同棲軸茨あちゃんの計画別居の話、供養「出て行くよ、わたし」
長期旅行用の大きなキャリーケースを抱えた恋人が、帰宅したばかりの俺に向かって高らかにそう宣言した。
「……行く宛てはあるんです? ご実家?」
「いや、ホテルとったよ」
「そうですか。じゃあ自分が出て行きますよ、ちょうどそうしようと思っていましたし」
あんずさんがやや眉をひそめて思案する。大きなキャリーケースにリュックサック、PC、仕事用のトートバッグ。俺ならその半分、いや三分の一で十分だ。
「でもホテル予約したのはわたしだし……」
「電話すれば名前くらい変えてもらえるでしょう。それほど混む時期でもありませんし。『ここ』の方がセキュリティーもしっかりしてますから、あんずさんはそのままこちらでどうぞ! さて、自分は今から荷物をまとめますから少々お待ちください!」
セキュリティーを持ち出すと、俺より遥かにか弱いこの女はすぐに黙った。自分の方が(一般論として)セキュリティー庇護下に置かれるべきだということは一応理解しているようで重畳である。
「ううん……じゃあホテルに電話してみるね。ありがとう」
「いえいえ! こちらこそ迅速なご対応ありがとうございます! さすが『プロデューサー』殿でありますなあ!」
む、と顔を顰めて、あんずさんがスマートフォンを取り出して番号を叩く。それを見ながら、彼女はどこまで荷物をまとめたのだろうと思案する。歯ブラシ、同じものを使っていたボディソープ、違うものを使っていたシャンプーとコンディショナー。着替え、部屋着、下着類――さて、自分はどこまで引き上げようか。
「茨くん、予約変更できたよ」
「了解であります! 駅前のホテルでいいんでしたっけ」
「うん。禁煙のシングルルーム」
「アイアイ! では、次会う時は――」
「会議室、かな」
彼女の瞳が好戦的に細められる。思わずにやりと笑みが漏れた。この女、多分だんだん俺に似てきたな。
day.1
ルームキーを差し込むと部屋の明かりがついた。首元のボタンをひとつ外して、着ていた上着をハンガーに掛ける。鞄は椅子に、夕飯の入ったコンビニの袋は狭い机にそれぞれ置いた。あんずさんが予約したビジネスホテルの一室は、シングルベッドと机と椅子、ユニットバスが最低限備え付けられているだけの、ごくありふれたつくりだった。最近オープンしたのか、すべてのものが新しく清潔で、狭くはあるが過不足のない部屋だ。しばらく滞在するのに大きな支障はないだろう。
さっさとシャワーを済ませてパソコンを起動する。コンビニで買ったおにぎり二つとサラダとゼリー飲料を袋から出して、食べながら画面を眺めると、その行儀の悪さに突然ひやりと罪悪感めいた、悪いことをしているような感覚が掠めた。今までだって食べながら何か作業することなんてしばしばあったし、別に誰が見ているわけでも誰に迷惑をかけるでもないのだから悪いだなんて思ったことはなかったはずなのに。どうしていまそんなことを、と頭の片隅で考えると、微妙な表情のあんずさんがちらりと浮かんだ。
あの人は、なぜか飯を一緒に食べたがった。パソコンを眺めながらひとりでおにぎりを齧っていると、どうせふたりでいるのだから、息抜きがてら夕飯のときくらいお仕事はやめにしない?、と控えめに、しかししつこく声をかけられる。彼女だって似たようなことをするわりに、心配です、みたいな顔で言われるのが癪ではあったが、実際のところ手持ち無沙汰でなんとなく仕事をしていただけなので半ばサービスの気持ちで従っていた。