稽古後に、外の水道で二人して顔を洗いタオルで拭いていると、良守の爪がひっかかってツーっと糸が出てしまった。
「ありゃ、爪が割れちゃってる」
良守の左人差し指の爪がかけてしまっていて、そこにタオルの繊維がひっかかったようで、正守の目の前に出して見せてくる。
「たぶんさっきぶつけた時かな」
このタオル父さんに見つかったら怒られるかなぁなんてのんきなことを言っている。
「ちゃんと爪切っとけよ」
「うーん、そろそろ切らなきゃなとは思ってたんだけど、父さん忙しそうで」
「なんで、父さん忙しそうだと爪切らないんだよ?」
「え?だって切ってって言いづらいじゃん」
「え?」
「え?」
話がかみ合っておらずお互い疑問符を飛ばしていたが、正守はふと思いついた。
「良守、もしかして父さんに切ってもらってるの?」
「え?正守は自分で切ってるの?」
相変わらず疑問を疑問で返してくる良守だったが、先ほどの謎は解けた。
「もう小学生にもなって父さんに切ってもらってるなんて、良守は甘えんぼだな」
「だって・・・なんか恐いじゃん。指まで切っちゃいそうで」
たしかに、正守も最初は恐る恐る切ってはいたが、慣れれば大したことはない。自分で切りたいときに切れるし、忙しい父さんの手を煩わせることもない。だが、良守はいつまでも甘ったれなのだ。
「自分でやってみれば?父さんも忙しいし」
「えー、でもさー、なんかねー」
煮え切らないのは、なんとか自分でやらずに済まないか考えているのだろう。
「だったら、俺が一緒に見ててやるからさ!ちょっと待ってろ」
そういうと正守は部屋の中に入って爪切りを手に取ると、急いで良守の元へ戻ってきた。
「ほら」
爪切りを良守に差し出した。
「ん~、でもな~」
自分で切る恐怖心と戦っているのだろうが、自分でできるようにチャンスだ。
「やってみなよ」
正守は、強制的に良守の手に爪切りを握らせた。
「ん~」
まだ心は揺れているようだが、縁台に腰かけて爪切りを開いたので、その横に一緒に腰かけた。
パチン、パチン
見よう見まねで爪を切り始めたが、音だけ聞けばきちんと切れているようだ。
さきほど欠けた左人差し指の爪を切り終えたようで、正守に見せてきた。
「どう?」
「ん~」
今度は正守がうなってしまった。たしかに切れてはいたが、深く切るのが怖いせいか先の部分だけ少し切っただけで形が悪い。
「もうちょっと切ったら?」
「でも、切ったからいいだろ?」
「こんなんじゃまたすぐ伸びちゃうよ」
「もういいよ」
切ったからいいだろと言わんばかりに爪切りを渡してきた。
「仕方ないな。ちょっと手出して」
甘やかしている自覚はある。自分でやれと言えばいいのはわかっているが、やってやりたいという兄の気持ちもある。
差し出された左手をつかむと、爪切りを当てた。
だが、いつもとは違う向きで切りにくい。良守が恐怖を感じていた指の肉まで挟んでしまいそうで、躊躇した。
「正守?」
どうしたものかと考え込んでいたら、良守の左手を持ったまま固まっていたらしく、良守が顔を覗き込んでくる。
「ちょっと場所変えよう。これだとやりにくい」
正守は立ち上がると、良守の手を引いて縁側に向かった。そのまま草履を脱いで這い上がると、良守にも縁側に腰かけるように言う。良守は訳も分からず言われたとおりにした。正守は、縁側に座った良守を少し自分のほうに引き寄せると、背後から手を回し抱きかかえるようにして良守の左手を取った。
「これならいつもと同じ向きだからできる」
そういうと、パチン、パチンと親指から順に小指まできれいに切りそろえていった。
「はい、終わり!」
良守は、左手をかざして爪を見る。
「正守、上手だね。今度から正守に切ってもらおう」
「そうじゃなくて、自分で切れるようになれよ」
「だって、俺、自分でやったって切れないし、正守がやってくれるなら父さんが忙しくても大丈夫じゃん」
「あのなぁ」
正守はあきれてものも言えない。でもそうやって頼ってくれるのが嬉しくもあるのだった。
「ついでに、右手も切っ・・・あ、いいや」
良守は、右手を出そうとしてすっと引っ込めた。二人の間で、良守の右手はいつの間にか禁句のようになっていた。というか、良守はあえて右手を隠そうとしていたので、正守も触れないようにしていた。
「いいよ、貸して」
そのまま立ち上がろうとした良守を引き留めると、さきほどと同じように後ろから右手をつかんで切り始めた。
良守は、黙って爪が切られていく手を見つめていた。
「はい、終わった。もういいよ」
切り終わると、正守は用事を済んだとばかりぶっきらぼうに立ち上がった。その勢いに良守はビクっとした。
別に何かしようというわけではないのだが、右手が関わると変に気をつかうようになる。それが正守のいらつく原因の1つでもあった。
「正守、ごめん・・・」
うつむきながら謝る良守の姿に、正守はそうさせてしまった自分に腹が立った。
「爪くらい自分で切れるようにならないと、強くなれないよ」
それだけ言い残して立ち去ろうとすると、袴の裾をつかまれた。
「自分で爪切れるようにするから、だから・・・」
座ってうつむいたままの良守の表情は見ることはできない。だけど、続く言葉はきっと「嫌いにならないで」
別に良守に対して怒ってるわけでも、嫌いになったわけでもないのに。そうさせてしまう右手の四角が気に入らない。
双子なのに、片方にあって片方にないもの。他にもそんなものはたくさんあるのに、この四角だけはなんでこうなってしまうんだろう。
仕方ないとはわかっていても、良守を苦しめているのは間違いない。
「別に嫌いになるはずなんかないじゃん」
あえて、明るい声で言う。その声に安心したのか正守を見上げた。
正守はもう一度腰をおろすと、良守の両手をつかんだ。そして引き寄せると、おでこをこつんとくっつけた。
「俺は、その右手は気にしない。だからお前も気にするな。そして、俺はいつか良守をそいつから解放してやるために強くなるから。だからずっと一緒にいよう」
間近で目を見つめながら、先ほど決意したことを一気に捲し立てた。
良守の目が見開かれて驚いているのが分かる。今までずっと気にしていたものを気にするなというのは難しいに違いない。それでも、触れてはいけない雰囲気はなくしたかった。
「よしっ」
正守はひとり満足すると、良守の手を引いて立ち上がった。まだ草履を履いたままだった良守は慌てて脱ぎ捨てて縁側に上がる。
「おやつ食べよう。今日は何かな?」
明るく振る舞う正守に、良守もあえて明るく答える。
「俺が先に選ぶ。正守は残り物な!」
「ズルい。先に着いたほうが選べるんだからな」
そういうと、正守は良守を置いて台所まで走り出した。
「正守のほうがズルい!」
良守も慌てて追いかける。
「廊下を走るでない」
遠くから繁守が怒鳴る声が家中に響いた。