そのチョコレートは愛の形をしている そのチョコレートは愛の形をしている。
彼女から送られるチョコレートはハートの形をしている。心の形を模したそれ。愛の姿を表したそれ。彼女からの愛と思いやりと労いと義理の詰まったそれ。市販の板チョコを材料に大量生産されたそれ。両手両足の指でも足りない程の人数に等しく分け与えられるそれ。形だけの愛を渡される、それ。
——なんて。少し前まで、そう思っていた。
「ひなたくん、暇ならちょっと手伝って」
「いいよいいよっ。何すればいい?」
背後から手助けを求めたあんずさんは、お気に入りのピンクのエプロンを纏って立っていた。邪魔にならないようにシャツの袖は肘より上で腕まくりして、髪はいつもより高めの位置でポニーテールにしてある。先ほどから一人でキッチンに籠っていた彼女が声をかけてくれたのが嬉しくて、二つ返事でOKし立ち上がる。暇つぶしに見ていたテレビはもう消してしまおう。
「小麦粉ふるいにかけるの手伝ってほしいんだ。あ、キッチン場所ないからそっちでいいよ」
「は〜い。今年は何作るの?」
「マフィンにする。ココアと抹茶と紅茶の三種類」
残念。キッチンで並んで仲良く作業できると思ったのに。座っていたテーブルにとんぼ返りし、あんずさんからボウルやらふるいやらの道具一式を受け取る。ダイニングとキッチンを二往復して全ての道具を運び終えたあんずさんは、忙しなくキッチンでの作業を再開していた。
「あんずさんこれ量は?」
「そこに置いてある三袋まるまる使って」
「相変わらずすごい量だね〜。ケーキ屋さんみたい」
「毎年渡す人増えてる気がするな。もうメモしなきゃ把握できないよ」
これだけの量、一体何人分になるのだろう。引く手あまたの敏腕プロデューサーさんのことだ。アイドルだけでも百人くらいになるのではないか。いっそ市販品にしてしまえと思わなくもないけれど、アイドルはみんなあんずさんからの手作りのそれを毎年楽しみにしているのだから、余計なことは言わないに越したことはない。
薄力粉の一袋をふるいにかけ終わる頃には渡されたボウルはいっぱいになってしまった。ひとまず埋まったボウルをキッチンに持っていったが、あんずさんは材料をはかりにかけるので忙しいようだった。とりあえず一袋分、ここに置いておくよ、と声をかけるも、こちらを見ることもなく「ありがとー」と気の抜けた返事を投げられる。ボウルをわかりやすい位置に置いて、新しいボウルを二つ持っていく。
おかしいなあ、二人で一緒にラブラブお菓子作りを想定していたのだけれど。恋人同士のバレンタインってもっとなんかこう、ちょっとお高いスイーツを二人で楽しんだりいいとこのレストランに食事に行ったり凝った手作りお菓子をあ〜んで食べさせてくれたりするような、チョコレートのようにとろとろで甘ったるいひとときを過ごせる日なのではないのだろうか。まあ今日はバレンタインのその前日だけど。当日には二人とも朝から晩まで仕事が入ってしまったのはバレンタイン商法に乗っかるアイドル業界の人間として仕方のないことだけど、まさか付き合って初めてのバレンタインデーの前日に半休が被った奇跡を他の男へのチョコの量産に消費されるとは思っていなかった。浮かれてディナーとか予約しちゃわなくて本当によかった。ああ、本当に。
そんな不満を募らせているうちに大量の薄力粉は空気をまとってふんわりこんもり、二つの山になっていた。あんずさんは相変わらずキッチンで俺に背を向けて、何かの作業に夢中になっている。
「あんずさ〜ん。こっち終わったよ」
「ありがと。こっちの材料ももうすぐ量り終えるから、混ぜるのも手伝ってもらおうかな」
「……ねえ、作るの夜でも良くない? せっかくのバレンタインイブに彼氏ほっといて職場用のチョコ作るの?」
「量が量だから早めに着手しておきたいんだよ。ごめんね、いい子で待っててね」
あんずさんはこういうときはいつも俺の機嫌を取るように頭を撫でてくるのだけれど、今日は手の汚れを気にしてか、泡立て器で塞がれた利き手をこちらに伸ばしてくることはなかった。
「ひどぉい、アタイより職場の同僚のが大事ってこと? アタイのことなんてどうでもいいのね!?」
「よしよし、そんな質問させてごめんね」
「そんなネットで検索したみたいな模範解答で返さないでよ」
——本当は、ちょっとお高いスイーツやいいとこのレストランの食事を楽しみたかった。今日だってここにくる前に普段なら躊躇ってしまうような上品なスイーツショップの前でお土産を買って行こうかかなり迷ったし、数ヶ月前には『バレンタイン ディナー おすすめ』で検索して良さげなお店を見繕ったりもした。そのどれもを結局実行に移さなかったのは、こうなることがなんとなくわかっていたからだ。恋人たちのための特別な甘い一日だって、きっとこの人は大好きなみんなのために費やしてしまうのだろうと。そんなことは承知の上で恋人の座を手に入れたつもりだったけれど、いざ本当に恋人そっちのけで作業されるのはちょっぴりしんどい。
今後ろから抱きついたりしたら怒られるだろうか。邪魔しないでって怒られるんだろうなあ。バレンタインって、俺が主役のはずなのに。
一歩、あんずさんから遠ざかる。あんずさんは気にする様子はない。二歩、三歩、さらに距離を置く。目の前のクッキングスケール以外見えていないようだった。そのままそろそろキッチンを離れて、ダイニングの机まで戻ってきてしまった。なんで俺が他の男どもに配る用の義理チョコを作らなきゃいけないんだよ。キッチンのあんずさんに背を向けて椅子の上で膝を抱えて、顔を塞いだ。
「……ひなたくん」
多分一分も経っていないけれど、体感では何十分も過ぎたみたいだった。すぐそばにいるはずの人に放置されるのは一人でいるよりも辛い。顔を上げれば、あんずさんが今更、伺うように顔を覗き込んでいた。
「……怒った?」
「……それ俺以外には絶対言わないほうがいいよ。火に油だから」
「拗ねた?」
「誰かさんのせいでね」
あんずさんは膝をついて、俺に目線を合わせる。まるで子供扱いだと思った。それと同時に、子供みたいに不貞腐れているのが少しだけ恥ずかしくなった。ほんの少しだけ。悪いのはほとんどあんずさんだし。
「ひなたくんのことがどうでもいいわけじゃないんだよ」
「知ってるよ。でも今は俺よりチョコ作るほうが大事でしょ」
「ひなたくんの分だってちゃんと用意してるよ」
「知ってるよ。毎年くれてるじゃん」
どんなに忙しくしていても、この人は高校生の時から欠かさず俺たちにチョコを配っていた。作るものは年によって、または渡す人によって違うけれど、アイドルに等しくお菓子を施し続けていた。今年だってあんずさんはちゃんと俺にチョコをくれる。甘いものが好きな俺にはきっとチョコのマフィン。どうせ上にチョコペンでハートとか描いてくれる。
あんずさんが口を閉ざした。顔を上げれば、気まずそうに下の方に視線をやっている。ほらみろ。
「……ごめんね、ひなたくん。去年まであげてたのは義理なんだ」
「……知ってるけど」
「……なので、今年はちゃんと、本命を……」
用意、して、ます。
最後の方は声が小さすぎてほとんど聞こえなかった。けれど。
「今本命って言った?」
「言ったよ。さすがの私も彼氏にみんなと同じチョコ渡さないよ」
「あんずさん本命とか作れたんだ」
「だって今年は……、ひなたくん、いるし」
やっぱり気まずそうに目を逸らすあんずさんの顔がじわじわと赤く染まっていく。
「ひなたくんが来る前にガトーショコラ作ってあって……。今、冷蔵庫で冷やしてるの」
「……食べたい」
「多分まだぬるいよ……」
「じゃあ半分だけでも今食べたい」
「いいけど……。ハート型、半分にしちゃっていい?」
「ハート型なの!?」
あんずさんの言う通り、冷蔵庫にはハートの金型に入ったケーキが鎮座していた。まだデコレーションもトッピングもされていないけれど、確かに俺のためだけに用意されたチョコだった。
「ガチの本命じゃん!?」
「本命だもん……」
あんずさんの顔はもはや真っ赤だった。多分俺もつられて、それなりに赤くなっていると思う。
見たか、優に百人を超えるであろうあんずさんからチョコをもらえる予定の男ども。君たちみんな俺が手伝った量産のマフィンだけれど、俺だけは世界に一つだけの、特別なチョコケーキを用意されてるんだぞ。
そのチョコレートは愛の形をしている。世界にひとつだけの、俺だけのための愛の形を。