良いと仰るのであれば 部屋に入ってすぐに彼女の姿が目に入り、それから思わず大きなため息をついてしまったのは仕方のないことだと思う。
端的に言って弓弦は暇だった。その日のスケジュールはただひとつ、夕方の遅い時間からESにてfineのメンバーとプロデューサーであるあんずと共に最近決まったばかりの腕時計ブランドとのタイアップ企画について話を詰める。それだけである。個人としてもユニットとしても他に仕事は入っておらず、取り立てて片付けるべき業務も見当たらなかった。侍るべき主人は現在学友とティータイムを楽しんでおり、「弓弦はいなくていいから!」と釘を刺されている。しかし打ち合わせの予定が入っている以上主人の邸宅に戻るわけにもいかない。故に、早めに現場に入り掃除なり茶の準備なりで時間を潰そうと思い立ったわけである。
ESから支給されている専用の端末で確認したところ、打ち合わせのためにあんずが押さえてくれた会議室はfineの予定時刻の一時間前まで他所のユニットが利用予約を取っていたが、彼らの予約時間は過ぎていた。時間にルーズな人間の集うユニットでもない限り既に空室となっているだろう。そう考えて、会議室のドアをノックした。返事はない。失礼いたします、と一応声をかけつつ扉を開けたが、予想に反して会議室には先客がいた。この後の打ち合わせに参加するP機関所属のプロデューサーであり、自分の同級生でもある少女、あんずである。
彼女が後で使用する資料を人数分用意しながら「お疲れさま、弓弦くん。早いね」などと笑いかけてくれたならプロデューサーとして百点満点の行動だっただろうが、あんずは入室してきた弓弦に一切反応を示してはくれなかった。彼女は部屋の机に頬杖をついて、すうすうと眠りこけていたのである。十分な睡眠時間を確保できないほどに仕事に追われることはこの業界では美徳とされるらしいが、それにしたって彼女の行動は文句なしの赤点である。
よくもまあ、こんな場所で熟睡できるものである。ESの中の大抵の部屋は内側から鍵が掛けられるようにできているが、彼女はそうしていなかった。加えてこの部屋のドアは一部がガラスになっており、その気になれば外側から部屋の様子を覗くこともできる。第三者が彼女の寝顔を盗み見ることも隠し撮ることも、何なら部屋に侵入して鍵を掛けた上で彼女によからぬ行為を働くことだってできるというのに。
「あんずさん、起きてくださいまし」
肩を軽く揺すりながら声をかける。されども彼女はむにゅむにゅと意味を成さない寝言を口にするばかりで起きる様子がなかった。安らかな、何も知らない赤子のような無垢な寝顔が崩れることはない。愛らしい幼子の寝顔は毎朝晩主人のそれを眺めているし、やわらかそうな頬も同じく主人の身嗜みを整えるため毎日触れている。あんずの頬も、主人と同じなのだろうか。胸の奥底でそこに触れてみたいという欲がむくむくと育つのを感じたが、理性でそれを押し殺す。忍耐力には自信があった。
「あんずさん」
再度、先程よりもはっきりとした声で名前を呼んだ。揺さぶる手も気持ち強める。ぐらぐらと身体が波打ち、頬を支えていた右手が滑り頭ががくんと揺れた。その衝撃でようやく彼女はハッとしたように目を覚ます。
「あれ、うそ、打ち合わせ、私、アラーム」
「おはようございます、あんずさん。打ち合わせまではまだ時間がありますので、焦る必要はございませんよ」
寝起き特有のワントーン甘い声が耳に毒だ。触れていた手を肩から離し、慌てる彼女に言い聞かせるようにゆっくり声をかける。彼女は傍に置いてあったスマートフォンで時間を確認し、ようやく落ち着きを取り戻し小さく息を吐いた。
「お疲れさま。弓弦くんは早いんだね」
「時間を持て余しておりまして。どうせなら早入りして部屋の準備でもしておこうかと」
「流石だね……。私も前の仕事が早めに片付いたから色々確認するつもりだったんだけど、どうしても眠くて」
その目元には青い隈がくっきりと現れていた。相変わらず寝不足なのだろう。彼女が睡眠時間を削ってまで仕事に打ち込むのは今に始まった事ではない。欠伸を噛み殺しているのか、口の端がひくひくと戦慄いていた。
「あまりご無理はなさらないでくださいませ。坊ちゃまも心配いたしますし、こんなところで鍵もかけずに寝てしまうのは不用心が過ぎますよ」
「ん〜、ES仮眠室ないんだもん……。大丈夫だよ、大した貴重品は持ってないし、見られて困る資料があるときは寝ないようにしてるから」
弓弦が心配したのは機密事項の漏洩などではないのだが、彼女には伝わっていないようだった。この警戒心の薄さも、彼女が紅一点として学生生活を送っていた頃からずっとである。日常茶飯事だと嘆息するに留めるべきか、一度しっかり警告した方がいいのか。部屋の壁時計に目をやり、予定時刻にまだ余裕があることを確認した上で後者を選んだ。
「わたくしが心配しているのは窃盗や情報漏洩などではありませんよ、あんずさん。うら若い女性が無防備に寝ていらっしゃることに苦言を呈しているのです」
彼女は不満げに唇をもにょもにょと動かしたが、返事だけは素直に次から気を付けまぁすと返した。理解していないのだろうなと思う。一度痛い目に遭わないとわからないのかもしれないが、だからといって痛い目に遭ってほしいわけではない。弓弦にできるのはこうして意味のない小言を垂れながら彼女の幼子のような無垢さが喪われるような事がないように祈ることくらいだ。
「お目覚めになったのでしたらお茶でもお淹れしましょうか?」
「ううん……、まだ眠いからもうちょっと寝る……。先輩たち来たら起きるから」
「わたくしのお話聞いておりました?」
今度は机にうつ伏せになる体制で、しかもわざわざ顔は横に逸らして二度寝に入ろうとしたあんずの肩を思わず掴む。もはや改善を宣言されたと認識した自身の耳の方を疑いたくなった。
「ねむい……」
「こんな場所で寝るのは不用心ですとつい今しがた苦言を呈したばかりですが」
「聞いてたよ」
「気をつけると仰いましたよね?」
「うん、次から気をつけるよ」
目を閉じて脱力したまま、締まりのない声で放たれる言葉はどれも要領を得ない。結局何も伝わっていなかったのだと弓弦はひどく落胆した。いつか本当に痛い目を見てしまうのも時間の問題かもしれない。
「あんずさん」
意図的に怒気を含めて名前を呼ぶ。あんずは既に意識を手放してしまったのか、返事はなかった。
本当に、気をつけてほしいのだ。こんなにも無警戒でいるあなたが悪いのだという言い訳を与えないでほしい。その態度があんずさんなら許してくれると、きっと嫌がることなどないという勘違いを生んでしまうのだから。つい先ほど奥歯を噛んでそれを噛み殺したことに意味なんてなかったのではないかと思えてしまうから。
「いくら知人とはいえ、異性に対して見境なく安易な信頼を寄せるべきではありません」
掴んだ肩を揺さぶる。睡眠の邪魔をされたあんずは不満げな唸り声をあげた。
「……わたくしが邪な考えを抱いていたらどうするのですか」
あんずの瞼がゆっくりと持ち上がる。焦点の合わない瞳はじっとりと恨めしげに弓弦へ向けられていた。恨めしいのはこちらの方だと弓弦は思わずにはいられない。
「……でも」
睡魔に耐えられなかったのか、あんずの瞳は再び閉じられた。肩にかろうじて引っかかっていたポニーテールの毛先が机の上にずり落ちてぱさりと渇いた音を立てる。
「弓弦くんだし」
「————は」
「おやすみ」
すうすうと控えめな寝息が立ち始めたのは直後のことだった。その名を呼んでももう返事はない。むにゃむにゃと唇を動かして、米神から伸びる数本の髪を食んでいた。
集合時刻まで残り四十五分。この際面倒な上司でも喧しい先輩でも、誰でもいいから今すぐに来てくれと縋るように祈りながら、弓弦はあんずの肩からゆっくりと手を離した。
己の主人の頬の方が柔らかいのだと、弓弦はこの日初めて知った。