずかしそうにあんずが答えるも、青年はピンと来ない様子できょとんと首を傾げる。
『……シュウが、優しい?』
「一年前まではそんなことなかったんやけど、最近はおれや、特にあんずちゃんには甘いねんなぁ」
「そんなことないよ、影片くんにだって同じくらい優しいよ」
「いやいや! やってお師さんが誰かを好きになってお付き合いするなんて、前までのお師さんやったら考えられへんかったもん! あの人、不器用なところあるけど、それだけあんずちゃんのこと好きなんよ。お師さんが電話でいつもあんずちゃんのことなんて話してるんか、教えてあげたいわ……」
「えっ! 影片くんに私のことを……!? ……それ、詳しく聞いてもいい?」
「ごめん……お師さんに口止めされとるから言えへんねん……」
なんでよ~!と軽く憤慨するあんずの声が車内に響く。しかしここが公共の場だとすぐに思い出した彼女は再び気恥ずかしさを感じたのか、途端に口をつぐんだ。
あんずとみかのやりとり、そして恥ずかしそうにしながらも喜びを抑えきれない様子で照れ笑いをにじませるあんずを眺めながら、青年は何かにピンと来た様子でぼそりとつぶやく。
「──Je vois, tu es le “Abricot”.(なるほど、君が『アブリコ』だったんだね)」
「? 今、何か言いましたか? すみません、声拾えなかったので、もう一度……」
『気にしないで。ただの独り言さ』
三人を乗せたバスは、目的地への最後の交差点を曲がっていった。
* * *
バスを降りて数分歩いた場所に会場の建物はあった。優美なアール・ヌーヴォー調のそれは青年曰く、昔、銀行として使われていたのを、現在は市民が気軽に使えるホールとして貸し出しているとのことだった。玄関ではあんずたちの背の二倍ほどある大きな観音扉が開かれた状態で出迎える。その手前に置かれたキャンパスボードには、額縁に入れられたグループ展のポスターが立てかかっていた。今回の出展作者の一覧に、確かに『Shu Itsuki』の名が連なっているのを見つけたあんずとみかはそろって喜びの声を上げる。
おそるおそる中に入れば、奥まで真っ直ぐに長い廊下が伸びており、そこからいくつも枝分かれするようにして部屋が続いているのがわかる。屋内も見事なアール・ヌーヴォー調の装飾が施されており、当時の絢爛さを今もなお保ち続けていた。
「すごい……これが本場……」
「なんや緊張してきたわぁ……。お師さんおるんかな?」
本場の芸術美に圧倒されるばかりのあんずとみかをよそに、ここまで案内してくれた青年はふたりの分も合わせて受付をしてくれている。彼は受付の人と話を終えると、グループ展のパンフレットをふたりに手渡した。
『聞いたら、今日は展示作品の作者たちのサイン会をおこなっているらしい。このパンフレットを買うと参加できるんだって』
「サイン会……えっ、じゃあお金を」
『いいよ、僕からのプレゼントだ。順路どおりに進んで、最後にそのスペースへ入れるそうだから行っておいで。シュウもそこにいるってさ』
「宗さんが!?」
「お師さん!? お師さんここにおるん!?」
宗が近くにいる。その事実にあんずとみかのテンションはたちまちに沸き上がった。何しろ本人に黙って来たものだから、会場にいるかどうかまではわからなかったのだ。目をキラキラと輝かせるふたりに青年はおかしそうに笑う。
『ははっ、君たちは本当にシュウのことが大好きなんだね。思いきり驚かせてやるといい。僕は会いたい人がいるから、ふたりで先に回ってて』
青年はにこやかな表情でひらりと手を振ると、関係者入口らしい扉の奥へ消えてしまった。頼りになる人間がいなくなり、さらなる緊張がふたりに走る。自分たちが日本からはるばるここまでやってきたと知ったら、宗はどんな顔をするだろう。驚いてくれるだろうか。そのあとは怒られるだろうか、喜んでくれるといいな。高鳴る胸を抑えながら、あんずはみかとともにゆっくりと会場内を進み始めた。