夢の話睡眠は浅い方ではないと思うがうなされて目が覚めることがよくある。その原因はたぶん今まで自分がしてきたことの責任と結果にあって他の誰のもののせいでもないし、罪ならば軽すぎるし、赦されるにはまったく負荷が足りない。だから、こわい夢を見たということは、誰にも言わずにやってきた。目が覚めたとき隣にいるのが誰であっても、最悪の目覚めだったとしても、夢のことは覚えてないし、見ていないというふりをする。罰にすらならないとしても、溜めておく必要があった。それもまた随分自分勝手な自己庇護なのだけれど、そうすることしか思い浮かばなかった。
神宮寺寂雷は、根本的に実直に愚かだった。すべての人間がそうであるように。
「……、らい、じゃくらい、」
「…ッ、…、は、……、ッ」
「じゃくらい、寂雷!」
「ひ、ぅ、……、あ、あめ、むら、くん、……、」
「らむだ」
「らむだ、くん」
「うん」
ひどい夢を見た。
屠畜場で寂雷は笑っていて、ピンピンの白い手袋をはめて吊るされた食肉になる前の動物たちを眺めている。とても穏やかな気持ちで。その動物たちは身体は牛や馬や豚や犬であったりしたのだけど、顔がどれも人間のそれだった。女も子どもも、若い男性も老人もいて、老人は男も女も区別がつかなくて、寂雷はじ、と寄ってその顔をまじまじと眺めた。皺が深く刻まれていて、その皺に真白い手袋越しに触れるとその動物ーーー人間のようなーーーの、生きてきたであろう記憶が脳のシナプスをすんなり引っかかりなく通り解析が出来た。くだらない記憶、くだらない人生だな、と寂雷は思った。食肉になるのも贅沢なくらいだ、と。寂雷は顔から手をはずし、手袋をずさんに脱ぎ、汚れた床に放った。臭い匂いがする。たまらないな、と眉間に皺を寄せ、鼻に指をあてた。意識すると血と饐えたにおいはより強烈になり、寂雷はぺ、と床に唾を吐いた。すると、どうだろう。辺りは場面が一変し、寂雷は激しい苦しみを覚えた。喉元が引き攣れるように、皮膚が引っ張り破れるように痛い。身体が重力に引きずり下ろされているように、重く、熱い。足が安定しない、そうか、私は今吊るされているのだ、と認識するやいなや、周りがざわめき始めた。視界が開け、何十人もの人の顔をした動物が吊るされた寂雷を取り囲んでいる。引き裂かれた腸をそのままに、何かを訴えたげな目でこちらを一人も残さず見上げている。手には各々のこぎりだとか、斧だとか、金槌だとかを持っていて、寂雷に対する憎しみの方向性が伺える。寂雷は祈るみたいに、胸の前でようよう両手を組んだ。腕が思うように上がらなかったのは首を吊られているからだ。寂雷は泣いていた。こわいからでも痛いからでもなく、やっと終わるのだ、もうじきに終われるのだという安堵に。ただ、ひどく苦しくて身体は勝手にもがいた。助けて、助けないで、助けて、助けて、助けないで、助からないで、私を、誰か、どうか!かみさま。
そこで、急激に意識が浮遊した。目を開けると、視神経から身体に快楽よりも強く光のような希望がなだれ込んできた。大きな美しい可愛らしい目と、実体を持ったあたたかい身体がそこに、そばに、あった。
「寂雷、めちゃくちゃうなされてたよ、大丈夫?気持ち悪い?」
乱数の、飴村乱数の小さなあたたかい指が寂雷の汗でびっしょりの額に触れる。グラスの水滴を払うみたいに、そっと。
そうだ、私は昨日、牡蠣にあたったのだった。寂雷は乱数の人差し指を反射で動く赤子のように握りながら思い出す。
二人とも休日で、昼間からやっているオイスターバーに行った。生姜がこれでもかときいた店主手作りのジンジャエールと新鮮な生牡蠣を食べ、ガーリックオイルにバゲットを浸して食べ、フルーツトマトと生ハムのサラダを食べ、耳の下のリンパが歯痒く痛くなるほどチーズの濃ゆいなんとかというケーキを食べ、乱数が「ねぇ、これさ、今日セックスしたらにおい凄そう、ゲロはいちゃいそう」とか笑って言ったそれに満更でもなく微笑んで「それは貴重な体験かもしれないね」なんて返して、買い物をしたりレイトショーの映画を見たりデートみたいなことをして、日付が変わる頃に何か摘めるものを買ってそして彼の家に帰る為のタクシーの中で冗談みたいに気分がどうにも悪くなって、乱数に告げるより先に寂雷が家までもたないとすぐに判断した乱数がタクシーの運転手に近場のホテルに行き先を変更して伝え、その彼に抱えられるようにして部屋に入るやいなや手洗いにこもることになったのだった。牡蠣を食べたのがちょうどお昼時で日付けを跨ぐ頃に発症。ほぼ間違いなくノロウィルスだろうと寂雷は最悪の体調でそれでも判断した。今まであたったことなんてなかったのに。
「……、ッ、ぅ、」
思い出すとまた胸がムカつき、連動するように腹が痛み、寂雷は慌てて身体を起こし広いベッドから這い出た。
「あっ、吐きそう?急に起きちゃ、悪いよ、洗面器にしちゃいな」
乱数が冷静にベッドの脇に準備していたトイレットペーパーを敷き詰めたプラスチック製の赤い洗面器を掴むのが寂雷の目の端にも映ったがかまわず口もとを抑えトイレに駆け込み鍵をかける。
「じゃくらぁ〜〜〜い」
ドアの向こうでノック音と乱数の声がするが寂雷は膝を床につき上半身をまるめて洋式の便座を掴みゲェゲェと胃の中のものを洗いざらい便器の中にぶちまけた。ぶちまけた、と言っても帰宅してからベッドに入るまでの二時間ほど上からも下からも出し続けていたので寂雷の身体の中にあるものは脱水を免れる為に眠る前に乱数が飲ませてくれたスポーツドリンクと胃液くらい、胃酸に溶かされ酸っぱくなったそれらがただだらだらと溢れては胃がひっくり返し喉を切り裂くみたいに排出されるだけだった。あまりに吐いたので喉が本当に切れたのか吐瀉物には血液も混じっていた。
一通り吐き終わり、腹の痛みはマシになっている、大丈夫だと、寂雷は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を短いつんつるてんの薄っぺらいガウンの袖口で拭う。塩素系の消毒液を床に吹き付けたい、けれどどうしようもない。よろよろと立ち上がり、水を流し、ドアを開けた。
「大丈夫?」
乱数は新しいスポーツドリンクの青いペットボトルを持ってそこに立っていて、心配そうにというよりは冷静に寂雷を見た。
「……だいぶ、大丈夫だよ」
「ほんと?顔色、真っ青だけど」
「……これは。夢見が、悪くて」
「ゆめみ?」
ぽろりと、吐いたついでみたいに今まで口にしてこなかった夢の話のきっかけをこぼしてしまう。
「いや、なんでもないんだ」
「ベッド、もどろ。ソファのが楽?」
「いや、横になりたい」
「うん。」
乱数は口をすすぎ顔を洗った寂雷の腰に手を回し、ゆっくりとベッドまで歩いてくれた。ドナドナみたいだと寂雷は思う。まだ、夢を引き摺っている。
「どんな、夢を見たの?」
「え?」
ベッドに入ってから、乱数が寂雷にチュチュとキスを落としながら尋ねた。寂雷は口をゆすいだとはいえ吐いたばかりだし、なによりノロならば同じ空間、ましてや近くにいて欲しくなかった。けれど乱数は「ぼく、そういうの平気だから」、と、制する寂雷にまるでかまわず、トイレに駆け込んだファーストゲロ時に「頼むから入ってこないでくれ」という必死の懇願を無視して嘔吐し続ける寂雷の横で背中をさすり続けさえしたのだ。なのでもう何を言ったところで今更なので寂雷は好きなようにさせておく。抵抗する気力も今はまるでわかない。
「そんなに嫌な夢だった?ぼく、あんまり夢見ないからわかんないや」
「……そう。乱数くんは夢をみないんだね」
「あんまり、ね。寂雷はよく見るの?言おうかどうか迷ってたけど、お前、よくうなされてるよ。」
ぼくは気にしないけど、と乱数は乱数なりに気遣うみたいな気持ちを見せた。寂雷は泣き出しそうになる。彼の不思議な優しさに似たなにかに触れるとそうなってしまうのだ。恋してるからだろうか、こんな気持ちは初めてだから、比較できなくてわからない。
「……こわいのか、どうか、わからないから、怖いんだ。そういう夢だよ」
そう。怖いのかどうかわからない。安堵も感じている。ただ苦しいだけなのかもしれないし、感情がぐちゃぐちゃになる。思ってもみない自分を見てというより、確かにある自分の醜悪を映像として見るとまるで本物のように感じられるからかもしれない。正義や倫理の床がたやすくたわみ、グニャる。
「そっか。怖いのとか、現実のほうがマシかもね。夢の中は不可抗力だし、無力だもん。気にしないでよ、気にすることじゃないよそんなこと」
チュ、と仕上げみたいにオデコにキスした乱数は気楽に仰向けにベッドに沈んだ。乱数の鎖骨のくぼみに、寂雷は耳を寄せてみる。
「なに、くっつくなってやかましかったくせに」
乱数はけたけた笑って、それでもかけ布団の中に手を潜らせて寂雷の手をぎゅっと握ってくれた。
「寂雷が弱ってると、なんか笑っちゃう。いつも澄まして威張り散らかしてるのに」
「威張り散らかしてなんかいません、失礼な」
「自覚ないの?したほうがいいよ、や、しなくていっか」
「なぜそれをきみが決めるの。威張ってなんかないってば」
「ウソだよ〜わかってるって。調子出てきたじゃん、そうしてなよ」
夢のことなんて忘れてさ。
言って乱数は小さくあくびをこぼした。昨日から今日にかけての一日はすごく歩いたしたくさんのことをしたし、稼働時間が確かに長かったのでさすがの乱数も少しくたびれたのかもしれない。
「疲れたよね、きみ。ごめんね、乱数くん」
「いいよ、べつに。よく寝れそうだけど、寂雷は眠れない?ならまだ起きてるよ」
「……じゃあ、もう少しだけ」
「了解。」
乱数の肩は小さいが、それでもしっかりした男のつくりで寂雷は重いと言われるまで乗っけていようと思った。悪夢は好きな男に引っ付いているとどこかへ行くみたい。馬鹿だなあと寂雷は自虐した。笑ってしまう、本当に馬鹿だ。寂雷は乱数に「わかって」もらえるのが大好きだ。依存に近いと思ってぞっとしないが、本当に大好き。そして罪は、やはり罰をいつか受けるべきだと思った。でも、出来れば今じゃないほうがいい、もっとずっと、この小さな男がいなくなってしまってからがいい。だとしたらそれはもう罪を償うことにはならないのかしら。寂雷はあたたかな肩に鼻をこする。
「どんな夢見たっていーじゃん。夢は夢だよ。現実にはかなわない。」
乱数が天井を見上げながらぽつりとつぶやく。
「……凄く酷いことをする夢を見るとね、惑うよ。自分の中にある残虐な部分と重なるのではないかとね」
「だったらそれがなんだっていうの。夢は夢だよ。現実とは違う。寂雷がどんな酷いことする夢見たってお前の事実の今日は牡蠣にあたって、お腹がいかれて、下痢して吐いて、ぐちゃぐちゃになった。そんだけ。夢にそんなパワーはないでしょ」
「……身もふたもないね」
「だって、そうだもん。ぼく、夢の中のひどい寂雷なんて全然怖くないし。お腹ピーピーになって吐いて泣いちゃって、近付くなって言うくせにぼくに甘えてくる寂雷が本物だって知ってるもん」
「……きみは、私を知らないから」
「え、まだ言うの?めんどくさいなぁ」
やれやれ、と乱数は少し寂雷に背を向けた。鎖骨から頭がはずれる。失った熱を目で追って身体全部が寂しくなる。
「仕方がないことだってあるよ、ぜんぶに責任なんてとれないでしょ。今まで寂雷がなにしてきてたって夢は夢。関係ないよ」
「命に、関わることでも?」
「そんなの寂雷が決めることじゃないよ」
「私がすごい嘘つきでも?」
「神様だって嘘つくって、知らないの?」
無知だね、物知りのくせに。
彼はケラケラ笑って、向き直って寂雷と目を合わせてくれた。
「寂雷は夢の中にしか現れないぼくと、今の僕だったらどっちがいい?」
「今のきみがいい」
「でしょ。即答じゃん。ぼくだって夢の中のお前がどんなにいいやつだったって、今のお前がいいよ。わかるでしょ、そういうこと」
「……うん。うん。」
折れんばかりにかき抱いた。折れればいいとも。どこにもいけないように。彼の自宅のベッドは訪ねる度に違う匂いがして少し複雑な気持ちになるけれど、ここのホテル、ラブホテルのベッドは清潔とは言えなくて少し埃っぽいけれど何の匂いもしなくて、ただ少しの自分の吐瀉物の薄い匂いとホテルに備え付けの柑橘系の嘘っぽいシャンプーの香りと二人の肌の混ざったにおいがして快適とは言えないのにどうしようもなく安心する。今日はこれが本当、こっちが真実。
「罰を受けるなら神さまじゃなく、きみにがいいな。」
「なんて?」
「なんでも。」
もう寝ようよ、手、繋いでてあげるから。
よしよし、と寂雷の薄い皮膚に覆われた額をあやすみたいに撫で、寂雷は素直に、うん、と目を閉じた。体力をだいぶ消耗しているし、眠れそうだった。
「夢を見たら、ぼくに言いなよ。たいしたことないよって言ってあげるから。今のお前がほんとだよって」
歌うみたいに彼が言って、耳が、五感が、心地よい麻酔を打たれたみたいに歓んだ。
「そうする」
「うん。こわいこと、ないよ」
「うん。」
「おやすみ、寂雷」
「おやすみ、乱数くん」
らむだ、と、おまじないみたいにつぶやいて、寂雷は眠りの階段を下りようと思った。寝ようと言ったのに「寂雷さぁ、ここに着いて最初に吐いたとき、噴水みたいだったよねぇ。なんかそういうアトラクションかと思った」とかなんとか近くの遠くでお祭りみたいに不明瞭な楽しい声がして、何か言い返そうと思ったけれどその声自体が魔法みたいに、睡魔の使い手みたいに寂雷をくるんだ。
「おやすみ寂雷、いい夢を」
キスしたいくらい甘い声がした気がしたけれど、もう、寂雷は泉で甘くて冷たい水を飲み始めていたので、返事は出来なかった。泉にうつる自分は、なんの屈託もなく笑って、そよぐみたいに揺れていた。
〈了〉