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    zeppei27

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    鍵と錠四話目の〜さらに途中経過……!もうちょっとで終わる予定

    鍵と錠#4 誰かに会うことに、クリーチャー・ピアソンがこれほど緊張したことはなかった。たった数日会わなかっただけで、さながら千年も過ぎ去ったかのような遠い時間の流れを感じる。友人のアンドルー・クレスやノートン・キャンベルには二週間近く会っていないが、彼らに会う際はなんら気負うことはないだろう。家から出たままの、力が抜けた調子で出会っても何一つ問題ない。

    ましてや会おうとしている相手――ナワーブ・サベダーは知人に足を突っ込んだ程度の数日間のお友達である。以前にも幾度か理性が鼻で笑った通り、クリーチャーの胸に今押し迫っている感情は、到底数日間の仲に向けるべきものではなかった。まるで、何年も会えなかった旧友や兄弟、家族のような面映さを持った人間がこれまでいただろうか?ただ言えるのは、あの世馴れた青年の導きに従う時間は悪くないということだけだ。

     直接会って話したのは二日間、それから先は先方の都合で丸々会えず、さながら糸電話のような頼りなさでメッセージのやりとりを重ねた。クリーチャーとナワーブの関係の主題は、如何にクリーチャーを魅力的に仕立て上げるか、であるので当然ながら内容は日々の過ごし方に終始する。おかげさまである程度までは衣服を比較的センス良く選ぶことができるようになったし、姿勢はしゃんとまっすぐに伸びつつある。職場での評判も良い。今ならば、以前よりも胸を張ってエマ・ウッズにだって挨拶できる気がしていた。

     誇らしい成果をもたらしてくれた上に、さらに先へと連れていってくれるはずの男は、今日ようやく波止場に降り立つのである。帰る日の夜遅くに会いたい、というナワーブからの申し出を受け入れたのはクリーチャーの意思だった。夜遅くにと言われたにも関わらず、ソワソワとして仕事に集中できないがためにこうして夕日を眺める理由は、我ながら理解できないでいる。こんな真似をするのは勤めるようになってから初めての出来事で、聞き入れた上司のバルクも僅かながらに怪訝そうな表情を見せた。

     波止場に足を踏み入れるのはもうずいぶん久しぶりのことで、傾きつつある太陽がどんどんと海を紅に染めてゆく様子を眺めながら、クリーチャーは呆然と船着場の柵にもたれかかっていた。ザアザアという寄せては返す波、ミャアミャアと鳴くのはウミネコで、叫びながら走っているのは恐らく置き引きにあったらしい客、それと港湾警察官のホイッスル、クラムチャウダー売りの呼び込みなど、波止場はひどく賑やかである。まるで自分ばかりが世界から切り離されたような居心地の悪ささえ覚えた。

    「どんな顔して会えばいいんだか」

    唇からこぼれ出る声があまりにも浮ついていて面映い。誰かに聞かれていはしまいかと慎重に周囲を見渡したが、波止場を往来する人々は皆自分自身に忙しく、他人にかまける暇は少しもないようである。世間とは大体そんなもので、クリーチャーなど勘定のうちに入れずに進んでゆくのが常だった。そんな日常を打ち破るかのように、たった二日しか出会ってもいない青年に、会って話がしたい、と誘ったのは青天の霹靂である。

     この数日間、あれこれ言い訳をしていたものの、どうしようもなくナワーブに会いたくなってしまった。会って、話をして、自分が騙されていないことを確信して――言葉だけでは表しきれない名状しがたい気持ちを晴らしたい。あっさりと応えた相手は好感触のようで、誰かと親しむ経験が少ないクリーチャーは素直に喜んでいいものかとかえって頭を悩ませた。全ての答えはこれから真っ暗闇の中でわかるだろう。

     気分転換も兼ねてナワーブが見たいと期待する『クリーチャー・ピアソン』像に想いを馳せる。きっと、彼が旅立つ前よりも洒落て、しゃんと背筋が伸びて、もう少し自信に溢れた姿に違いない。こんな風に何時間も前から待ち構えて心の準備をする男ではないだろう。要するに、今の自分はどう足掻いても格好悪いのだった。服装に関しては、今日も職場に遊びに来たトレイシー・レズニックや常連客の美智子(彼女はホテルの経営者なのだ、東洋風のもてなしが人気らしい)に太鼓判を押してもらったので安心して良い。問題は姿勢の方で、どうにも落ち着かずに柵に背中を預けるのがせいぜいの様子だった。

    年長者らしい落ち着いた振る舞いを想像する時、クリーチャーの頭に浮かぶのは街で専用の劇場を構えるセルヴェ・ル・ロイである。稀代の魔術師である男は、成功した人間らしい余裕と太々しさ、ついで洗練された仕草で人々を魅了していた。あそこまでぎらつきたいとは望まないが、あの余裕は見習いたいと思う。彼であればエマだってきっと――否、エマならばナワーブの方を選ぶだろう。彼のように若く溌剌として、その癖余裕もあって洒落た、心安らげる好青年に太刀打ちできる人間は少ないに決まっている。

    つらつらと僅かな思い出を引っ張り出してはこれから会う姿を想像すれば、こぼれ出るのはため息ばかりだ。ナワーブはクリーチャーを魅力的に仕立て上げると宣言したが、どう足掻いても彼ほどにはなれまい。多少改善されるだけである。その多少さえも、今まで通りの生き方ではなし得なかったのだから奇跡なのだが、どうにも月とスッポンのような比べようもない末路だった。

    汽笛の音が響き、すっかり暗くなった海に船が進みゆく。波をかき分けて現れる船の名を見て、クリーチャーは深く息を吸った。




     誰かに会うことを、ナワーブがこれほど切望したことはなかった。必死の思いで電話をかけて以来想いは益々募り、肥大した希望は今や妄想との区別がつかないほどである。たった二日しか会っていない、客であるクリーチャーに抱くには重すぎる感情だ。甲板から身を乗り出さんばかりに前のめりになって港の方角を眺め、今か今かと彼との距離に苛立つ。船は自分の何倍にも広いというのに、海と来たらばさらにその何倍にも膨れ上がって阻むのだ。

    子供のような怒りはどこにもぶつけようがなく、いつまでも引き止めようとした前回の雇い主への怨嗟に終わった。ジョゼフは申し分のない、金払いの良い客である。おまけに悪趣味であっても与えられる役割は挑戦しがいがある。ただ、今回はあまりにも間が悪かった。折角クリーチャーを導く楽しみが軌道に乗り始めたというところなのに、盛大に邪魔をしてくれた挙句に予定以上に拘束されたのである。否、契約を隅々まで確認しなかったナワーブの問題だろう。

     幸いなことに、不慮の事態は二人の関係には影響がなかった。クリーチャーは従順にナワーブが指示した通りに自分磨きを続け、あまつさえこちらに会いたいとまで言い寄るほどになっている。寧ろ大きく前進したと言って良い。前進?我ながら突拍子もない単語に思考が停止する。どこへ向かって進もうというのだろう。二人が乗り込んだ計画の最終駅は、彼が魅力的になることによってたどり着く。あるいは契約期間を終えた時が終わりで、それ以上はあり得ない。ナワーブとクリーチャーの仲がどうなろうが、その軌道には関係のない話だ。前進したところで、どんな新たな展開があるというのか。

    「格好悪いな」

    うだうだとくだらぬ悩みに終始する姿は、クリーチャーのトレーナーたる『ナワーブ・サベダー』らしからぬものだ。腑抜けた体の指示に従う人間は多くはあるまい。潮風に混じって時折頬に当たる波の礫が目に入って沁みる。疲れているせいか、今の自分は何もかもが剥がれ落ちたありのままのナワーブ・サベダーから立ち上がれない。仮面をかぶって脚本通りに動かなければつまらぬ人間だ、もちろん自分にとってはそれで良いのだが、このまま彼に会うのは如何なものか。

     年齢の割に、妙に素直な物知らずの男ならばあるいは、受け入れてくれるだろうか。埒外な考えに唇を歪めると、ナワーブは見る間に大きくなってゆく港の姿にため息をこぼした。どんな顔をして彼に会えば良いのだろう?ひとまず服の皺を伸ばし、ほこりを叩き、ついでに気合いを入れるべく両頬を叩いて降り口へと向かった。

     街は既に夜を迎え、1日の終わりを早々と告げるかのようにそっけない。そこここで再会を喜び合う人々を尻目に、ナワーブはあるはずの姿を探してキョロキョロと当て所なく探し始めた。市民広場で初めてクリーチャーに会った日が懐かしい。あの時はさして迷わずに彼を見つけ出すことができた。もう十分に見知った今の方が必死で探すことになるとは不思議な話である。

    「サベダー君」
    「っ」

    控えめながらも熱のこもった声が投げかけられ、ナワーブはグッと胸に押し寄せたものを堪えた。暖かくて優しくて、ついで涙をもたらそうとする波が、津波となってすぐそこまで来ようとしている。だが理性が働いたのはそこまでで、体は既に相手に向かって走り出していた。

    「ピアソンさん!来てくれたんだね」
    「約束したからな」

    くしゃりと顔を歪める男は、もう何年も会っていなかったかのように懐かしかった。呼吸を整えなければ、と思うもどうにも落ち着かない。宵闇が自分のこの余裕のない顔を誤魔化してくれて本当に良かった。そうでなければ、クリーチャーはもはやトレーナーとしてのナワーブを不要とするだろう。ここにいるのは、彼に会えて嬉しいという気持ちで手一杯の男に過ぎない。

    「お疲れ様。なんの仕事かは知らないが、大変だったみたいだな」
    「うん。思ったよりも時間がかかって……急に会えなくなって、ごめんね」
    「良いさ、仕事じゃ仕方がない」

    君の本業なんだろう、と悪戯げに告げる彼からはすっかり洗練された格好(とは言え、選んだのは殆どナワーブだ)も相まって、年長者らしい余裕が漂っている。今の彼ならば、以前よりもエマに堂々と相対できるだろう。あのエマに、と島での出来事を思い出してナワーブはゾッとした。言い知れないもやもやとした不安が腹の辺りを渦巻いて気持ちが悪い。

    「写真、毎日送ってくれてありがとう。レッスンも頑張って続けたんだね。マルガレータが褒めてたよ」
    「……騙されてないって、信じたかったからな」
    「え?」
    「なんでもない。マルガレータが褒めてたなんて驚きだな。会うたびに厳しく扱かれるだけなのに」
    「それだけ見どころがあるってことだよ」

    事実である。クリーチャーのセリフには引っ掛かりを覚えたものの、ナワーブは花開いた晴れやかな表情に流されることにした。そもそも、マルガレータがナワーブに連絡をよこすことからして珍しい。才能のあるなしではなく、クリーチャーの直向きな努力を汲み取ってくれたのだろう。緩やかに体つきも締まり始めたような気がして、ナワーブは心のままに痩せた体を引き寄せた。

    「わ、」
    「もっと近くでよく見せて。暗いからあんまり見えないんだ」
    「疲れて目が霞んでいるんじゃないか?もう家に帰って休んだ方がいい。もう店も閉まってる」

    真っ当な意見だが、今の自分が欲しいのはそんなものではない。どんなに疲れて眠くとも、彼に会いたいと願った。応えたのはクリーチャーで、目覚めたのはナワーブの奥深くに眠っていた飢えだ。電話をかけるまでに、どれほど逡巡し懊悩したかを彼は知るまい。幾度か躊躇い、手のひらを彷徨わせて、ナワーブはぎゅうとクリーチャーを抱きすくめた。

    「来てくれてありがと、ピアソンさん」
    「どういたしまして?」
    「うん。ね、明日もまた会える?」

    何が起きているのかわからず、目を白黒させるクリーチャーは可愛らしい。これまで何度か感じていたが、やはりこの年上の男性は自分の心の琴線をくすぐってやまない。可愛いだなんてどうかしている、だが実際可愛いのである。悩むくらいであれば受け入れてしまった方が楽だと疲れた頭が宣言し、ナワーブは素直に従った。

    「明日も会えると思う。でもなあ、君は疲れてるだろう?一日休んだ方がいいんじゃないか」
    「俺なら大丈夫。それにもう時間があんまり残ってないでしょ」

    純然たる事実を突きつければ、クリーチャーが押し黙る。彼の優しさは残酷だ――かつて演じられた役割に惚れてしまった誰かの捨て台詞が脳裏を過ぎる。からきしウブでモテない人間が、自分を振り回すとはずいぶん生意気な話だ、とナワーブは鼻を鳴らした。抵抗されないことを良いことに、背中に回した腕をさりげなく動かして相手の体型を把握する。出会いたての頃のものから緩やかに変化を迎えつつあることが、服の上からでもおぼろげに知れた。体の持ち主は悩ましげに眉間に皺を寄せるばかりである。が、うんとひとつ唸った後、不意にこちらを抱きしめ返してきた。

    「な、なに」
    「いや、君の体はつくづくよくできていると思って。で、でも、少しは私も変わってきただろう?」

    耳元で火山が噴火したかのようだった。良い体をしている、と遠回しに褒められたのだと分かった瞬間、ナワーブの血圧は一気に急上昇し、顔を耳まで綺麗に赤く染め上げた。全身赤くなっていたかも知れない。夜が深くなければ誰にだって不思議がられていたことだろう。なんとか気力を総動員してクリーチャーを引き剥がすと、ナワーブは長々とため息をついた。疲労のせいもあるだろうが、どうにも今の自分は不安定でいけない。

    「どうだ?」
    「うん。姿勢も良くなったし、筋肉がつき始めてるね」

    クリーチャーは体を離した理由について、自分の体を検分するためなのだと判断したらしい。本当はどうにかなってしまいそうだったからなのだが、ナワーブはありがたく便乗することにした。沸き起こった衝動については、まずは自分が冷静に理解してから実現するとしよう。

    「日のある時にもう一度見ないと、断言できないけど」
    「……君は強引だな。あー、それじゃあ、その、こういうのはどうだ。明日は私が君を観察して、お手本にするんだ。ほら、できる人間を真似した方が早いって言うだろう?姿勢がいいだけじゃ、魅力的には程遠いからな」
    「俺をお手本に、ねえ。どこでそんな口説き文句を覚えたの」

    要するに、一緒に休もうと言いたいのだろう。巧みに自尊心をくすぐる台詞に、見えすいた罠だと理解しながらもにやける笑顔を止められない。愚直な物言いが、これほどまでに効果的面だとは思いもよらなかった。もし滑らかに言葉を操れるようになったらば、彼の印象はどれほど変わることだろう。空恐ろしさを覚えつつも、ナワーブは次のレッスン内容を頭に思い描いていた。

    「わかった。それじゃあまた明日ね。ピアソンさんが会える時間に、場所を指定してくれたらそこに行くよ」
    「ああ。すぐに連絡する」

    心なし、クリーチャーの頬も自分のように赤く染まっているような気がしたが、願望が見せた幻だろう。名残惜しくも離れながら、ナワーブは自分の中で育ちつつあるまやかしからそっと目を背けた。




     窓の向こうに広がった空はどこまでも抜けるように青く澄み渡り、日差しはやや強い。まだまだ陽が長い頃であるのを強く思わせる陽気に、店の2階で錆びついた錠前の手入れをしていたクリーチャーは頬を緩ませた。今日は朝から浮き足立つような喜びが身のうちから溢れてくる。給料日だってここまで気分が持ち上がりはしないし、強いて言うならば運よくエマといくらか会話を重ねることができた時に近い。もっとも、エマとの会話はクリーチャーが望む内容では続きはしないので、業務的なものだったと理性は嘲笑っていた。

     頬を撫でる風さえも優しい。風にかき混ぜられた部屋の空気の中で、油に混じってコーヒーの香りが鼻をくすぐり、クリーチャーは反対方向へと首を捻らせた。見覚えのある縞模様のシャツを着たルカ・バルサー(彼はどういうわけか横縞のシャツを大量に持っている)が、湯気を立てたカップを両手に持って佇んでいる。

    「機嫌が良さそうじゃないか。コーヒーでも飲むかい」
    「かも知れないな。ありがたくいただく……おい」

    手を伸ばせばすいと避けられ、クリーチャーは怪訝に眉を顰めた。微睡むようなルカの目が、珍しくしっかりと開かれている。こんな表情を見るのはいつぶりだろうか。少し記憶を遡ると、数年前にさる大手銀行のセキュリティが突破された際、重役たちが何人も泣きついてきたことよりも突破した相手を突破し返す喜びでいっぱいになっていた際に見たのだと思い出す。要するに――彼は面白いものを見つけたのだ。

    「背中を押したこの天才に、ことの顛末くらい教えてくれたって良いじゃないか、クリーチャー。例の彼氏には会えたのかい?」
    「だから彼氏じゃない」

    妙な間違えを訂正すると、クリーチャーはカップを受け取るべきかしばし逡巡した。自己申告である点が大変傲慢だが、この同僚は紛れもなく天才である。一度目をつけた獲物を逃すことはないだろうし、ここではぐらかした場合、クリーチャーの思いも寄らない結果を引き寄せかねない。悪魔に手を掴まれるよりも先に、こちら側から掴んでしまった方がいくらか気が楽だろう。誤魔化すように咳払いをすると、クリーチャーはカップを受け取るべく手を伸ばした。

    「君の勧めてくれた通りに約束をしたんだ。無事に会えたよ。……今日も、この後会う約束をしている」
    「へえ、それは良かった。君一人が会いたいわけじゃなかったんだな」
    「幸いに、」

    これで十分だろうと再度手を伸ばすと、ルカは今度も器用に避けて見せた。カッと開いていた目が面白そうに歪められる。普段微睡んでいるような目つきをする癖に、一度動き出せば雄弁で手強い。舌打ちしたいような気持ちを堪えつつ、クリーチャーはグッと下腹に力を入れて背筋を伸ばした。

    「き、君には感謝してる。色々とその、聞いてくれて助かった」
    「よろしい」

    今度こそカップが手渡され、気恥ずかしさを隠すようにしてクリーチャーはいそいそと口をつけた。ルカの淹れるコーヒーは、外の店で飲むものよりもずっと濃く脳に響く。本人曰くは、カスタードクリームがたっぷり入ったクロワッサンを浸すといくらでも飲める代物だそうだ。彼の故郷ではよく食べる朝食であるらしい。朝からゾッとするほど大量の糖分を取るから賢くなったのだろうか。鼻歌を歌いながらプログラミングに舞い戻った同僚の背中を横目にし、クリーチャーは再び窓の外へと目を向けた。

     天気が良いためもあってか、店の建物が面した大通りは賑わっている。階下の状況は見えないものの、屋台が盛んに呼び込みをしている声や犬の鳴き声、雑踏からそれと察せられた。昼食は久方ぶりに屋台でブリトーを買うのも良いかも知れない。ルカに奢ってやるのもやぶさかではなかった。よく店の前に陣取る店で出される、濃いタレに漬け込んだ牛肉を包んだブリトーは定期的に食べたくなる魔性の味わいで、機会があればナワーブにも食べさせてみたい。

    ナワーブがものを食べる所作を、クリーチャーは心密かに気に入っていた。食べ方というのは面白いもので、その人となりを無意識に表現している。例えば料理を小さく切り分けながら少しずつ食べる人間は、大概余裕がある家庭に育った人間だ。食事作法を教えられ、かつゆっくりと時間をかけて食べられる空間に長居していた証左である。一方で大食いかつガツガツと食べる人間は、兄弟が多かったり自営業であったりと何かと忙しい状況で食べ続けていたことが察せられる。もちろんこれが全てではない。注意深く自分自身を変えてきた人間だっているだろう。

    さておき、ナワーブの食べ方はひどく開放的だった。自分の食べたいものを美味しいと思う気持ちがダダ漏れている。気持ちが加速するように時折早くなり、終盤に向かって名残り惜しむようにゆっくりとなる様は、食事というよりもダンスに近い動きだった。パートナー代行をする彼は、きっといくらでも食べ方くらい演じられるだろう。しかしクリーチャーの前ではその必要がない。好きなものには全身でのめり込み、味わい尽くす青年の姿があるだけだ。

     そつなく自分を導いてゆくトレーナーが魅力的であることは間違いないが、不意に投げつけられる彼の素の様子は一層惹きつけられる。取り繕う素振りを全て失った昨晩の姿を思い起こし、クリーチャーは頬を緩めた。ナワーブの顔を見た瞬間、会うまでやきもきしていたことが嘘のように気持ちが和らいだことを思い出す。薄暗くなった状態でも疲れていることがわかるというのに、自分との再会を心から喜んでくれているようだった。

     あんな風にひたむきな好意を向けられたらば、どんな注文主も惑ってしまうに違いない。魅力的な男というのは罪なものだ。パートナー代行という職業が、ナワーブに向いているのかいないのか、何とも微妙なところである。彼の恋人は気が気ではないだろう。赤の他人に要らぬ心配をしながら、クリーチャーはふと思考を止めた。考えもしなかったが、あれだけ魅力的な青年なのだ、恋人か、もしくはそれに近い懇意にしている人間がいるのではないだろうか。だとすれば、いくら仕事とは言えこうも連日振り回すのは些か躊躇われる。

    時間であるとかお金であるとか、諸々の事情が頭を巡り、客の立場から考えるものではないと一蹴した。自分の始末もできない人間が、導き手のことを心配してどうすると言うのか。気を紛らわせるべく立ち上がると、クリーチャーは窓辺に近寄り通りを見下ろした。予想通りにブリトー屋が店を構え、砂糖に群がる蟻のように人々が列を成している。大道芸人がヴァイオリン弾きと即席で組んで芸を見せ、帽子いっぱいのチップを受け取っていた。そうかと思えば踊る群れもあり、さながら祭りのような有様である。仕事上がりにまだ店が開いていれば、ナワーブにも何か買って持っていくとしよう。なにしろ今日は彼を観察するという名目の休みを楽しむのだから。

    「ん?」

    結局客らしからぬ気を回している、と苦笑した視界の端に違和感を覚えて現実に目を向ける。今、何か見覚えのある姿を見かけなかっただろうか。コーヒーを一口啜って冷静さを取り戻し、目を凝らす。間違い探しをするように眼球をゆっくりと動かし――クリーチャーは違和感の正体を突き止めた。炙り出された対象者がこちらの視線に気づいてくるりと振り向く。びくりと体を震わせると、クリーチャーは一歩後ろに下がった。

    「……なんでだ」

    それは数時間後に会う予定のナワーブ・サベダー、その人であった。




     我ながら大胆な行動だとは思う。ティーンエイジャーではないかと思うほどの衝動を抱えて、ナワーブは何をするでなしに歩き始めてしまっていた。休みであろうとも体に染み付いた習慣は消えず、アラームをセットしたままに目覚めて朝食を用意する。昨晩クリーチャーがそっと渡してくれたアップルパイは、疲れた身にひどく優しかった。オーブンで温められたバターとリンゴのハーモニーに乗せられて、コーヒーを取りやめてペリエとライムで迎え撃つ。爽やかさが爆ぜて体に活力を与えてくれる。

     ジョギングとストレッチをしてもなお時間は余り、何度も時間を確かめることにも飽きてしまった時には途方に暮れた。普段の休日にどう過ごしていたかがうまく思い出せない。買い出しに行かねばならないような気もするが、クリーチャーと連日連むのであればほぼ外食となる。敢えて買いに出る必要はないだろう。次の仕事の準備も不要だ。自宅でお気に入りのスツールに腰掛け、話題作りのために見ていたニュースやSNSの数々を漁るも気はそぞろである。

    「……ちょっとくらい、確認したって良いよな」

    ちら、ともう一度スマートフォンで時間を確認するも約束までには四時間ほど残っている。幸いなことに、クリーチャーは今日も早朝からの出勤なので通常よりも仕事上がりが早い。彼の口から職場の話はあまり聞かない――魅力を引き出すための話に手一杯で、プライベートな話はまだまだできずにいたのだ――ため、仕事中には作業着を着ていることくらいしか知らない。どんな同僚がいて、服装を褒めてくれた人間はどんな相手なのか、どんな話をするのか、麗しのエマはどの程度の頻度で現れるのか。錠前屋という商売柄、そう頻繁にお世話になる人間は少ないだろう。

    「錠前屋のお客さんになるのは、鍵を無くしたり壊した人だよね。そんなに毎日誰かが無くしてるなんて、思ってもみなかった」
    「まさか。自分の鍵を何度もなくすやつなんて殆どいない。壊すのもだ」

    出会った日の夕食時、ふと疑問に思ったことを伝えたらばクリーチャーは片目を瞑って見せた。どきりとする心臓を無視すると、ナワーブは今更のように相手の懐を心配した。自分磨きのためとは言え、なかなかの出費を強いている。彼の飾り気のなさは、自分自身に無頓着であることも理由の一つだろうが、もし金銭的な事情であれば自分は背伸びをさせすぎたかもしれない。

    「じゃあ暇な時間が多いってこと?」
    「まさか」

    器用に箸でもやしを摘むと、クリーチャーはするりと口の中へと招き入れる。中華料理は余り食べたことがないのだ、と言う彼が箸の使い方を覚えたのはつい先ほどだが、今では幼い頃から使っていたかのように自然だ。元々物覚えが良いのだろう。教え甲斐があるとナワーブがほくそ笑んだのは言うまでもない。クリーチャーを仕立て上げるのは、ナワーブの気まぐれであそびのようなものだが、手応えがあった方が楽しいに決まっている。

    「常連客はホテルや寮の管理人だ。遠い場所から来た人間は、よくものをなくすらしい」
    「なるほどね」

    だから様々な種類の鍵をいつでも用意しているのだ、と端的に教えてくれた。クリーチャーが担当するのは、昔ながらの形ある鍵で、最新式のものは別の人間が扱っているそうだ。プロの話を聞きながら、ナワーブはしみじみ納得したことを覚えている。滅多に使わないものや、慣れない環境で動いている際にはものをなくしやすいだろう。かくて錠前屋は無事に成立するのだ。

     現実に舞い戻り、ナワーブは指先で額を撫でて苦笑した。何一つ集中できていない。スマートフォンの画面ではチカチカと最新情報がお目通りを願っているというのに一つも興味を持てなかった。思い出すのは昨晩のクリーチャーの姿で、匂いまでも蘇ってくるかのようだった。これまで他人の匂いなど気に求めていなかったが、どうやら自分には隠れた性癖があるらしい。

    そうだ、観念せざるを得ない。寝て起きて思考をリセットしても尚、脳裏に残像がちらつくほどクリーチャーを求めている。スマートフォンを掌で弄び、顎にトントンと当てて低く唸った。今でも自分はおかしいと断言できる。『ナワーブ・サベダー』はこんな人間ではなかったはずだ。そっけない日常には誰も立ち入らせずにひっそりとしていたというのに、今や満開の花畑が広がりつつある。多分虹色のポニーも遊んでいるに違いない。

    人生にはわからないことが多い。他人の物語でリスクのない冒険を繰り返し楽しんできた身の上には、自分自身の物語の出来事は少々刺激が強すぎた。スツールから立ち上がり、ジョギングに出かけるような気楽な服を選ぶ。今日は休暇であり、肩肘の張った服装ではクリーチャーを緊張させてしまうだろう。自然な姿で彼と時間を過ごしてみたかった。自然な姿?一体どんな姿なのかは、自分でも見当がつかない。

    「確か市民通りの近くだよな」

    外に出れば、夏が過ぎつつあることを知らせるかのように涼しい風が肌に心地良い。足は気の赴くままに動いてゆく。仕事で身につけた記憶力の良さは健在で、ナワーブは易々とクリーチャーの職場近くへ向かうことができた。天気が良い日の過ごし方は誰しも同じなのか、大通りは祭りのようにごった返していた。週末のマーケットでしかお目にかかれないような屋台も顔を見せている。

    「ナワーブ!」
    「マイクか」

    喧騒を観察しながら番地を辿っていると、慣れ親しんだ声を耳にして立ち止まった。道化衣装を身につけたマイク・モートンが、満開のひまわりのような笑顔を浮かべて手を振ってくる。いくつものキラキラとしたボールをジャグリングする様子からして、マイクは腕試しに来たらしい。ノイジー・サーカスに勤めるマイクの夢は、サーカスの面々と共に世界を巡って興行することで、一般市民の前で大道芸を披露するのはその準備なのだ。ポールとポールの間にピンと貼ったロープの上で、一輪車に乗った道化姿の男もこちらを認めて手を振ってくる。あれは確か、ジムのトレーナーの一人であるジョーカーだろう。その横では、珍しくも背が高い男がヴァイオリンを優雅に弾いていた。

    「良い天気だから、人が来ると思ってさ。それにね!アントニオさんもいたんだよね。ここは盛大にやるしかないって思うでしょ?」
    「吾輩は一人で良いんだがな」

    慇懃無礼に言い放つアントニオは、いかにも偏屈そうな顔立ちだ。その癖手元のヴァイオリンから流れる調べは甘く優しく、ナワーブは意外な面持ちで眺めていた。芸術家という生き物はどうにも癖があるらしい。だからこそ心のどこかに引っかかって忘れられないのだろう。マイクはアントニオの不機嫌さをものともせず、もう、と子供のようにむすくれて見せた。ナワーブと相手が初対面であることを完全に失念しているが、目の前のことに夢中になるのは彼の良さでもあった。

    「視覚効果がある方が何倍にも楽しめるんだって。効果はアントニオさんだって……まあいいや。ナワーブ、良かったら見ていって!後でお昼でも食べないかい」
    「いや、人と約束しているところなんだ。今度その人とゆっくり見せてもらうよ」
    「うーん残念」

    それじゃあ仕方がないね、とあっさり手放すのもまたマイクらしさである。ジョーカーが肩をすくめて見せ、ナワーブは目だけで同意した。
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    Replies from the creator

    zeppei27

    DONE傭泥で、謎のスパダリ(?)ナワーブに悩まされるピアソンさんのお話です。果たしてナワーブの真意はどこにあるのか、一緒に迷いながら楽しんでいただければ幸いです〜続きます!
    ご親切にどうもありがとう/1 他人に配慮することは、相手に目に見えぬ『貸し』を作ることである。塵も積もればなんとやらで、あからさまでなしにさりげなく、しかし何とはなしに伝えねばならない。当たり前だと思われてはこちらの損だからだ。返せる程度の親切を相手に『させた』時点で関係は極限に達する。お互いとても楽しい経験で、これからも続けたいと思わせたならば大成功だ。
     そう、クリーチャー・ピアソンにとって『親切』はあくまでもビジネスであり駆け引きだ。慈善家の看板を掲げているのは、何もない状態で親切心を表現しようものならば疑惑を抱かせてしまう自分の見目故である。生い立ちからすれば見てくれの良さは必ずしも良いものではなかったと言うならば、曳かれ者の小唄になってしまうだろう。せめてもう少し好感触を抱かせる容貌をしていたらば楽ができたはずだからだ。クリーチャーはドブの臭いのように自分の人生を引きずっていた――故にそれを逆手に取っている。
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