モブ寂(◯拐)男は寂雷から視界を奪ったが身体を拘束したり暴力をふるったり食事を放棄させたり風呂やトイレや衛生面の確保を怠ったりはしなかった。睡眠も存分に与えてくれた。
寂雷はいつもアイマスクの下に敷かれている眼帯のようなものが少し窮屈だったが寂雷の力でも容易く取ってしまえそうなそれを取ることはなかった。
その理由が恐怖からではなかったことはあの夢のような日々の中確かに覚えている。
こうしていてあげていたいのだという気持ちが強かったということも。
この人は、きっとぼくを殺さない。うっかり殺されちゃうかもしれないけど、けどそれは本意じゃないだろう。だったらうっかりをさせてあげたくないな。罪になるもの。
少し寂雷は傲慢な子どもだったのだと思う。
無知で自由で利発な、他の子たちよりも少しだけ神様の特別なキッス痕が多い子ども。
後ほど寂雷は何度も何度もそちらの方が軟禁で拷問だったと思い返すだに苦しくなるほど精神鑑定やあらゆるカウンセリングを受けさせられたのだけど、寂雷は男に口を塞がれ腕を取られ身体を覆われたときからその気持ちだったと一貫して答え続けている。
ストックホルム症候群なんかではけしてなかった。
そのふりをしたほうが早くこの苦痛から解放されるのだろうとわかっていたけど、曲げずに我慢した。
寂雷は草や花や自分の文房具や買ってもらった新しいあたたかい手袋を愛するみたいに、男を愛していた。
そう、あれは、愛だった。
一度だけ、男と一緒にベッドで眠ったことがある。
一人で眠る時は窓のない真っ暗な部屋で目隠しを外して夜を過ごしたけど、その時は昼間のいつものようにかっちり装着されていた。
ちんまりと寂雷がいつものようにベッドで寝ていると男が入ってきて、「ベッドに上がっていいか?」ときいてきた。寂雷は、はい、と答え、真ん中から壁の端の方に寄った。
男はゆっくりベッドに入り、多分寂雷に背を向けた。
寂雷は、もしかしていよいよ服を脱がされたりするのかなと思った。勿論寂雷に性の知識も経験もまだない。赤ちゃんがどうやって生まれるかも知らない。けれど幼稚園や小学校で習う『知らない人にはついていってはいけません』と教師たちが口をすっぱくして言うことはつまり、そういうことなのだ、ということはわかっていた。
性のことはまったくわからないけれど、勝手にあちこち触られたり、叩かれたり、痛いことをされたりすることが起きるのかなと思った。
でも、男は寂雷に背を向けたまま何も動く気配はなかった。寂雷はたっぷりお昼寝もしていたし、まだ眠たくなかった。
「…おにいさん。」
寂雷は口を開いた。
男は喋らないし、年齢も言わない。だけど、園長先生のにおいよりは保育士の若いお兄さん先生のにおいに近かったからそう呼んだ。
「…さわったり、しないのですか?」
男の背が少し揺れた。
寂雷は、抱きしめたくなった。何故だろう。
寂雷はまだ子どもで、こんなに長く親たちから離れたことがない。誰かに触りたくなっても不思議ではない。けれど誰かを抱きしめてあげたい、更にはいいこいいこしてあげたいみたいな気持ちが生まれたことに自分で驚いた。
そして家の近所の大きな秋田犬のタオくんを思い出した。
タオくんは少しお腰の曲がったおばあさんが石垣の立派な大きい家で一人で飼っていて、お散歩は誰か知らない大人の男の人が連れて行く。
散歩の途中に寂雷はたまに触らせてもらったりしたし、散歩をさせている大人の男のお兄さんもとても優しくてタオくんは嬉しそうだけど、やっぱりおばあさんが待つ家に帰りついておばあさんがゆっくり玄関まで歩いて出迎えてくれる時に一番尻尾がちぎれそうに揺れて溶けてバターになるほど嬉しそうで、幸せそうだった。
タオくんは、しばらくしておばあさんが死んじゃったすぐ後にいなくなってしまったけど、元気だろうか。
思い出すと少し胸がきゅうっとくぼんでまだ小さい寂雷は何かにしがみつきたくなったので、男の背中にぴたりと寄った。
息をつめる男の微かな動きが伝わった。
久々のぬくもりだ。
あったかいな、タオくん。いや、違うよ、これはタオくんじゃないよ、まったく、もう。
寂雷はうっかり笑ってしまって、男の身体が強張ったのに気付かなかった。