徒花の涙大魔王の脅威が去り、皆がそれぞれの道を選ぶ中で迷っていた彼に声を掛けた。
”時間をくれませんか”と懇願した私から本当は逃げたかっただろう。
あの頃、大切な記憶をひた隠して静かに独りで泣いていた姿を思い出す。
もっと早く、あの別離が訪れる前に向き合わねばならなかったのだ。
私の正義が揺らいだあの頃に。
カール城の一室、そのバルコニーには夜の城下町を一人見下ろす影があった。
勇者の帰還と勝利を受け、城も街も灯りと歓声に満ちている。
大戦の一番の功労者は喜びの声を背に昏い目で夜空を見上げた。
戦いは確かに終わった。しかし、戦いが終わっても変化は止まらない。
望まずとも事変の荒波が静かに畝りをあげてゆく。
昨日まで親しくしていたはずの身近な魔物や魔族たちでさえ、瞬く間に危険視され、迫害された。
いつ彼らが狂暴化するのか、彼らもやはり魔王の手先なのではないか。
人間に紛れ込んでじっと機会を窺っていただけなのではないか。
疑心は不和を呼び、恐怖は力となって世界を飲み込んだ。
大戦がもたらした影響は既に後戻りができないところまで及んでしまっていたのだ。
ハドラーは地上を、人間たちを支配しようとしていた。
人間たちはそれに抗い、自由のために戦った。
その結果がこれだというのなら我々の求めた自由とは何だったのだろうか。
何も知らなければ正義だけを信じていていられた。
しかし、アバンは出会ってしまったのだ。
あの迷宮で。正義がなされたと歓声に沸く人民の陰で独り泣く小さな彼に。
正義とは何だろうか。
命の善悪は誰が決めるのだろうか。
勇者は一人問い続け、答えを求めて旅に出た。
幼い手だけを握りしめて、彼が見つける答えがせめて救いになることを願って。
そして無力の代償が支払われる。
己の過ちを突き付けられ、失意の元で辿り着いた親友の元にいた小さな命。
家の外で母レイラについて歩いている幼子を見るとどうしてもあの子を思い出す。
出会った頃にはすでに六歳くらいだったから随分と大きさが違うがそれでも何故か重なった。
「ずいぶんと大きくなりましたね」
「こどもの成長ってのは早いもんだな。こないだまで一人で動けもしなかったのがいつのまにかしゃべって一人で歩き出しちまう。いつまでも親の腕の中で守られてなんてくれないのさ」
嗚呼、そうだ。太陽に怯え、雨に驚いていた幼子はあっという間に世界に順応した。
順応できなかったのは人間にだけだ。
少しづつ人の手に慣れさせて、人の生活に溶け込ませて、そうして生きる場所を定められたら真実を伝えるはずだった。
「真実を受け入れるかどうかは本人が決めることだ。お前じゃない。お前は拒絶を恐れたんだろう。お前が殺したと聞く耳持たずに泣き喚かれるのが嫌だったんじゃないか?だからお前の言うことが真実であると信じてもらえるくらい信頼を得るまで保留にした」
厳しい指摘に心臓が冷たくなった。いつの間にこんなに小賢しくなってしまったのだろう。
「あの子ね、ちゃんと笑えるんです」
「あん?」
「私には滅多に見せてくれなかったけど」
たとえばスライムやドラキー、アルミラージといった小さな魔物たち。
たとえば牛や馬、人懐こい犬や威嚇してくる猫でさえも純粋な眼に警戒を解いてその手が触れることを許した。
そうするたびに懐かしそうに密やかに笑うのだ。
地上の生き物だろうと魔の生き物だろうと分け隔てなく。
貴重な笑みを思い返すが、すぐにあの日の怒りに染まった瞳を思い出す。
そう、怒りだったのだ。憎悪ではなく、純粋な怒りで彼は刃を向けた。
父を殺した私に。魔物たちを殺した私に。人間である己を殺さなかった人間の勇者に。
カール城であの子に向けられた名は”魔物の子”
勇者を惑わす不吉な子よと蔑む眼を向けられたことに私が耐えられずに逃げ出したのだ。
戦いに勝っても火種はあちこちに燻っていた。きっと近いうちに大炎上を引き起こすだろう。
如何に勇者と持て囃されそうとも、ただのちっぽけな若造一人に世界は変えられない。
たった一人の小さなこどもの世界を壊しただけだった。
「いたいいたい?」
思考の海に沈んでいた意識が引き上げられる。
目の前には大きな瞳。
「おおマァム、一人でここまで来たのか」
でれでれとすごい、天才、さすが俺の子と拍手喝采の親友だが、件の少女はアバンに視線を向けたままだ。
「いたいいたい?」
繰り返された言葉の意味を図りかねているとロカがマァムを抱き上げながら言う。
「痛いか?だとよ」
「痛い、ですか」
「こどもってのはな、大人の感情に敏感なんだよ」
そうか、だからヒュンケルは私に心を開いてくれなかったのだろうか。
私の無意識の打算に気付いていたのだろうか。
「いたいいたい?」
じっと見つめてくる瞳はただ案じるような色だけを宿し、どこまでもきれいで澄んでいた。
あの子もよくこんな瞳を、思ってから息を飲んだ。
「アバン?」
「ロカ、どうしましょう」
あの子の怒りは果たして私に向けられたものだったのだろうか。
あの子は私の罪悪感に気付いていたのかもしれない。
あの子に刃を向けさせたのは私自身だったのだろうか。
あの子は自分に向けられた視線の意味を知っていた。
知っていて、"魔物の子"を連れ歩く私を案じていたのだろうか。
「私はあの子を知ろうともしなかったんですね」
何も持っていないと思い込んで与えるばかりだった。
ぽっかり空いた穴が大きく見えて、詰め込むことに必死だった。
可哀そうな魔物の子しか見えていなかった。
「それで、どうすんだ?」
「決まっています」
あの子を捜す。きっと生きていると信じている。何年経とうとも必ず見つけ出して見せる。
そのためには世界中を回る必要がある。だが人間の時は短い。うかうかしていられない。
それに脅威が完全に去ったとは思えない。魔王はいつか再び現れるだろう。
だが再び復活したとき、己が同じく戦えるかはわからない。
「ロカ、私決めました」
たとえ一人一人の命は一瞬だとしても、伝えていくことで永遠に輝く閃光となれるよう抗い続けると決めた。
あの日、自分が騎士を志した日の願いは今も変わっていない。
誰も泣かなくて済む世界にしたかった。
種族に関わらず、皆が笑える世界を望んでいた。
だからそのために強くなろう。そして強くなってすべてを伝えていくのだ。
戦士はヒュンケルがいる。あとは魔法使いと僧侶、何より勇者が必要だ。
育てて、そして伝えるのだ。伝えてもらうために。
「マァム、いつかあの子に会ったら」
あの子と同じくやさしい世界でやさしさに包まれた少女に託した願い。
あの子はあなたに出会うまでにきっとたくさん独りで泣いているから。
だからどうか見つけたその時はただ―・・・。
**
ごほっと血反吐を吐いて蹲る背中はひどく小さく弱弱しい。
だが、こちらが一歩踏み出せば野生の獣のような鋭い眼を向けてくる。
どれだけ痛めつけようと涙一つ見せない幼子は、小さな体には収まりきらないほどの憎悪を抱え込んでいた。
バネのように全身で飛びかかってきた小さな獣に暗黒闘気を纏わせる。
ぴたりと動けなくなった身体に、それでも抗おうとするギラついた眼に不思議と視線を逸らせない。
振り払うように捕えた身体を地に叩きつけると、それきり動かなくなった幼子を見下ろした。
これはきっといつの日か人間たちに災いとして降りかかるだろう。
相反する感情を持て余し、矛盾をかき集めては不要と捨て去り、なけなしの怒りを集めて無理やりに作り上げた刃は幼子に終わりをもたらしてはくれなかった。
たかが数年しか生きていない脆弱な生き物は、しかしその短い生で既に三度も死に損なっている。
死に損なうたびに残された愛は喪失に歪み、昏い場所に引きずり込む鎖となった。
眠る幼子が何かを呟く。眠りの淵で己が願うことを本人すら知らない。
死を願う小さな獣は苛烈業苦の中で再び静かに牙を研ぐ。
今度こそ遠く離れた群れに追いつけるよう、確実な終わりのために。
********
すべてが終わってから姉弟子に聞いた話だ。
愛されたが故にすべてを失い、生き残った代償を求めてひたすらに抗い続けた男の半生。
だからこそ奪った命に報いようと己のすべてを差し出したのだろう。
何を与えられようと喪失の痛みは何にも代えられないことを彼は誰よりよく知っている。
どんな大怪我をしようとも戦い続けた姿を思い出す。
だが、戦えなくなってもなお、幾多の痛苦が彼に襲い掛かるだろう。
己とてふとした瞬間に湧き上がる憎悪がないわけではない。
だからあなたへ許すならただ一つ。
手つかずのままのカップの中身はすっかり冷めてしまっただろう。
二つのそれを眺めながら少し細くなっていた背を思う。
耐え抜いてみせて。
私が笑ってあなたと父親の話ができる日が来るまで。
次はダイくんとラーハルトも入れて話をしたいと思う。
二度と同じ悲劇を繰り返さないために。
**
姫と話をした。
ぽつりとこぼされた声音は不明瞭で何を言われたのかと問えばただ一つ。
”耐え抜いて見せて”とは、あの姫に言われたのであればそうするよりほかにない。
「何故、あんなに強く在れるのだろうな」
脳裏に浮かぶのはきっと姫だけではないだろう。
放り出してしまえばもっと楽に生きられたはずだ。
こいつの父親も、己の母親も。
魔でありながら人の子を愛したこいつの父と、人でありながら魔を愛した己の母。
人と魔の狭間でどっちつかずのまま、それでもただ愛を貫こうとした。
「復讐なんて大それたものじゃない。きっとただの八つ当たりだったんだ」
無力な自分への。
たった一つの大切なものさえ守れない役立たずの自分への。
「復讐なんてそんなものだろう」
「そうか」
「それでもお前は過去から眼を逸らさなかった」
己の闇に挑み、ひたすらに前を見据えて光を探してみせた。
そしてその光が己の涙を救い上げたのだ。
だからお前が耐えるなら俺も耐えて見せよう。
いつかお前が泣いている誰かに再び手を差し伸べた時、隣で一緒に支えてやりたいと思う。
「だから何も恥ずべきことはなかろう」
「何のことだ」
「逃げないと決めたのならさっさと行ってこい」
「わかっている」
死地に赴くような顔に噴き出したくなるのをどうにか耐える。
付き合いは短すぎるほどだが、その僅かな時間でも互いに信頼関係があることくらいは察せられた。
当の本人たちだけが互いが自分に向ける感情が良くないものだと思い込んでいるのだ。
「まったく難儀なものだ」
雨はやがて上がるだろう。
苦しんでも耐え抜いた先にきっと、決して迷わない朝が来る。
**
数多の命を屠り、数え切れぬ罪を犯した。
生き抜くために、強くなるために、なんだって熟して見せた。
すべては負の遺産。恥ずべきものと思っていた。
「すべてのことに無意味なことなんてありませんよ。あなたが負の遺産と呼ぶそれらが或いはいつか、誰かのためになるかもしれない」
穏やかに笑う師の言葉にヒュンケルは眼を見開いて固まった。
そんな風に考えたこともなかったのだ。
「たとえばあなたが魔界にいたことは今後魔界との関係を考えるうえで役立つかもしれませんし、魔族側の情勢もある程度見知っているでしょう?バーンが消えたことで当面はヴェルザー一強かもしれませんが未だ封印は解けていない。ならば新たに頭角を現すものも出てくるかもしれない。そのあたり、心当たりはありますか?それに魔界に行く方法もあなた、知っていたりします?」
ぺらぺらと勢いよく話し始めた師の眼差しは見覚えがある。
己の身勝手で壊したと思ったものが、まだそこにあった。