海色のマリッジ 生家に帰るのはずいぶんと久しぶりだった。
見慣れたはずの玄関のドア。くすんだ茶色のドアと塗装がほんの少し剥げかけた銀色のバーハンドルに懐かしいといった気持ちはあまり湧かず、そういえばこんなのだったなぁと他人事のような感想を抱いた。毎日この玄関を通っていたのは遠い昔のようで、その日々のことを思い出すのは難しい。あの頃はこの家に帰ることが当たり前だったから、こんなに玄関の様子をまじまじと観察したのは初めてかもしれない。
あまり音を立てないようにゆっくりとハンドルを引くと、ドアは抵抗することなく小さく音を立てて開いた。施錠されていたらどうしようと思っていたけれど、不用心だなあとも思う。玄関には年中出しっぱなしのお父さんの革靴と、女性もののカジュアルなスニーカーが一足。
ただいまと声をかけた。空が淡く色付き始める夕暮れ時、両親はまだ帰っていないかもしれない。この家で暮らし続けている弟もまだ外に出ているだろうか。時間だけ確認しようとポケットをまさぐったけれど、そこにスマートフォンは入っていなかった。忘れてきた? いつも持ち歩くようにしているはずなのに。まあせっかくの帰省なのだから、たまには仕事のことは気にせず過ごすのも悪くないだろう。そうして空のポケットから手を引き抜いた。
ゆっくりと靴を脱ぐと家の奥から昆布出汁と醤油の匂いが漂ってくる。くつくつと時間をかけて煮こまれた煮物のような懐かしい香り。そういえば長いこと煮物なんて食べていない気がする。食べ物の香りに誘われてふらふらと廊下を進めば、リビングへ繋がるドアの手前、キッチンへの横道から一人の女性がひょこりと顔を出した。
「あんずさん? お帰りなさい〜!」
身体の傾きに合わせて揺れるふわふわした長い香染色の髪は調理のためか後ろでひとつに結われていた。丈の長いマーメイドスカートとゆったりしたシルエットのタートルネックはスタイルのいい彼女によく似合っていて、その上から纏うクリーム色のエプロンは私の母のものだ。袖をまくった腕の先、左の薬指に銀色のリングを嵌めた彼女は自分の義妹である。彼女が家で料理を作りながら弟と義両親の帰りを待っているのもいつものことだった。
「良かった、今日はお仕事早く終わったんですね。お夕飯もうすぐできるので、ちょっと待っててくださいね」
「うん。何か手伝おうか」
「大丈夫ですよ〜! ゆっくりしててください!」
彼女はにっこりと笑ってキッチンに引っ込んでいたので、残された私はリビングへ進むことにした。今日の私は仕事帰りではないのだけれど、彼女はそれに気付かなかったらしい。いつものカジュアルスーツは着ていないし、愛用している大容量のオフィスバッグも持っていないのに。ああそういえば、実家とはいえ久しぶりに帰るのだから手土産くらい持ってくれば良かったかもしれない。誰もそんなの気にしないだろうけど、美味しいお菓子でもあれば弟夫婦は喜んだだろう。廊下の隅に置きっぱなしにしてあるお父さんが買うだけ買って全く使わなかったトレーニングマシンを横目で見ながら通り過ぎる。使わないなら捨てちゃってとお母さんに言われていたはずだけれど、未だ手放していないらしい。
「ただいま……」
「おかえり」
扉を開けるのと同時に独り言のつもりで零した言葉に返事がくるとは思っていなくて、無意識に肩が跳ねた。無人だと思っていたリビングには弟がいて、テーブルの上にノートパソコンといくらかの紙を広げて何かの作業をしているようだった。
「ただいま。それ、レポート?」
「うん、課題」
私と同じように高校を出たらすぐに就職すると言っていた弟を両親と一緒に説得したのも過去のことだ。結果的に進学を選んだこの子は、時間をかけて大人になるための準備をしている。
「二人とも、今日も帰ってくるの遅くなるって」
「そっか、いつも忙しいし仕方ないね」
「久しぶりにあんずが帰ってくるんだから早く切り上げれてくればいいのに」
「そういう訳にもいかないんだよ。お仕事だから」
両親が忙しくしているのはこの数年ずっとだけれど、弟は今日に限って珍しく拗ねたように眉を少し寄せていた。できれば一緒に食卓を囲みたかったけれど、今日は泊まっていくつもりだしそのうち帰ってくるだろう。もうすぐ夕食ができるらしい旨を告げれば、弟は机に広げたお店を片付け始める。
そうしているうちに義妹はキッチンから食器を運び始めたので、私もなにか運べるものをと思ったけれど「あんずさんは今日はゆっくりしていてよ」とやんわり制止されてしまう。かわりに弟が立ち上がってできたての料理を運び始めた。前は義妹が一つ一つ指示を出していたはずだけれど、もう何も言わずともお互い何をするべきかわかるみたいだ。少し離れているうちに二人の間にすっかり夫婦のような雰囲気が漂っていて、どうしてだかほんの少しの寂しさを覚えた。二人とも、大切な家族であることに変わりはないのに。
「今日の煮物、こっちのお母さんに教わったレシピなんですよ」
食卓に並んだメニューは馬鈴薯と人参、蓮根の入った見慣れた煮物にお豆腐とおひたしとお味噌汁。煮物に里芋でなく馬鈴薯を入れるのは私のお母さんの好みだった。夕食にこんなに手間をかけたご飯を食べるのもいつぶりだろうか。最近は自炊など全くできていなかった。
「いつもの筑前煮も美味しいよ?」
「ありがと。でも君が今まで食べてきた料理も作れるようになりたかったんだよ」
仲睦まじく過ごせているらしい二人を横目に馬鈴薯を一欠片口に含む。中までしっとりと味の染みた馬鈴薯は確かに私のお母さんの味で、でもお母さんよりちょっぴり甘みが強いような気もする。結婚前から多忙な両親や私に代わってよく料理を作りに来てくれた彼女の料理の腕前は中々のものだった。
家を出てからずっと、箸の進まない冷たい食事ばかり食べていた気がする。温かいご飯が、慣れ親しんだ母の味がこんなにも心に染み入るものだとは知らなかった。
「……あんず?」
なあに、と顔上げると、正面に座る弟は悲しそうに眉を下げていた。斜向かいに座る妹も驚いた顔でこちらを見ている。どうしたのとさらに続けようとして、雫が頬を伝って口元まで流れ落ちていたことに気が付いた。
「え、なにこれ、……あ」
それもまた、久しく忘れていた感覚だった。どうして雫が頬を伝うのか一瞬わからなかったくらいに。
「——ちがくて。えっと……美味しくてびっくりして」
事実ではある。けれど義弟妹に余計な心配をさせないようにと真っ先に口をついて出た言い訳が、弟の顔をさらに曇らせてしまった。心配をかけるために帰ってきたのではないのに。私は元気でやっていると、家族を安心させたかったのに。
「あんず」
次に発せられるであろう言葉がなんとなく想像できてしまい、身構えてしまう。
「戻ってきなよ」
「……でも」
でもせっかく職場に近い部屋を選んだのに。契約期間だってまだ先だし、初めての一人暮らしだからと張り切って家電とかを色々買い込んでしまったのに。
それに。せっかく二人が今こうして、ゆっくり暮らせているのに。
「あんずさん。わたしたち、あんずさんが一緒にいてくれた方が嬉しいし安心するよ」
婚姻届を出す前からずっと、同じ家で暮らすことを楽しみにしていたはずの義妹もそれに同調する。
「……ほんとうに? 邪魔にならない?」
「ならないよ……。なんでそう思うの」
「そうだよね、みんなそんなこと思うはずないのにね」
絞り出した言葉を弟は静かな顔で聞いていた。
箸を置いて涙で濡れてしまった目元を拭う。本当は寂しかった。姉として格好をつけたくて、その方が二人も喜ぶなんて聞き分けの良さそうなことを言って家を出る決断をしたけど、本当はまだ家族と暮らしていたかったの。
「家に……、戻りたい。私も一緒に暮らしたい」
「……駄目だよ」
不意に、背後で響いたのは男性の低い声だった。すぐさま後ろを振り向いたけれどそこには誰もいない。小さな窓を覆う深い青のカーテンだけがひらひらと揺れている。
「……なに、今の。二人とも聞こえ——」
机に向き直れば、二人は消えていた。
「え」
机の上には食べかけの料理が三人分残されている。つい今までそこにいたはず。この数秒でどこかへ行ってしまった? 物音も立てず、私を置いて。
「どこ、行ったの。ねえ待って」
キッチンの方へ行ったのかもしれない。弟は無口で時々突拍子のないことをする子だからそういうこともあるはず。立ち上がってリビングの扉へ向かって駆け出したとき、私の左腕を誰かが引いた。
手首に何かが巻きついている。黒くて丸太のように太く、ひんやりとしている生き物のようななにか。腕を引くが、離す気はないようでより強い力でぎゅうと締め付けられる。
「……君は、こっち」
いつの間にか、足元は水に浸されていた。思わず足を引くとじゃぶりと大きな水音が立つ。膝まである水位はだんだんと上がっていて、瞬きをする間に腰までが水に浸かった。
「な、何、離して」
左腕に巻き付くそれを引き剥がそうと右手を伸ばしたものの、同じものがもう一本伸びてきて両手とも拘束される。黒一色だと思っていたが裏側は白く、不揃いな吸盤のようなものがついている。まるで蛸の腕のような。
「いやだ、わたしは」
もがく度に新しい腕が伸びてきて体の自由を奪う。水面はもう肩まできていた。
「……そんなに怖がることはないのにね。息の仕方、忘れてしまった?」
水が口を、鼻を覆っていく。全身に巻き付いた蛸足がみちみちと身体を圧迫する。ああ死ぬんだなぁと、溺死ってかなり嫌だなぁと、突然この状況が他人事のように思えた。
——そしてふと思い出した。
こんなことが、前にも一度あったなぁと。
寒い冬の夜だった。
やるべき仕事は定時で終わってしまって、けれどまだオフィスに残っていたくてだらだらと取るに足らない雑務を探していた。いつでもできるような仕事で数時間を潰したものの、そのうち早く帰れとオフィスを追い出されてしまい仕方なくのろのろ夜道を歩いていた、そんな日だった。
オフィスを出たあともまっすぐ帰路に着くことができなかったのは家に戻りにくかったからだ。弟が結婚することが決まって、二人はこの家で暮らすのだろうからとこっそり進めていた一人暮らしの準備に気付かれてしまった昨晩、弟と軽い口論になってしまった。学生の身である二人よりも既に就職している私の方が先に独り立ちすべきだというのは私も両親も同意見だったけれど、二人はそうは考えていなかったらしい。一緒に暮らせた方が嬉しい、いやあんずだってそろそろ、あんずちゃんがいてくれた方が私たちとしても、ならわたしたちが出ていく、などと義妹や両家の両親まで巻き込んだものの全員の納得する結論は出ず、答えを先延ばしにして今日を迎えてしまった。
早く帰って明日に備えた方が建設的なのはわかっているけれど、くたびれたパンプスはいつも使う駅には進まず家と真逆の道ばかりを選びたがる。そうして知らない道ばかりを進んで行って、辿り着いたのは海辺だった。
学校も職場も海に近かったから、私にとって海に来るのはそう珍しいことではない。けれど夜の海に一人きりなのは初めてだった。冬の夜の海風は想像以上に冷たくて思わず体が震え、着ていたコートの前のボタンを閉めた。手袋も付けてくれば良かったかもしれない。コートの金具すらも氷のように冷たかった。あまりの寒さに海まで来てしまったことを後悔しかけるけれど、どうせ来たのだからもう少し散歩していこうと考えて浜の方まで足を進める。
夜の海は暗い。砂浜の方は街灯が少ないから、スマートフォンを取り出してライトで足元を照らす。細身でヒールのあるパンプスは砂の上を歩きにくかった。一歩踏みしめるたびに履き口から入り込む砂が不快感を煽って、やはり海を選んだのは間違いだったと思い返す。
そうして町の方へ戻ろうとしたときだった。狭い空間に反射するような不思議な響きで、男性の声がした。
「……それ、何という名前なの?」
普通に考えてこんな時間に浜辺を歩いている人間は十中八九不審人物である。相手の姿を確認すべくあたりにライトをかざしたが、どこにも人の姿はなかった。一体どこから、と思うと同時にまた声がする。
「……人間の読み物であることは知っているけど、発光器を持つことは初めて知ったよ。……生物ではないんだよね?」
振り返ろうと体を百八十度回した途中、海の方を照らした瞬間に視界にの端に映った違和感。まさかとは思うがこんな真冬に海に入る人間がいるならすぐさま警察を呼ばなければならない。スマートフォンを握り直し、恐る恐る浜から海へとライトを移動させる。
「……こんばんは」
「…………………………ひ」
引き攣った悲鳴が口を衝いて出る。波打ち際にゆったりと佇むその男は顔こそ恐ろしく整っていたものの引き締まった上躯には何も身につけておらず、おまけに腰から下は木の幹ほどもある太さの何かがうぞうぞと蠢いて足を隠している。不審者を通り越した化け物の容貌に驚きのあまり声も出なかったけれど、心中が表情に出にくい質が幸いしたのか彼は私の反応を気にした様子はなかった。
「……あれ、同じ言葉を使えているはずだけれど。……やっほう、聞こえてる?」
彼は下半身の脚——脚なのだろうか?——を操ってゆっくりとこちらへ近付いてくる。一歩も動くことができず、肩にかけたバッグの持ち手を強く握り締める私の手に彼は脚のうちの一本を伸ばした。手首からなぞるように右手を絡め取られてバッグから引き剥がされる。私の手の形を確かめるように脚の先端で手のひらから指の全てを丹念に撫で上げてから——四本の指をまとめて掴んで、それから上下に振ってみせた。
どうやら握手がしたかったらしい。
「——へえ、スマートフォン、というんだね。その光る箱を介してコミュニケーションをとるんだ」
彼は凪砂と名乗った。人のかたちと蛸のかたちを併せ持つ、所謂人魚のような存在らしい。確かに自称した通り、何も身に纏わない上半身は病気を疑いたくなるほどに透き通った色白で逞しく引き締まった魅力的な男性の姿をしているが、腰から生えた私のスマートフォンを撫で回している六本の赤黒い脚はタコ足のように柔らかくうねり、よく見れば裏面に白い吸盤がついている。高い位置で無造作に束ねられた波打つ長髪からぽたぽたと水滴が滴る様子は野趣に溢れる美青年のようにも見えるし、お風呂上がりにろくに体を拭かずに逃げ出した子供のようにも見えた。
彼曰く彼ら人魚が人前に姿を表すことはあまり良しとされていないが、地上の文化に関心があるという凪砂さんはそんなルールに見て見ぬふりをしてこうして時々海辺に来る人間を観察しているらしい。普段は海から眺めるだけに留めておくものの、前々から興味を抱いていたスマートフォンが光るものだという新事実に衝撃を受けてチョウチンアンコウに吸い寄せられた小魚の如く陸まで来てしまったのだという。
強請るような瞳に圧されて思わず渡してしまったスマートフォンは防水仕様だったはずだが、果たして海水にも耐えられるのだろうか。画面にぺたぺた触れる触手はタッチスクリーンに反応してもらえないらしく、サイドボタンでロック画面を光らせることしかできない。上半身についた方の腕でこの数字を、と言いかけて、何を口走るつもりだと思い直した。好奇心に満ちた子供のように目を輝かせる彼には思わず色々としてあげたいという庇護欲のようなものが掻き立てられる。
「あの、それけっこう大切な物なのでそろそろ……」
「……待って、色が出てきたよ」
凪砂さんはしっかりとスマートフォンを抱え込んだまま画面をこちらへ見せる。彼の言った『色』とは単にメッセージアプリの通知のことで、ロック画面には弟からの帰りの時間を心配する文言が表示されていた。
「……これは何?」
「これは遠くにいる相手に言葉を伝えるための機能で……、私の弟が帰りの時間は何時になりそうか聞いています」
「……そう、弟がいるんだ。もう帰ってしまうの?」
スマートフォンとの別れが惜しいのか、凪砂さんは眉を下げる。手首の時計はまだ終電には十分余裕のある時間を指していたが、確かに何の連絡もなしでは心配してしまうことも頷ける時刻だった。
「どう、しようかな……」
明日も早い。出すべき答えは明確なはずだけれど、「帰る」と口に出すのは難しかった。開いたトーク画面へ入力すべき言葉も見つからず、表示されたメッセージの送信時刻が私を責めているような心地になる。平均的な人間の男の人よりも身長の高い凪砂さんは、答えに詰まる私をちらりと見下ろした。
「……家に帰りづらいの?」
「………………はい」
「……ふふ、そうなんだ。私もだよ。君と話をしていたと知られたら、茨に怒られてしまうかも」
茨というのも人魚だろうか。彼にも家族がいるのだろうか。こっそり伺うつもりで凪砂さんの顔を覗き見れば、彼はこちらをじっと見つめていた。
「……そうだ」
言いながら凪砂さんはスマートフォンを私の手に戻した。求知に満ちた橙色はスマートフォンを離れて今度は私へと向けられている。
「……君も私と来ればいいよ」
さも名案とばかりに微笑んで、私の手を取るように手隙になった触手を私の手のひらに絡ませる。
「来る、ってどこにですか?」
「……私のおうち」
「……竜宮城?」
「……リュウグウジョウ? かはわからないけれど」
凪砂さんは掴んだ私の腕を上向きに強く引いた。まるで社交ダンスでもするみたいに私の腰と片腕に触手をぐるぐると巻き付ける。お気に入りだったコートに海水と砂がべっとりと付いてしまって私は思わず眉を寄せたけれど、凪砂さんがそれに気付いた様子はなかった。
「ちょっと、あの」
「……丁度良かった」
触手にぐっと力が込められて、私の体は砂浜からゆっくり持ち上がった。思わずばたつかせた足を窘めるようにふくらはぎにも触手が巻き付けられる。パンプスの片方がするりと脱げて砂浜の上に音もなく落ちた。彼の触手は冬の海水のように冷たくて、ストッキング越しに掴まれた足が震える。無数の吸盤が脚に吸い付く感覚が気持ち悪い。
「は、離して」
「……君に会えて良かった。蛸の特徴を持つ同族は数が少ないんだ。私が人魚と番うのは難しいみたいだから」
一人で何かに満足したらしい凪砂さんは腰に回した触手を解いて、かわりに両腕で私を横抱きに抱え直して海へと進み出す。人生で初めてのお姫様抱っこの相手がまさかタコだとは思っていなかった。いやそうじゃなくて。緊急通報ってどうすればいいんだっけ。確かそういう機能があったはず。海水でベタベタになってしまったスマートフォンを必死で弄っていると、頭上から凪砂さんの触手が伸びてきてひょいと取り上げられる。そして触手が美しく弧を描いた見事な投球フォームでスマートフォンは浜辺の彼方へと投げ捨てられた。
「あああああ私のスマホ」
「……ごめんね、地上のものを持ち帰ってはいけないんだ。持って行っても海では使えないし……」
「私! 海には! 行きません!」
蠢く触手がじゃぶじゃぶと波を掻き分ける。足先からゆっくりと海水に浸かって、体温が急速に奪われていく。どうにか拘束を解こうと身を捩る私を宥めるように四肢をきゅうきゅうと緩く締め付けられ、指先は控えめに頬を撫でた。
「……大丈夫、怖いことは何も無いよ。きっと君も気に入ってくれると思う」
「はな、して!」
「……口、開けていると溺れちゃうよ」
閉じていても溺れちゃいますけど、と言ってやる前に海水が口を覆った。深いところに差し掛かったようで、突然どぷんと頭の先まで海に浸かる。凪砂さんの拘束が緩んで、ゆっくりと沈んでいく感覚。真冬の海水は刺すように痛い。息が苦しくて、でも口を開けたら本当に死んじゃうんだろうなぁと思った。まだ弟妹のウェディング姿を見ていないし、明日は楽しみにしていた案件の会議があったし、撮り溜めたドラマも消化できていないのに。死ぬときって案外あっさりやってくるんだなぁ、まだまだ先のことだと思っていたのに。全身の感覚が鈍くなってもはや寒ささえも薄らいできたとき、何かが顔に触れた、気がした。
「……ゆっくり息を吸って」
口から、肺に息が吹き込まれる。寒さとか息苦しさとか色んな苦痛が途端に和らいでいく。
「……うん、そう。上手。まだ口は開けないでね。目は開けても大丈夫だよ」
渋る私へ早く開けろと催促するように凪砂さんの指が瞼を撫でる。海で目を開いたって何も見えないのに、と思ったけれど、恐る恐る開いた視界は薄暗いものの驚くほどに明瞭だった。すぐ目の前にいた凪砂さんは長い髪と触手をふわふわと漂わせて穏やかに微笑んだまま、腕をゆったりとした動作でこちらへ伸ばして私の頬へ触れた。
「……人間も、番うときにはこうして口を合わせるんだったよね。……ふふふ、偶然だね」
凪砂さんは徐に顔を近付けて、それから静かに唇を合わせた。また体内へ息が吹き込まれる。このとき知ってしまった。彼に口付けてもらえば楽になれるのだと。
職業柄綺麗な男の人はたくさん見てきたけれど、淡い月明かりに背を向けた海中の凪砂さんはキラキラ輝く彼らとはまた違った、有無を言わせぬ荘厳さのような美しさがある。血色のない肌は白くなめらかで、ゆらりと揺蕩う髪は月光に照らされ絹糸のように光る。日々の営みを感じさせない形貌はこの瞬間のためだけに作られた芸術品のようだった。その一瞬、この世の誰より綺麗だと思ってしまったことが悔しかった。このとき惚けることなく海面を目指してもがいていれば何か違っていたのかも、なんて考えてしまう。
「……行こう」
うねる触手が肩を抱いた。体はゆっくりと海の底へ沈んで、月はどんどん遠ざかっていく。
放置してしまった弟へのメッセージに、『心配しないで』とだけでも返しておけばよかった。
意識が戻ったとき、視界の中心にいたのは凪砂さんだった。いつどうやって寝たのか記憶にない。
「……おはよう。ううん、『おかえり』の方が適切かな」
穏やかに私を見下ろしながら耳の上から指を差し込んで、頭を撫でるように私の髪を梳く。膝枕ならぬ触手枕とでも言うべきか、彼の触手をベッドにして横になっていたようだった。薄暗く光の差さないこの洞穴のような大きな岩陰は凪砂さんが住居として過ごしているらしい場所である。人魚は海底のお城に住んでいるというイメージが覆されたのは随分前のことだった。
「……どうだった? 少しでも気分が晴れているといいんだけれど」
家具も調度もないただの大穴は殺風景で、けれどそんな場所で異色を放つ小瓶がぽつんと一つ、凪砂さんの手元に置かれていた。海底で拾ったものなのか、少し錆び付いたそれの中にはグミかキャンディのようなカラフルな小粒が数個ほど入れられている。寝起きだからか、まだ少し頭がぼうっとした。いつの間に寝てしまったんだろう。とぐろを巻く触手の合間を縫って手探りで地べたを探し、それを支えに体を起こすと触手が背中を支えてくれる。
「……家に戻るのは久しぶりだったからね。家族とはちゃんと話せた?」
家に、帰った。何を言ってるんだろう。私はずっとここにいたし、家になんて帰れるはずがない。海上に上がることはおろか、上を見上げることすらやんわりと咎め頭上を触手で覆い隠すような彼がいるのに。
私は今までずっと寝ていたはず。少し前に凪砂さんに渡されたあのキャンディを食べたら寝てしまってから。そういえば何か言っていたような気もする。何か話していた気も、何か他に食べていた気も——。
「———————あ」
「……思い出せた?」
家に帰っていた。夢か幻覚だったのかもしれないけれど、確かに生まれ育ったあの家に帰って、大切な弟と妹と一緒に過ごした。もう食べられない料理を口にした。
「——そうだ、私」
目元がじわりと熱くなる。けれどこの場所では、涙は零れることなくすぐに海水と混じりあって消えてしまう。
帰っていたのに。仲睦まじい二人を見ながら温かい料理を食べられて、もう少しで両親も帰ってくるはずだったのに。気を利かせた大人のフリをするのはやめて、大好きな家族と一緒にいようって決めたところだったのに。邪魔をされた。全部消されてしまった。
「……泣いているの? 何か嫌な思いをしてしまった?」
「もうやだ、家、家に帰る」
「……君の家はここだよ」
触手が体を引き寄せて、頭が凪砂さんの胸元に収まった。凪砂さんの体はいつだって夜の海みたいにひんやりと冷たい。この海に私の体より温かいものは存在しなかった。しゃくり上げる私を宥めるように触手がゆるゆると頬を撫でたけれど、私はこの吸盤が優しく吸い付くような感覚はどうしても苦手だった。
「……あまり泣くと息が苦しくなってしまうよ」
纏わりつこうとする触手をどうにか押し返していると、代わりに凪砂さんの顔が近付いてくる。息をする度に吸い込む酸素の量が減っているようで、呼吸を繰り返すほど苦しくなった。
凪砂さんの腕が控えめに後頭部を抑えて何かを促すようにゆっくりと口を閉じた。何を求められているのかも、それを拒めば己が息絶えてしまうことも理解しているから、やむなく彼に唇を合わせる。隙間からすぐさま吹き込まれる酸素。日に数回のこれを欠かすと、私は息が続かずに死んでしまう。彼が自ら進んで息を分け与えてくれたのは最初の数回だけで、以降は好きにしろとでもいうように白々しく顔を寄せてくるだけだった。
肺が酸素で満たされる頃、ぷは、と控えめに息を吐いて凪砂さんの顔が離れる。口元に巻き込まれていた数本の髪を腕で取り払って、そのまま指先で目尻をそっと撫でた。
「……人間は番った直後は弱ってしまうから一度生まれ故郷に戻るといいって聞いたのだけど、やっぱり逆効果だったみたい。ごめんね、もうしないよ。これは茨に返そうね」
「私も、私も帰る」
「……君はもう帰らなくていいんだよ」
「ゆ、誘拐犯。悪魔。タコ!」
「……タコではあるけど……」
悲しそうに眉を下げたりとかしないでほしい。人の気持ちもわからないくせに、人みたいに悲しまないでほしい。
凪砂さんは何かを探すように目線を逸らして——適切な言葉を見つけたのか、ぱっと明るい顔をして微笑んだ。
「……ああ、そうだ。人間ふうに言うなら、君の旦那さまだよ」
「違います……!」
「……あれ、違った? なら適切な言葉を学んでおくよ」
蠢く触手が身体に巻き付く。これが拘束なのか、それとも抱擁のつもりなのかはわからなかった。
「……大丈夫。私が君の家族になってあげるからね」
そうして上から見下ろすようにして、今度は自らやんわりと唇を合わせた。凪砂さんの髪がカーテンのように広がって、視界の全てを覆い隠した。