雨と夕日 僕とディオンは幼馴染だ。小さい時から家が隣同士だったためよく一緒に遊んだり、通う学校も一緒だった。
だけど、ディオンは時々、小さなときから儚げな表情をすることがたまにあった。小学校時代の時はわからなかったが今ならわかる。ディオンの家庭は崩壊していたのだと。後から気づいた。テランスの家族を見てディオンは「テランスの家族は良い家族だな」としきりに言っていたのを思い出す。それが大学生となった今ではそのことを思い出すたび胸が苦しくなるのを感じた。
ディオンになにか、できないか。救ってやることはできないか。そんなことを思うたびに彼への想いが膨れ上がっていくのを感じていた。
お互いに大学生になっていた。気のおけない友人同士となったが、まだこの『好き』という気持ちをどう処理すればいいのかわからなかった。
「テランス、雨だ」
「え?」
講義が終わり、さあ帰ろうと荷物をまとめていたところ、もう帰る準備を済ませていた彼が窓に手を当て、空を見上げて僕に話しかけてきた。
たしかに空が黒く染まり、ざぁざぁと雨を降らせていた。驚いた。今朝はニュースを見ても晴天だと言っていたのに、どうして雨なんか。
「困ったな……、傘なんて持ってきてないというのに」
「僕、持っているよ。ディオン」
「え?」
僕はいざという時のために折り畳み傘を常に持っている。鞄の中からそれを取り出し、ディオンに見せた。ぽかんとしたディオンが僕と傘を交互に見つめる。そしてふっと微笑んだ。
「テランスらしい。いつも、困ったときは助けてくれる」
その笑顔にドキンとした。昔からの恋情に心臓がバクバクと音を立てる。しかし、この気持ちをディオンに伝える気は無かった。友人として……ただそばにいられればそれでよかった。
「すまないが傘を借りても?」
「もちろんだよディオン。一緒に入ろう」
そう言うとディオンはくすりとほほ笑んだ。僕はまたドキドキと心臓が早く動くのを感じた。
大学から駅までの間を相合傘で歩いていく。傘といっても折り畳み傘だからサイズが小さい。僕はディオンが濡れないようにディオンの方へ傘を向けた。
「テランス、その傘はテランスの物だ。私は濡れてもかまわないから気にするな」
「でも、それじゃディオンが濡れちゃうよ」
「良いと言っている」
「……いやだ」
僕はディオンが風邪でもひいたら大変だと思い、絶対にディオンが雨に濡れないようにお互いの肩と肩をぴったりとくっつけさせた。ディオンがびくり、と身体を揺らした。でも僕は絶対に意志を曲げなかった。
「……」
「……」
……なんだろう。この緊張感は。
雨が降る前、学校の授業や、休み時間、お昼休みのときはこんなに緊張しなかった。ただの友人として楽しく過ごしていた。それなのに、今では身体がぎくしゃくしてしまう程に緊張してしまう。
僕はちら、とディオンを盗み見た。雨のしずくがディオンの頬をゆっくりと滑り、顎へ行きつくとぽとりと落ちた。ディオンの頬は寒さのせいなのかほのかに薄紅色に染まっている。ディオンのかすかな息遣いが耳に届く。その息遣いはただそれがディオンの唇から漏れたということだけで自分の身体に熱が廻るのを感じる。
……ディオンが、好きだ。大好きだ。でもこの気持ちは墓まで持っていく。
「おはようディオン」
「おはようテランス、昨日は傘、すまなかったな」
「ううん……傘くらい……。さ、学校に行こうか、ディオン」
「そうだな」
そう言って二人で駅まで行きホームで電車を待つ。今日もディオンは綺麗だった。
ディオンと傍にいられるだけで、それでいい。想いを伝えたら、ディオンをきっと困らせてしまうだろう。嫌われてしまうかもしれない。小さなころから積み上げてきた友情が崩壊してしまうかもしれない。そうなるのは恐ろしかった。これでいい。ディオンの傍にいられるだけで、幸せだ。
そのときホームにアナウンスが入った。どうやら踏切の安全確認があったため電車が遅れるという。これは満員電車になるな、と僕は思った。
案の定ホームにどんどん人があふれ、たくさん人を乗せた電車がホームにやってきた。僕は思わずディオンの手を掴んだ。はっとディオンが息を飲んだ様な気がしたがわからない。
「ディオン、大丈夫?」
「あ、ああ……。なんとか」
僕たちは電車に乗った。
ぎゅうぎゅうに人を乗せた電車に揺られながら僕らはただじっと耐えた。大学への駅までまだ時間がかかる……。ディオンは大丈夫だろうか。
そう思ったとき、ディオンの様子が変なことに気づいた。
ディオンの顔が蒼白となっている。ぷるぷると僕の手を握りしめてぎゅっと目を閉じていた。
どうしたんだろう。満員電車ならこれまで何度も二人で経験してきた。それなのにこの怯えようはいったい……?
ディオンは顔を僕に向けた。その顔は涙を浮かべていた。僕はビックリした。なぜ? ディオンはなぜ泣いている?
その時ディオンの後ろにいる人影が怪しい事に気づいた。よく見るとその男はディオンの臀部に手を添えている。その動きは満員電車で仕方なくたまたま当たってしまっているというよりは、自分の意志で動いているように見えた。その動きはディオンの臀部の股まで伸び、指で何度もこすりつけるように触り続けていた。
ぞっとした。あまりに衝撃的な出来事に頭が真っ白になってしまう。これは、いわゆる『痴漢』というものではないのか。
ディオンがテランスに顔を向け唇が音もなく囁いた。
た す け て
カッと頭に血がのぼった。僕はディオンに痴漢をしているその男の胸倉を掴んだ。電車内の周りの人たちが何事かと仰天しているが、かまわなかった。
「僕の彼氏に何をするんだ‼」
僕はその男を精一杯の力で殴った。
その後のことはあまり覚えていない。周りの乗客たちも異変に気付き痴漢が駅員に突き出されたこと。大学の一時間目が間に合わないということ。はぁはぁと息遣いが荒くなり怒りで燃える心。そして、ディオンが呆然と僕を見ていたこと……。
大学の帰り道。
昨日の雨の相合傘の時とは違った沈黙が二人の間に流れる。
終わった、と思った。ディオンに嫌われた。彼氏、と言ってしまった。告白すらしていないのに、ディオンを愛する心を気づかれまいと必死に、必死に隠してきたというのに。
「ごめんね、ディオン」
きっともうディオンは僕のもとから離れてしまう。長い間積み重ねてきた友情が壊れてしまった。あんなに言わないようにしたのに頭に血がのぼったとはいえ彼氏と言ってしまった。もうディオンは昔みたいに僕に微笑んでくれたりはもうしないだろう。
「ごめんね……ディオン……ディオン」
僕は泣いた。さめざめと泣いた。あっけなかった。こんな形で終わるなんて。僕はディオンから離れようと歩き出した。
「……っ?」
しかし歩き出せなかった。後ろを振り向くとディオンが僕の服の裾を掴んでいた。
「……ディオン?」
「私の……彼氏というのは本当か?」
えっ?
僕はディオンの顔を見た。ディオンの顔が微かだが赤くなっているような気がするのは気のせいなのだろうか。
「彼氏って……」
「テランスは私の彼氏なのか、と訊いている」
僕はどうすればいいのかわからなかった。このディオンの質問の意味はなんだろう。
「……私も……」
ディオンは僕の服の裾をさらに力を込めて掴んだ。そして僕に目線を合わせつぶやいた。
「私は……テランスの彼氏だぞ」
沈黙。頭が何も考えられなくなる。ディオンはなにを言っている?
君が……、僕の彼氏?
「私は昔から、テランス、お前のことが好きだったぞ」
今度こそ本当に驚いた。身体がぎしりと動かなくなる。汗が噴き出る。今ディオンは何と言った?
好き? 僕のことが、好き? 昔から?
ディオンは僕の服から手を離し、僕に向かって一歩前に進んできた。距離が近くなる。さらに一歩近づいてくる。ディオンの顔が近くなる。そして……。
唇が熱くなった。閉ざしたディオンの瞳が目の前にある。睫毛が長くて綺麗だな、とぼんやり思う。ディオンの吐息がかかる。離れたディオンの唇に自然と目がいってしまう。
……キス、された。
「私も、お前のことが好きだったぞ」
先ほど言ったセリフをもう一度告げられて、今度こそ頭がパニックになった。
「ディっ、ディオン!? どうして!?」
ディオンはくすくすと笑った。その顔が夕日にキラキラと照らされてまぶしい。
その姿は綺麗で、美しかった。