あ、抱きつきたいなと思った。目の前の男の広い背中を見て、そう思ってしまった。
「千早、今日バッセン行こうぜ」
振り返って声をかけてきた目の前の男、藤堂葵は千早瞬平のやましい思いなど気づきもしない。気づかれたくはないけれど。
「いいですね、藤堂君にパスタ奢らせてあげますよ」
「お前が俺にラーメン奢んだよ」
いつも通りの軽口を叩いて、千早は藤堂の隣に並ぶ。背中を見ないようにすれば、さっきの血迷いごとは忘れられると信じて。
結論から言うと二日経っても忘れられなかった。昨日は学校も部活もない完全なオフだったのに、藤堂に会うこともなければメッセージをやり取りすることもなかったのに、益々想いは募っていった。
どうしたものかと千早は考える。いっそ本当に、一度だけでも抱きしめることができたら満たされるのに。
千早だってずっと藤堂のことを考えている訳ではない。野球をしている時、音楽を聴いている時、勉強をしている時、みんなと他愛のない話をしている時。そういう時は藤堂への想いが脳の端に追いやられている。でも、ふとした拍子に心の中心に藤堂がやってくるのが厄介なところだ。練習でも長打を打つ藤堂や、後輩を叱咤激励する藤堂や、真面目な先輩達への敬意を忘れない藤堂や、授業中居眠りする藤堂や、山田や要や清峰とバカやっている藤堂を見たり聞いたりするとダメになる。隣に行ってくっつきたくなったり、髪に触れたくなったりする。練習後の野球部員なんて汚物でしかないのに、自分でも意味がわからない。
なんとか自然にハグできないものか。例えば階段から落ちかけた藤堂を後ろから抱き止めるとか……無理だ。千早に落ちていく藤堂は止められない。藤堂が前を歩いている時に後ろで蹴つまずいたふりをして背中に倒れこむとか……ごめんなさい、怪我してません? ってさりげない演技ができる気がしない。というか接触チャンスを狙って行動するの、もはや痴漢じゃないか? 自分で自分にドン引きする……
「おい、聞いてんのか!」
「えっ、聞いてないです」
ぐるぐると頭を悩ませていた千早はうっかりしていたが、部活の後いつものように五人で校門を出て、ものの五分で要と清峰と別れ、それから山田ともさよならし、藤堂と二人になっていたのだ。
「聞けよ! ……つーか何? 体調悪ぃの? 今日はなんか上の空こと多くね?」
「そんなことないですよ」
しれっと嘘を吐くのも慣れた。他の人がいる時はいいのだが、二人きりになると心が藤堂の方へ行きたがってしまうので、千早は理性を働かせて藤堂から心を引き剥がさないといけないのだ。つまり脳内自分との会話が増える。だから現実の藤堂への対応が雑になる。
ハグしたい相手を雑に扱うなんてもってのほかだ。しかし千早は想いが成就するなんて微塵も思っていない。できれば葬り去りたい。なので、まあ、藤堂からの好感度がある程度下がってもいいか、とすら思っている。部活があるので険悪になってはいけないが。邪険にして嫌われるのとハグを強請って引かれるのなら前者を千早は選ぶ。
「なあ、また話聞いてねえだろ」
「あー……すいません。考え事してました」
「せめてちゃんと前は見ろよな……なあ、なんか悩みがあんなら聞くけど」
「結構です」
君に抱きつきたいんです、なんて言える訳ないだろ。はあと溜息を吐く。それから隣の藤堂より一歩前へ出るよう少し大股で歩く。見えなくなればマシになるのは分かっているから。
「千早!」
え。
慌てた声で藤堂が千早を呼んだと同時に、後ろから強い力で抱き寄せられた。
「だから言っただろうが! ちゃんと前見ろ!」
目の前には左右を行き交う自動車。どうやら千早は藤堂に気を取られるあまり、赤信号に気づかず横断歩道を渡ろうとしていたらしい。
「すみません、ぼうっとしてました……」
「こっちの心臓が止まるかと思ったっつの……気ぃつけろや」
「はい……あの、もう大丈夫なんで、その、離してくれません?」
これバックハグだ、バックハグされてる今。バックハグってこんなんだっけ? 待て待てちょっと待って。千早の心臓がもたない。うっかり交通事故を起こしかけた衝撃が去った今、背中に感じる藤堂の体の熱、千早の体に回された藤堂の太い腕、こっちの方が大問題だった。おお、と藤堂はあっさりと千早から離れたが、千早の心臓はまるで全力疾走した後のような速さで鐘を打ったままだった。赤面しているに違いないので千早は顔が上げられない。いやでもこれ怪我の功名ってやつだ。一生味わうことのないはずの藤堂の腕の中にいられたのだから。ただの人命救助だとしても。うん。良かった。抱きつくのは無理だったけど、もういい。
「おい、千早!」
「わっ!」
藤堂が千早の顔を覗き込んでいた。千早は飛び上がって離れた。上半身をわざわざ傾けるんじゃない、顔を近づけるな、至近距離でこっちを見るな、馬鹿。
「……いい加減人の話聞けや」
飛び退った千早を追うように、藤堂は距離を詰める。端から見るとヤンキーに絡まれている図だ。渡るべき横断歩道から何故か離れていく。ぐだぐだ物思いに耽っていた千早なんか置いてとっとと帰ればいいのに。藤堂は面倒見がよく、様子のおかしい千早を捨て置けないのだろう。人がいいのも大概にしてくれ。
千早だって分かっている。人のせいにするのは良くない。どう考えても心配させるだけさせておいて、藤堂のことを蔑ろにしている千早が悪い。でも今日はキャパオーバーだ。藤堂の横をすり抜けて走り出す。
「今日はもう無理です! 帰ります!」
さっきはありがとうございました、話は明日聞きますね、千早が言い捨てた言葉はどこまで藤堂の耳に届いただろうか。客観的に見ても千早の態度は小学生以下だ。こんなことを続けていれば本当に藤堂に嫌われるだろう。しかし今の千早には逃げることしかできなかった。
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藤堂は信号に引っかかってしまい、ものすごい速さで逃げる千早を追うことができなかった。藤堂は部室での出来事を回想する。
「イベントの日、偶然千早君にあって、その時選んでもらったんだよ」
休日に何をしていたかと要が土屋に聞いたら、ゲーム制作者トークイベントがあり友人と出かけていたのだ土屋が言い、その時の写真をその場にいた藤堂にも見せてくれた。服装が土屋らしからぬ洒落っ気があったので要が聞くと、千早のセンスなのだという。友人にも褒めてもらったらしい。楽しみ過ぎて早めに行って良かったと土屋が笑っていた。それを聞いた要が後から部室に来た千早に「瞬ピー俺にも選んで〜みんなでお買い物いこう!」と絡みに行った。めんどいので嫌でーすと断られていた。以上。
土屋さんには優しいよな……いや羨ましいとかねぇけど!? オフに二人ってのも偶然らしいし……や、それはどうでもよくて! でも俺も新しい服ほしい気がすんな、いつもと違う感じの。男五人でウロウロ服見んのはだりぃし……だから、
「次の休み暇か?」
心の中の言い訳は秘めたまま、次のオフに千早を”二人きり”の買い物に誘いたかった藤堂だった。が、千早のあまりの乗り気のなさに心が折れそうになっていた。今日は無理、なら明日はどうだ。明日の千早が話を聞いてくれることに賭けるしかない。交渉材料としてツナマヨのおにぎりは持っていくことにした藤堂だった。