チープ・スリル(仮題)- 1「いやだ!」
座敷わらしは開口一番そう叫んで、あっというまに姿を消した。暁人は札を携え、印を結んだ手もそのままに、めんくらって目を瞬かせる。さまざまなぬいぐるみやおもちゃで飾られた部屋の一角からは、もうエーテルの残滓すらも感じられない。青緑のうつわからは、備えた塩せんべいがちゃっかり無くなっていた。
夕焼けが差し込む和室に立ちすくむ暁人のうしろには、成り行きをはらはらと見守る依頼人の老人がいる。こっそり様子をうかがうが、先ほどの声が聞こえている様子はなかった。丸い肩をおとして、前で組んだ両手をなんども握り直している。
気まずさといったら限りがないが、なにも言わないわけにもいかない。覚悟を決めた暁人は、畳をきしませて振り返った。
「大変申し訳ないんですが、呼びかけたところ拒否されてしまいました」
「おや、やっぱり」老人は目線を落とし、ちらりと雑多な部屋の一角を見た。窓から吹き込む風に、手作りであろう布飾りが揺れている。「寂しいかあ」
しずかな声に沈んだ諒解に同情をよせるより先に、この老人は事情通だぞ、と脳内でもうひとりの自分がささやく。あの渋谷を駆け回っていた日々であれば、そのような役回りはKKが担ってくれていたのだが、刑事の尋問じみたやりかたはすっかり暁人の身についてしまっていた。
「失礼ですが、なにか事情をご存知ですか?」
暁人がそう問うと、老人は落ち着きなく目線をあちこちにやってから、両手を組み直して、ゆっくりと頷いた。
「ここに住んでいたご家族は、いたずらにも寛容で、大変座敷わらしと仲が良かったんですわ」
暁人も頷き返した。座敷わらしが住み着く家の住人というのはそういうものなのだろう。あの渋谷で出会った老婦人の霊もそうだった。老人もうんうん、と話を続ける。
「お子さんは良縁に恵まれて家を出られてね、ご両親は大往生で亡くなりましたよ。そんで、この家の引き取り手がないもんで、取り壊しにってなったんでね」
「それであなたが依頼を?」
「ええ。隣の家に住んでいるだけの縁ですけどね」そこまで言うと、老人はいたずらっぽく笑って続けた。目尻の皺がきゅうっとゆがんで、まるでこどものような、クシャクシャの笑顔だった。「おぼろげですがね、わたしにも、座敷わらしさんと一緒にあそんだような記憶があるもんで」
郷愁をさそう夕焼けとカラスの声が、カーテンもかかっていない窓から和室に差し込んでいる。胸によぎるキリリとした痛みを直視したくなくて、舞うホコリの眩しさのせいと、暁人は目を細めた。
「……いい思い出ですね」
「でしょう。たぶん、座敷わらしもそうだったんだと思います」
ふたりしてしばし、声もなく、塩せんべいの無くなったうつわを眺めた。それぞれに宝石を眺めるような時間がすぎて、暁人は慎重に声を出した。
「ご事情はわかりました。座敷わらしを追い出すような形にならないよう、努力させていただきます。また後日お伺いしてもよろしいですか?」
「はい、はい。ぜひそのように、よろしくお願いします」
老人が曲がった腰を更に折り曲げてお辞儀をするのをなんとか押し留めながら、暁人は老人とふたり、座敷わらしの住む家を出た。コンクリートブロックが積まれた門を出たところで、また電話で連絡をすると取り付けて、暁人は隣の家に消えていく依頼人を見送る。夜のせまる人気のない路地裏は、ぽかんとだれの影もない。暁人は別れの挨拶に振った右手もそのままに、声をひそめて囁いた。
「KK、継続調査のときってどうするの?」
暁人の手が呼応するようにどくりとうごめく。オレンジと白の光。聞き慣れた声が返事した。
「とりあえずエドに連絡だ」
「了解」