チープ・スリル(仮題)- 4 信号が青に移り変わった。人の流れに乗って、暁人はふたたび歩き出す。ダンスミュージックを路地に響かせる429を通り過ぎ、宴三町の交差点を超えれば、目的地である薄汚れたアパートが見えてきた。
アジトもしくは司令センターの扉は、いまは札ではなくふつうに鍵で施錠されている。暁人はいちおう、チャイムのボタンを鳴らした。ピンポーン、と軽くあかるい音がするが応答はない。予想はできていたので、暁人はキーケースを取り出した。
「暁人くんはお行儀がいいねえ」
直接伝えたことはなかったが、KKは低く響く良い声をしている。マレビトに囲まれて窮地にあったときも、その声のトーンは暁人の心を落ち着かせた。だから、あの裏路地ぶりの軽口は、暁人の肩のちからをすっと抜かせる作用があった。暁人は鍵穴にキーをつっこんで、回しながらも小言を返す。
「親しき仲にも礼儀あり、だよ」
「レコーダーでしゃべるやつに礼儀が必要か?」
そう言われるとそうなのかも、と思いながら、それでもだよ、と暁人は返した。
ドアを開けて踏み入ると、廊下にはゴミでいっぱいの半透明の袋が積まれていた。さすがにいまの住人からみても、あの部屋の雑然っぷりは堪えたのだろうか。ゴミ袋を避けながらも廊下を進み、部屋を覗き込むと、居並ぶモニターの前にはエドの背中が見えた。
「ただいま戻りました」
エドはモニターから目を離さず、右手のマウスを予断なく動かしながら、左手でボイスレコーダーのボタンを押した。
『おかえり。さっそくだが、報告を聞こうか』
徹底している。公衆電話越しにエドと初めて言葉を交わしてから、いや、直接顔を合わせてからも、暁人はエドが口をひらいたところを見たことがない。
暁人とKKが調査の経緯を伝えると、エドはちらりとこちらをみて、ひとつ頷いた。それから、手を出しながら、ボイスレコーダーのボタンを押す。
『座敷わらしの件に関しては了解した。引き続き対応してくれ。それから、測定器を』
「あ、はい」
忘れてた。暁人はボディバッグから、事前に渡されていたエーテル測定器を取り出して、エドに渡した。エドの本命はそちらだったようで、さっそく測定器をパソコンに繋いで、キーボードを叩き始めた。こうなってしまっては、暁人にもKKにもできることはない。手持ち無沙汰に、暁人はアジトを見渡した。
帰還してからの暁人がまず行ったのは、真里の葬儀の手配。それから、エドに連絡を取ることだった。弓を返却したかったし、経緯も伝えなければいけない。なによりKKもそう勧めた。
なるほど、実際にこのアジトで顔を合わせてみると、それはよくわかった。経緯を説明したあとに、エドが提案したのはシンプルな話だった。
事情は把握した。君には金銭が必要かと思う。うちで調査員としてアルバイトをしないか。我々も君たちの状態を把握しておきたい。
今やるべきことを適切に暁人に提示して、なにが渋谷に起きたかを正確に把握し、すこし離れたところから客観的な意見を率直に伝えるエドの発言は、暁人をしゃんと立たせる力がある。ふつうの人間ならば無礼に感じるところもあったかもしれないが、罪悪感、安堵、疲労、悲しみ。いろんなものでグラグラ揺れていた暁人には、それは進む方向を示す支柱のように思えたのだった。
キーボードを叩く音だけが響く時間がすぎて、しばらく。唐突にボイスレコーダーの声が響いて、暁人はハッと我に帰る。
『データを確認した。暁人くん、やはり君は適合者として覚醒しているようだ。君から以前聞いた話によると、KKが分離した状態でも君は浄化を行えたそうだね? その状態でのエーテルの操作についても、調査を行う必要がありそうだ』
エドは手を休めずにいくつかの操作をしている。KKが口を挟んだ。
「分離した状態って、オマエはそれをどうやって調査するつもりなんだよ」
それを聞いた瞬間、エドは回転椅子をくるりとやって、はじめて暁人のほうをまっすぐ見た。それを待っていた、と言わんばかりの表情であった。暁人はこの短い間に、エドの人柄を把握しはじめていた。いやな予感がする。
『そこで、これだ』
エドが、どこか誇らしげに掲げたものに、うっと暁人は息をつまらせた。KKなどは素直にゲエ、と口に出している。
エドが持っていたのは、間違いなく裂紅鬼のもつ巨大な鋏だった。
「どこから拾ってきたんだよ、そんなもの」
KKが文句を言うと、エドは食い気味にレコーダーを再生する。
『僕だって渋谷から脱出するときに、マレビトと出くわす機会があったってことさ。もちろん札を死ぬほどつかったし死にかけたがね。まあつまり、これでジョキンとやってしまえばいい』
ハサミを両手で持って、エドはジャキジャキと素振りをしている。それだけ残るんだ、とか人間に扱えるの? とか色々なことを暁人は聞きたくなったが、口をつぐむことにした。それを聞いてしまったら、きっとエドは用意しておいたであろう、交響曲ぐらいありそうな壮大なトラックを、満を持して再生するに違いないだろうから。
KKも付き合いが長いだけあってか、賢明にも沈黙を選んだ。エドはしばらくこちらの反応を伺っていたようだが、つまらなそうにボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
『君はアルバイトではあるが、うちの研究室で雇用している従業員だし、なにより学生だ。君のプライバシーを保護する必要もある。永遠にKKと一緒ってわけにもいかないだろう』
暁人は目をまたたかせた。あっけにとられる間に、エドはどんどん次のトラックを再生してしまう。
『それに、君が大学に通う間にKKをここに置いていけるのなら、僕らはKKという研究対象兼、渋谷の事例の重要参考人を手に入れることになる。今回の事例は最高に興味深い』
「おい、暁人、オマエも文句があるなら言っておいたほうがいいぞ」
こいつにはハッキリ言わないと通じない。そうぶつぶつ言うKKの声を聞き流しながら、暁人はエドに向かって頭を下げた。
「……ありがとうございます」
暁人が顔をあげると、エドは珍妙な表情をしていた。鳩が豆鉄砲を喰らったが、その豆が案外美味しかった、みたいな顔である。そして、極めて不服そうに低くうなると、しばらくボイスレコーダーのトラックをカチカチと動かして、重々しく口をひらいた。
「KK、我々のチームには、このような人材が必要だったのかもしれない」
暁人は初めて聞いたエドの肉声に、間抜けに口を開いたが、KKは機嫌よさげにふふんと笑った。