さよならだけが人生だ===========
エンディング後、あのままKKは成仏したと解釈した時間軸の話です。ビターな話なので、了承いただける方のみ閲覧いただけると幸いです。
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おれは、肺の中の息を大きく吐き出した。自分を冷静にするために、わざとらしいくらいにしっかりと。すん、と鼻をすする。盛大に泣いたせいで喉が渇いていたことに気づいて、水滴を大量にくっつけた生ビールをちびりとやった。あわのつぶれた間抜けなアルコールの味がした。
おれはだんだん正気に戻ってきて、どんどん気まずくなってきた。ジョッキから口を離さずに、ちらりと目線をあげて、せせこましいテーブルの向かいに座る人物をうかがう。暁人さんが、おだやかに笑ってこちらを見つめていた。
「落ち着いた?」
「……はい……」
おれの声は酔っ払いたちの喧騒に紛れてかき消されそうに小さかったが、暁人さんはそれを違わず拾って頷いた。
「良かった」
それきり、暁人さんは黙って手元のホッケの干物と格闘を始めた。安酒場の白っぽい板壁が、やけに似合わない人である。図体ばかり大きいおれは、安っぽいかくばった木の椅子の上で縮こまることしかできない。
* * *
暁人さんはおれのバイト先の先輩だ。バイト先は心霊現象の研究室という至極あやしいものだが、おれたちはその更に先を行くうろんな存在だ。研究室に持ち込まれた臨床的な事案を処理する実働部隊、つまりゴーストハンターをやっている。商いは存外に盛況で、おれたちは毎晩幽霊の対処に駆けずり回っていた。とはいっても、暁人さんはやけに場馴れしているので、おれが手伝う事はほとんど無いが。
きょうも例によって、とある職場のビルのフロアの片隅で、夜な夜な泣き声が聴こえてくるという依頼をこなすことになった。問題は、そこで出会った女性の亡霊と話し始めたとたん、おれが滂沱して使い物にならなくなったことである。
空気を読まずに襲ってくるマレビト、面食らいつつも対処する暁人さん、変わらずすすり泣く女性の霊に、わかりますと泣くおれ、といった具合でその場は大混乱になった。
それでも暁人さんは危なげなくマレビトをのして、ついでにおれにコアの抜き取りかたを復習させ、女性の霊と話して成仏させた。それから手際よく電話をかけて報告を済ませると、最寄りの酒場へおれをつれてきて座らせた。つまり、いまに至るというわけだ。
暁人さんが意図的におれを放ってくれているのは明らかだった。ジョッキや食器がぶつかる音と陽気な人々があげた笑い声を、開け放された窓から吹き込む風がさらって、店の外まではこんでいく。こんなに活気のある場所には幽霊もより付かないだろう。おれたちが落ち着いて話をするにはうってつけの場所だ。
でもまず、なによりも言っておかなければいけないことがある。俺は居住まいを正し、両膝に手をついて頭を下げた。
「すいません。今日の現場、暁人さんにすべて任せきりになってしまいました」
とうとつなおれの謝罪に干物から顔をあげた暁人さんは、箸をおいて苦笑した。
「気にしないで、って言っても無理か」
「……申し訳ないです」
再度、頭を下げる。影の落ちたテーブルを、じっとにらんだ。命を失うこともある現場だと、承知の上でおれはここでバイトをやっている。うわついていると一刀両断されるべきところだ。気合を入れ直しておれは顔を上げた。しかし、暁人さんはいたずらっ子みたいに笑って、かるく身を乗り出している。
「じゃあ代わりにさ、なにがあったのか聞かせてよ」
おれはうっと息を呑んだ。それはそうだ。そういうつもりで、わざわざおれをここに連れてきたに違いない。が、なんというか、この先輩はものすごくカッコいいので、情けないところを見せるのが憚られた。おれはアイアンマンを慕うスパイダーマンになりたいのに、現状は正直なところのび太くんのほうが近い。
腹をくくった。エイと切り出す。
「おれ、彼女にフラれて」
今朝、スマートフォンには彼女からの別れを告げるメッセージが届いていた。あと何分か寝れやしないかと、寝ぼけ眼でスマートフォンのアラームを止めたおれはそれに気づき、悲鳴をあげて眠気と布団を跳ね飛ばした。隣の部屋からは壁ドンされた。あわよくばこのまま同棲とか結婚とかしたい、と思っているぐらいおれは彼女に惚れている。大学の講義も頭に入らず、ずっと身もそぞろだった。
「全然整理ついてなくて、返事をどうしたらいいかずっと迷ってて……」
「なるほど、それで、あの亡霊の言葉で決壊した、か」
女性の亡霊は涙ながらに言った。『あの人のことがずっと好きだったの』と。ほんのすれ違いで彼氏と別れて、彼女はそのまま事故で亡くなってしまった。そのいきさつを聞いて、おれの涙腺は崩壊した。そうなんだよ。おれだって彼女(きみ)のことがずっと大好きなんだよ。
暁人さんはそれを聞いて、かたちのよい眉をぐっと寄せた。右手を顎に当てて軽くうつむいた暁人さんは、ひとりごとのようにつぶやく。
「亡霊に引きずられちゃったというか、シンクロしたのかな? 霊媒体質なのかな、きみ」そこまで言うと、ぱっと顔を上げて暁人さんは続けた。「申し訳ないけど、あとで報告に付け加えさせてもらうね。……でもなんできみは彼女さんにフラれたの?」
「私といても君は面白くなさそう、って言われました」
「心当たりは?」
「あります……」おれはさらに身を縮こませる。このままこの酒場の隅の塗り壁にでもなってしまいたい。でも、これには言い分があった。暁人さんだって覚えのある問題のはずだ、とおれは顔と声を上げた。「だって、彼女の後ろで一反木綿がフラフラしてたら暁人さんも気になりませんか? こいつ巻きついてくるつもりかって気が気じゃなくて」
「え、一反木綿? 捕まえた?」
「はい、勾玉はエドさんに提出済みです!」
「それはよかった。腕を上げたね」元気なおれの挨拶に暁人さんは顔をほころばせたが、さっと真面目な顔になって続けた。「ところでバイト、続ける?」
「続けます」
即答したおれに、暁人さんは面食らったように目を瞬かせた。幽霊なんて見えなければよかった、と思うことは、あまりない。そりゃあ今回ちょっと……いや、かなり脳裏をよぎったが。あまりの即答に、暁人さんは声のトーンを落として聞き返した。
「いいの? そりゃあ、きみは変わらず適合者なんだから、バイトをやめたって見えなくなるわけじゃない。でもこういう仕事から距離を置きたくなったかな、と思ったけど」
それはそうだ。誰だってそう思うだろう。おれは採用面談の大学生みたいに首を深くゆっくりと上下に動かした。はい、でも、と声がおれの口からころがり出る。声に自然と力がこもった。
「今日おれは、あの女性の言葉を、彼氏さんに伝えることができた。ふつうは死んじゃったらおわりで、誰もなんにも届かない。でもおれがその言葉を聞くことができるなら、あきらめたくない。このバイト、辞めるつもりはないです」
暁人さんは、そうきっぱりと言い切ったおれの顔をまじまじと見て、うん、とひとつ頷いた。それから、なにかまぶしいものでも見たかのように目をぱしぱしと瞬かせて、息をゆっくりとはき、おれと同じように泡のすっかり消えたビールのジョッキを煽ってテーブルに戻した。暁人さんはやわらかい、慈愛の込められた口調で続けた。
「そう思ったのなら、あきらめちゃいけないね。きみは自分で彼女に伝えられるんだから」
「……そうですね!」
むん、とおれは気合を入れ直した。ぬるいビールを飲み干して、店員さんを呼び止めておかわりをお願いする。どこまで何を言うかは大いに考慮の余地があるが、情けなく大学の友人どもにでも相談してみよう。
気合を入れ直すと食欲が湧いてきて、ついで何点かつまみを頼む。すると、離れようとした店員さんを呼び止めて、暁人さんが僕にもビールを一杯、と声をかけていた。
おれはだいぶ乾いた枝豆をつまみながら、暁人さんの開けたジョッキをちらりと視界の端で捉えた。あんまり飲まないタイプの人だし、ビールなんてさらに珍しい気がする。それにさっき、『きみは』といった瞬間、おれは暁人さんの目の中に、どこか遠く届かないものを見る郷愁の色をみつけていた。
「暁人さんは、言わなくて後悔したことってあるんですか」
あんまり後先かんがえないおれの口から言葉が飛び出したとき、暁人さんはジョッキを開けようとビールをあおっていた。ガラスの透明でまるい底が暁人さんの顔を隠して、しばし。飲み切るには長めの時間をおいて、ジョッキをテーブルに置いた暁人さんは、顔に笑みを浮かべることに成功していた。
「ここまで出かかったけど」と喉をトントン指さして、暁人さんは続ける。「言わなかった言葉ならある」
なにかを思い出すように空をにらんで、空白がよぎる。やがて暁人さんは肩からすっと力を抜いて、テーブルに行儀わるくひじをついた。
「それで正解だったといまでも思ってるけど、もう時効かなぁ」
いいんじゃないすか、とおれは言った。暁人さんはあんまり酒をのまない人である。そんな人が酒のせいにして口を軽くする機会なんて、そうそうないかと思ったので。
暁人さんはひじをついたまま、右手を宙に遊ばせた。なんどか開いて閉じる。戦いの時にマレビトのコアをひきぬく手とは違う、細く切れそうな、なにかを手繰るような指先だった。暁人さんはつづける。
「僕を未練にしてくれって」
おれはことばにつまった。笑って流されるのと、真面目に頷くのと、どっちがこのひとの傷口を抉らずにすむのか、アルコールでぼやぼやした頭をふらつかせるおれには判断がつかない。思考の時間をかせぐために、もうひとくちビールを煽って、素直な言葉を返した。
「好きだったんすねぇ」
おれの言葉に、暁人さんはわずかに眉をひそめて、首をひねる。住宅街のど真ん中にたぬきの化けた椅子をみつけたときと同じ顔、つまりしっくり来ていない表情だ。
「恋愛感情か? って言われたら微妙なところだな。もう少し一緒にいたかっただけかも」
「いいんじゃないすか。誰かと一緒にいたいって思うんだったら、恋でも愛でも、なんだって」
「……そうだね」
「そうですよ」
おれは暁人さんから意図して視線をはずした。開け放たれた窓をみやる。そとは暗い。しめった土の匂いがして、雨がやってきそうだ。上野の桜ともそろそろお別れだ。
たぶんだれもが思うのだろう。どんなに一緒に生きたとしても、別れのその時には、もっと一緒にいたかった、と。そのおわりの声を拾い集める仕事が好きだ。もちろん、最愛の彼女だってあきらめるつもりはない。
そのときふと頭に浮かんだ言葉をおれは気に入った。ふふん、と気分が良くなって、泡がなみなみとした冷たいビールがやってきていたことに気づく。ぐいと煽って決めた。彼女に言おう。メッセージではなく、直接に。春のおわりの夜にまかせて、ぜったいに言おう。いつか必ずやってくる別れのときまで、あなたと一緒にいたいのです、と。