どういたしまして/1 生まれついてからこの方、優しさというものは特別持ち合わせていなかった。父母の愛情はそれなりに受けていたし、生活は豊かでなくとも最低限満たされていたが、端的に言って余裕が不足していた。否、好奇心とでも言おうか。将来自分の役に立つと諭された武芸や拙い読み書きをする気概はあったのだし、家族のために骨を折ることは少しも厭わなかった。
優しさとは生まれついての素質ではなく、習慣である。赤の他人に進んで手を貸し、身を切る行動原理は理性によるものではない。そうあるべきだと、そうありたいと思わせる土壌あってこそと言える。父母は他者に優しかったかもしれないが、ナワーブにそれを強いることはなかった。当然ながら、発展途上にある子供が己の不足に気づく由もない。
はたと両親が目を向けた時には、無味乾燥とした群れにそぐわぬ人間ができようとしていた。傭兵部隊の中で役割を果たし、任務をこなすことはできても、それ以上の行動を想像だにせぬ冷酷無比な生き物である。人間らしさという意味でも、傭兵という職業を全うする意味でもこのままでは不完全だ――勇猛な戦士として名を馳せた父親はそう考えたのだろう。しかし人殺しを教える人間に、果たして優しさを上手く教える事ができたものか。家庭内では一悶着あったようだが、ナワーブは鳥の囀りほどにも気にしていなかった。
「ナワーブ、いらっしゃい」
大人の憂い子知らずで暮らしていた日々に、突然転機が訪れた。母がナワーブの腕に抱えて丁度良い大きさの、つまり小さな兄弟のような人形を与えたのである。父が切り出した木片を組み合わせ、母が縫い上げた衣装を纏った、顔のない木偶人形だった。
「これから、この子を貴方の兄弟のように大切にして欲しいの」
新しい遊びだ、と判じると同時にナワーブは面倒臭さを覚えた。大切にする?物も言わなければ自分の手伝いもできない、足手纏いにしかならないモノを?部屋のどこかか、木の上にでも置いておけば良いだろうか。どうせ両親の一時的な思いつきにすぎず、確認されることもなかろう。くるくると考えを巡らせているうちに、母はナワーブの顔を見ながら木偶人形の顔に木炭で線を引き始めた。
「貴方と同じように澄んだ瞳で」
真っ黒な穴のような目がこちらを見つめ返す。
「貴方のようにニコニコ笑ってくれる」
おざなりに鼻を描いた後、母はやけに力を込めて木偶人形に微笑みを浮かべさせた。どこからどう見ても人間のなり損ないだ――不合格である。母の試みは少々面白かったが、そんな話にかまけるよりも、昔集落を他の部族が襲ってきた際、どうやって退散させ復讐を果たしたか、籠城戦の極意を教えてもらう方が余程有意義であるように感じられた。両親もそうだが、兎角人は不要な話を好む。なんとも理解し難い。
「名前は何にしましょうか。ナワーブが考えてちょうだい」
「……『生き物』にする」
さして悩むことなく、ナワーブは木偶人形の役割を答えた。お情けごっこに付き合うならば、生き物であれば良いだろう。母は見るからに失望した様子だったが、そのまま諦めて放って欲しいとナワーブは願っていた。
「『生き物』、生き物、ね。良いわ、気が向いたらまた考えてみましょう。それじゃあ新しい兄弟と遊んでらっしゃい。どんな遊びをしたのか、お話ししてね」
「手伝いはしなくて良いの?」
「たまには息抜きが必要よ。誰にでもね」
母の顔に浮かんでいたのは、意のままにならぬ子供への戸惑いか、疲労か。残念ながらナワーブは分からずじまいだった。彼女にも息抜きが必要なのだ――そう解釈し、素直に『生き物』と外へ出た。
『生き物』と名前をつけたは良いものの、実際は無機物なものだから自分から何か行動する存在するであろう兄弟とは異なる。全くもって厄介極まりない。ただ、一緒に遊ぶにせよ世話をするにせよ、要望も出さない点は美徳と言えよう。同じ集落に友人や、切磋琢磨する傭兵候補(なにしろこの集落の主産業は傭兵業という名前の出稼ぎなのだ)たちに感じる煩わしさからは解放されている。
だが、大切にするとはどういうことだろう?母から出された課題をこなすのは第一目標だ。満足させなければ、両親が飽きるまで延々繰り返されることは既に経験済みだった。忠告を無視して個人行動に邁進していたらば、お陰で同年齢の少年たちと小部隊を組む羽目になったことは記憶に新しい。足手纏いたちがピイチクぱあちくやかましく、本気で戦場で活躍する覚悟があるのかと疑うような連中だった。まあ、ときには気晴らしになってはいるが。
ともかく、今は人形の始末だ。ナワーブは少し考えて、大切にするならば、自分が兄弟に求めるように同じ苦難に遭うべきだと判断した。
人形は数々の受難を乗り越えた。濁流に押し流され、乾かすという名目で焚火の上を飛び越え、時にナワーブの代わりに犬の攻撃を受けた。当然ながら母が作ってくれた服はあっという間にびりびりになり、大げさな笑みもこの辛苦をどう訴えたものかと言いたげにこすれて不明瞭になってしまった。数々の試練を乗り越えてこそ、戦友足りえるはずだ。自分の信条は疑いようもないが、流石のナワーブも己の行動が他人の目にどう映るかは理解できる。
「どうして大切にしてあげなかったの?」
「……できると思ったから」
母の優しい、だが心の底から怒りと困惑を滲ませた問いかけに怯んだのは、ナワーブなりの罪悪感によるものだったのかもしれない。自分がどう思われようと気にならないが、家族に要らぬ感情を抱かせるのは面倒ごとが増える種である。集落の人間は切り離せても、家族ばかりは切り離せない。おまけに自分はまだまだ子供で、独り立ちするには早いことが痛いほどに理解できていた。
「なら、あなたが思うことのできない相手にどうしたら良いのか、考えてごらんなさい」
遊びにはいろいろあるものよ、と辛抱強く母は言う。彼女には、ナワーブがそこらの人間と同じような思考ができるという希望があるらしかった。他人を想えぬ自分の姿は、『いろいろ』に一緒くたにはされないらしい。ひょっとすると、母は自分に優しさを割くに値しないと考えるようになるのではないか。
瞬間、ナワーブはこれまで無条件に信じていたものが不確かであることに気づいてぞっとした。人の心は不変ではない。感情の余剰がない自分と異なり、他人はいくらでもその気持ちを向ける対象を変えることができる。家族は――家族だけは、自分が生き延びる上で不可欠な存在だった。
「わかった」
つぎはぎの服をまとった『生き物』を片手にぶら下げ、ナワーブは持て余し気味に集落をうろついた。自分と同じ年頃の子供たちが、木で作ったナイフを使った模擬戦を繰り広げている。遊んだことは幾度となくあっても、両親が言うところの『友人』という認識にはない。だが、彼らの望む自分の姿は、きっと戦士としては未熟な彼らのような心の持ちようなのだろうと推察された。
殴り合い、励まし合い、けなし合い、褒め合い、そして阿呆のように笑う。人間は強い。木偶人形ができる内容ではないな、とナワーブは模倣を取りやめた。続いて人形遊びをする少女たちが、人形が話しているかのように一人遊びをする様を目の当たりにしてぞっとする。人形が何を考えているかなど理解しようもない。
「お前は何ができるんだ」
試しに尋ねてみたが、案の定返答はなかった。むしろ、ナワーブの扱いに閉口しているようにさえ見える。もちろんこれは勝手な憶測で、人形に心などありはしない。ククリナイフで山を切り開きながら、ナワーブはずんずんと奥へと分け入った。ここに『生き物』を放置して、なくしてしまったと言いたい気持ちでいっぱいだった。とはいえ、今回ばかりは許されそうにない。
人形は脆弱だった。自分で泳げず、火に簡単に燃え上がり、歩くことさえままならない。ナワーブの助けになるものではなく、一緒に戦う等もってのほかだ。振り回したり、投げナイフの的にすることはできるだろう。だがそれは、母が言うところの『兄弟』のように大切にすることには当てはまるまい。
試しにナワーブは『生き物』を抱きしめてみた。ひんやりとした、命を持たないものは何も返さない。けれども、今の振る舞いは適切であると直感が囁きかけた。片腕に抱いたまま山を歩き、暗くなるまでの時間を太陽の動きで判断しながら、ナワーブは時折人形の様子を伺った。目に見える変化はないものの、少しばかり相手を理解できるような気分になっていた。人間のことさえよくわからないのに――わからなくて良いと切り捨ててきたというのに。
「大切なものがわかったら、幸せになれるんだろうか」
空腹が満たされた時、思ったように体が動かせた時、任務をこなせた時、ナワーブは確かに心が十分な場所に辿り着いたことを感じられる。しかし、他者が話すところの『幸せ』は想像だにしなかった。どうやら良いものではあるらしい。良い気分ならば、なってみても良いだろう。母は自分の幸せを願うと常々話していた。
『生き物』はその足掛かりだ。大切にすることができたら、自分は幸せになり、両親は安堵するに違いない。煩わしいことは言われなくなり、万々歳だ。考えるにつれ、ナワーブにとって出来過ぎるほど良い話であるように思われた。では、試しに守ってみるとしよう。木偶人形には良い点が一つある。何が起きても文句を言わないのだ。
守るためには何か敵が必要だった。集落の人間を敵に回すことは真っ先に却下した。彼らと揉めれば、家族にまで累が及ぶ。先日自分に挑んできた犬はどうだろうか?あれは集落長の飼い犬だ。架空の敵を想像しようとするも、元手がない頭には何の姿も思い浮かばない。大切、大切、大切。どこに答えはあるだろう。
夜はすぐそばに忍び寄っていて、集落に着くと同時に夜になると思えるほどの場所に辿り着いた頃だ。ふと、静けさの中に獣の匂いを嗅ぎ取り、ナワーブは足を止めた。草がふぁさ、ふぁさ、と押し殺すような音を立てている。あれは重たい生き物が精一杯息を潜めた足音だ。グァルル、グァア。風の音に入り混じるのは低い唸り声だ。
虎だ。瞬時に周囲の木々に目を凝らし、ナワーブは逃走経路を弾き出した。枝と枝とを猿のように飛び交ってゆけば、どうにか集落には辿り着けるだろう。姿は見ていないが恐らく虎は一匹、こんなに人里近くに来るのは若い飢えた虎に違いない。集落の大人たちであれば難なく退治できるはずだ。
これまで虎を遠目で見たことはあっても、流石のナワーブも虎と戦ったことはなかった。暗闇で有利なのは敵の方で、余計な動きは一切できない。
敵を求めたらば虎に出会うとは皮肉な話だ。もっと手に負える者であって欲しかった。ひくりと頬を引きつらせ、ナワーブは迷わず目当ての木に登った。動き出すや否や虎が猛然と襲いかかって来る。早く、早く、もっと早く!片手が人形で塞がっているため、いつものように走ることができない。生き延びたいならば捨てるべきだった。けれども考える余裕がなかったからか、必死だからか、ナワーブは人形を守ったまま木を登った。
抱いたままでは難しいので、腰のベルトに人形の腕を挟んで固定する。ブラブラと人形が揺れ、それに誘われるように虎が木を揺さぶった。虎は木登りができる。爪で樹皮を剥ぎながら追い上げてくる気配を背後に感じながら、ナワーブは細い枝を選んで移動した。枝から枝へ飛んでしまえば、流石の虎もすぐには追いつけない。
「うわあっ」
飛び立とうという決意を読み取ったのだろうか。瞬間的にぐわりと虎が迫り、その大椀を振るった。叫びながらも迷わず飛ぶ。1、2、3!何度となくこなしてきたように、ナワーブは空中に綺麗な弧を描いた。腰がバランスを崩したようだが、五体満足で着地できている。虎が悔しそうに咆哮した。落ち着いている場合ではない。すぐさま次の枝を選び、飛ぶ。
飛んで、飛んで、飛んで。もう膝がガクガクとしそうなほどに軽技をこなした末、ナワーブは無事に集落にたどり着くことが出来た。
「虎だ!虎が出た!」
叫び声を上げると、大人たちがわらわらと集って準備を始める。もう大丈夫だろう。安堵のため息を漏らすと、ナワーブは大切に守り抜いた『生き物』を確認しようと腰に触れて青ざめた。
「ない」
正確には、腕だけが挟まれたままで、残りが丸ごと引きちぎられていた。虎の腕が襲ってきた際感じたぐらつきの源が、今ならばよくわかる。
「そんな、」
守るはずのものが、守る能力などありもしないものが自分を守ったのか。命が助かったというのに、途端に自分の体の大半を落としてきたように目の前が真っ暗になった。
「ナワーブ!無事で良かったわ」
「母さん」
知らせを受けたのだろう、駆けつけた母に抱き寄せられ、ナワーブは木偶人形の感触を思い出した。何も返すことのないあの塊が、失った今になって無性に欲しい。
「母さん、『生き物』が」
これだけになってしまったのだ、という説明は言葉にならず、ナワーブはうまく声を発せないことに気付いて驚いた。頬が濡れた感触が不可解で、どうやら自分は泣いているらしかった。
大切に出来なかった。守ろうと思ったというのに、結局自分はちっぽけなもので、大切にするということが分かりきらずに終わってしまった。幸せになぞ、どうしてなれよう?絶望、絶望、絶望的だ!
「大丈夫よ、ナワーブ」
母の声が遠く聞こえる。それは記憶の底にいつまでも残っていた。
あれ以来、ナワーブは欠けたままの生活を送っている。あの『生き物』以上に大切にすべき、ちょうど良いものが見つからなかったのだ。成長するにつれ、人にどう接すれば優しいと見做されるかを理解し、時にそれを利用しても不足を補えるはずなどない。『生き物』は思い出すたびに存在が膨らみ、生涯代わりになるものなど見つからないように思われた。
つまるところ、自分は幸せになれぬままなのか。理性ではせせら笑いつつも、実感としてナワーブは痛みを覚えている。満たされることなどあり得ない。切って、張って、繋いで、幾度も死線を乗り越えて尚わからなかった。
「エミリー・ダイアーよ。『荘園』へようこそ」
「……よろしく」
しかし、人生は時に機会を与えてくれるものでもあるらしい。奇妙な依頼のために訪れた『荘園』で、ナワーブは出迎えてくれたやや高慢な女性から興味深い話を聞いた。 「ここにいる人間は皆一癖も二癖もあるけれども、それなりの協力関係を築けているの。残念ながら、問題の種が一人いるのだけれども」
エミリーが話すには、歳を重ねても行動が子供っぽく癇癪持ちで、その癖世話焼きの胡散臭い経歴の持ち主だった。とりわけ、仲間内の一人の少女に懸想をしていらぬ衝突を生んでいるらしい。依頼をこなすにあたって邪魔であれば、早々に取り除いた方がいいだろう。
「そいつの名前は?」
「クリーチャー。クリーチャー・ピアソンよ」
「『生き物(Creature)』?」
「どちらかといえば、化け物かもね」
あまりいい感情を抱いていないらしい医師は、気だるげに首を振った。生き物?認識した途端、全身が期待に震え出す。役立たずの問題児など、なかなかどうしてうってつけではないか。おまけにクリーチャー・ピアソンなる人物は、ひょろひょろとした弱々しい体型だという。彼ならば守ってやれるかもしれない。彼は守るに足る人物だろうか。
かくてナワーブは運命の試練に出逢う。『ゲーム』を終えてきたという男に対面し、ナワーブは自分の人生に切れ目が入ったことを感じた。もしかしたら、自分は救われるかもしれない。
「クリーチャー・ピアソンだ。聞いている通り、『慈善家』だよ。よろしく」
「あんたが、クリーチャー」
俺の幸せを作る人。ぎゅうと掴んだ手のひらからは、人間らしい温もりが感じ取れて胸がざわついた。握り返される。あの『生き物』が!
皆の好奇な視線などどうということもない。あとは自分が決めたことをなすのみだ。ナワーブはあの日の虎のように炯々と目を輝かせて運命を掴んだ。
〆.