xoxo「七種くん、ここでは、ちょっと…」
「どうせ誰も見てませんよ」
狭いエレベーターの中で、私の手を握って身体を寄せる茨くん。
どうせ誰も、というよりはたくさんの人が乗っていて、私は気が気じゃない。
真夏でもないのに変に汗はかくし、視線も定まらない。
茨くんの背中に隠された私の右手は、遊ぶように握られ擦られとくすぐったい。
7階でニューディの社員が降りる。
12階でリズリンの社員が降りる。
ここでやっと人が少ないという程度まで減って、ふっと息を吐くと、次に到着した18階で茨くんは降りる。
「あんずさんは20階ですよね?」
「…え?え、えぇ、はい」
私たちの他にはあと3人。
ガラス向こうの青空を背に、どうか振り向かないでと祈るばかりで、繋がれていない反対側の手をぎゅっと握る。
16階で2人降りて、
「猊下とお打ち合わせで?」
「…えぇ」
指と指が絡んで、離そうとするとぎゅっと力を込められる。
17階で最後の1人が降りた。
同時に彼は何食わぬ顔で18階のボタンを連打し、点滅の後消えた。
「七種くん?さえ…わっ」
不審に思い彼の顔を覗き込むと、口角を少し上げてから手を引っ張り、私は勢いよく彼の首元に鼻を打ち付けた。
「いたた…鼻打った」
「1か月ぶりですあんずさん」
「深呼吸しないで茨くん…くすぐったいよぉ」
18階を通り過ぎ、19階の表示を茨くんの背中越に見つめながら力強く抱きしめられるのを甘んじて受け止める。
「だって1か月ですよ」
「…仕事でしょ?」
エレベーターの階数表示が20に切り替わり、私は茨くんの背中をタップする。
しぶしぶという様子で彼は離れ、私はしわになったスーツをポンポンと払うと赤くなった顔を冷ますように手で煽っていると、ゆっくりエレベーターの扉が開いた。
「じゃあ、また、ね。さえ」
お見事ですとしか言いようがないような、瞬きをする一瞬くらいの速さの口づけと、離れた時の茨くんの不敵な顔。
閉まる扉を目で追うときにゆっくり動いた口元。
-す き
しばらくエレベーター前で呆然と。
自分の体を掻き抱くように寄せて扉を見つめた。
「私もすき」
ぼそっとつぶやいた音は、エレベーターで見た青空に浮かぶ雲のように、浮かんで私に取り付いた。
人の気も知らないで。
気を取り直して天祥院先輩と約束をしている会議室へと急ぐ途中、ポケットでブルブルと携帯が震えたので手にすると、携帯と一緒に何かカードが入っている。
メッセージの相手は茨くんで、
-また今夜。
「…こんな気障なことする人だっけ」
彼の家のセキュリティーカードキー。
ご丁寧に私の名前が刻印されている。うっかり私が落としてしまうっていう危機想定はしていないのかと疑いたくなる気持ちと、うれしい気持ち。
1か月会えなかった私は、全部が混ざって複雑な気持ち。
出会った最初こそ、よくもここまでお世辞を使いこなすことができるなと、嫌味を通り越して尊敬していた。
相手に合わせてよく回る頭脳と口は、最早才能以外何物でもない。
例えば私に対して。
美しい、麗しい、花のような、女神…
「流石でありますな!プロデューサー殿!」
すれ違うたびに私を見つけては声をかけてくれる。どこにいても。
この業界、プロデュースを生業とする女性なんて星の数ほど。私は就いた出自が特殊なので、彼が興味を持つのはわかる。
でももう一緒に仕事をして何年も経つ。
その何年という時間も、彼はずっと変わらずに私を見つけた。
そんな、いつまでも変わらない彼を私が目で追うようになり、いつも誘われる食事の後に、私から彼に伝えた。
「七種くん、私はずっと変わらない七種くんのことが気になって仕方がないの」
私だって馬鹿じゃない。
男の茨くんが女の私に費やす時間の意味を、損得勘定だけではないという、それくらいはわかるつもりでいた。
でも、彼そのものについての理解が追い付いていなかったようで、
「…七種くん?」
赤い顔で、口元を抑えて。
お酒はそんなに飲んでなかった気が…なんて。
彼がこんなに喜んでくれるなんて、まったくもって想定外。
罠に掛ったなと言わんばかりに高笑いでもされるだろうと思っていたのに、まさかこんなに押し黙ってしまうとは思わず。
「…それ、俺の事好きってことでいいんですよね?」
やっと口を開いた頃は、レストランを後にして、いつものように私を家まで送ってくれる道中で立ち寄った小さな公園。
ベンチに腰を掛けて、自販機で買った水を何度か喉を鳴らして飲み込んでから、恐る恐る口にした。
「あんずさん」
流石アイドル。
私の名を呼ぶ七種くんは、贔屓目かもしれないけれど王子様のようにかっこよく見えて、痺れるように動かない私の身体は容易く彼の腕に包まれた。
「ずっと好きだった」
瞬間、鈴虫の鳴る音が一斉に止んだ気がした。
俗に言う恋人同士。
最初から覚悟はしていたけれど、茨くんと私は普通ではない。
一緒に出掛けられないし、行くとしても深夜。公園や海辺。そして彼の家。私の家。
こっそり映画館に出掛けたことはあった。最後列の、誰も選ばないような席をあえて選んで。
私は、とにかくプロデューサーとしてアイドルに迷惑が掛かることのないようにと、常に細心の注意を払い行動をしていた。
対して、茨くんは付き合ってみるとどことなく緩かった。
「茨~、次のオフにパソコン選び付き合ってくださいよ~」
コズプロに企画書の持ち込みで立ち寄った時、偶然茨くんと漣くんが立ち話をしていたところに出くわした。
「パソコン?ジュンには不要なのでは?」
「やかましいっすよ。いや、持ってるやつが調子悪くて…」
漣くんとは、地方に行った際のお土産交換をする間柄。
取り寄せができないようなスイーツを、お互い見つけては交換して至福を得ているのだ。
そして、ぼんやりと『じゃぁ、次のお休みは一人でのんびりしようかな』と、考えていたのだ。
「…七種くん、お話し中ごめ」
んなさいと、立ち聞きもよくないのでさっさと企画書を渡して立ち去ろうと声をかけたが、大きな声で上書きされてしまった。
「すみません。次のオフはあんずさんがうちに来るので」
「…は?」
「ですから、あんずさんと会うので無理です。パソコンは後でURL送りますよ」
「なんて言いました?今」
手元から擦り落ちた企画書を拾っていて、私は彼らの視界に入っていないのだろう。
でも、周りにいる事務さんたちの視線はちくちくと針のように突き刺さり痛い。
「はぁ…。彼女と会う約束が先だったので優先してるだけです」
「は!?」
「そもそもジュンとあんずさんとなら、あんずさんを優先するにきまってるじゃないですか?」
茨くんが目を細めて漣くんを見やった後に、見下ろすように視線が下がってバチっと目が合った。
「ねぇ?あんずさん?」
呆然とする私と漣くんをよそに、彼はフフンと鼻を鳴らして反り返っていた。
こんなに性格の悪い男を好きになるなんて、私もどうかしている。
「…あんずさん、今後悔してますよねぇ?」
「…おっしゃる通りで「なんですか?聞こえません」…なんでもない」
本当にどうかしている。