今年も初詣には行っていない。実家に顔を出すのが精一杯で、一足伸ばして神社あるいは寺に行こうと思えない。別に神様に願掛けするようなこともないし、お守りを買おうとも思わないし、おみくじを引こうとも思わない。学生の間はちゃんと初詣に行っていた。しかしそれは普段一緒に過ごせない両親の誘いであったり、友人の誘いであったり、千早瞬平主体での行動ではなかった。大学で野球を辞めて、野球とは関係ない会社に就職して、両親のような激務に追われて数年、友人とは緩やかに疎遠になって、恋人もいない。そんな千早は初詣よりも、趣味の音楽を聴いていたり、家を掃除したり、寝たり、そういうことに貴重な休暇を使いたかった。ちなみに実家で初詣に行っていないというと両親が一緒に行こうかと誘ってきたが、家でゆっくりしたいですというと無理に連れ出そうとはしなかった。
ここ数年の千早は大晦日に帰省し、元日は夕食を食べると帰宅するというスケジュールだった。千早の休暇は12月30日から1月3日まで、まだ現役の両親の休暇も似たようなものである。これでも両親のために時間を割いた方だった。
千早が一人で暮らす都内のアパートへ両親はあまり来ないし、仕送りも送ってはこない。息子の性分をよく分かっているのだ。だから千早が帰省すると、ここぞとばかりに土産を持たせようとする。いつまで経っても息子が心配なのだろう、
親が持たせた紙袋を片手に、千早は家路を急ぐ。昨晩夢に見た、小手指高校野球部同期で初詣に行った日のことを思い出しながら。まだ野球少年だったあの日、すでに家族や誰かと初詣に行ったメンバーばかりだったので厳密には集まった誰もが初詣ではなかった。冬休みにみんなと遊ぶ口実でしかなかった。屋台が多く出ている神社を選んで五人でお参りをした。要と清峰は普段露店のない神社で初詣を済ませていたらしく、物珍しげに辺りを見回していて、山田がそれに付き添っている。藤堂は何かを探すように屋台を見ていたので、千早が質問すると、いちご飴を妹に買って帰りたい、とのことだった。どうやらりんご飴のいちご版があり、それを藤堂の妹が食べたがっているらしい。しばらくすると藤堂は該当の商品を見つけた。いちごが3つ串に刺さっており、ミルク飴がコーティングされている。可愛いと言えなくもない。要も可愛いと言って買っていた。屋台の食べ物の衛生状態を千早は信頼していないから食べることはなかったが、きっと藤堂の妹は喜んだのだろう。そう、あの日も千早は断ってばかりだった。屋台の焼き鳥を買った藤堂が、千早も食うか? と声を掛けてくれたけど、とてもじゃないが食べられなかった。唐揚げもベビーカステラも焼そばも千早は食べられなくて、藤堂とも他の誰とも味の思い出の共有はできなかった。
ところが昨晩の夢の中では、千早は藤堂の勧められるがままに焼き鳥をシェアし、いちご飴を食べ、神社で配られていた甘酒を飲んでいた。しかも藤堂と二人きりである。要と清峰と山田の存在を消していた。目が覚めた時、新年早々千早は己の欲深さに絶望した。高校を出てから何年も経っているのに、最近では良くて年に3、4回しか会えていない相手への恋心など早くどこかへ捨て去りたいのに。食べられもしない屋台の焼き鳥をあーんしてもらって、かけがえのない友人をいないものにして、いちご飴は互いに舐め合って……これが一番気持ち悪いな。とにかく千早は己の恥と欲を直視できなかった。そこで、今回は初詣に行こうと心に決めた。神様に新たな恋の訪れを願おう。大体、プロ野球選手になって活躍しまくっている藤堂が悪いのだ、オフシーズンすら野球の話題をするテレビニュースのスポーツコーナーも、SNSが勝手に千早に興味がある話題として垂れ流す野球のネットニュースも、千早の心をかき乱す。なんで人柄でも人気になってるんだよ。先輩に可愛がられている、ちょっとあほで豪快なホームランを打つ藤堂選手。もう知らない。今年こそは綺麗さっぱり忘れて次に行こう。千早は以前要に聞いた、人の来ない神社へ行くことにした。
「ほんとうに誰もいない……」
元日の夜に誰もいない神社。露店どころか社務所もない。賽銭箱に小銭を投入。よし、心置きなく頭を冷やせ……
「千早!?」
「!?」
急に名前を呼ばれて振り向くと、驚いた顔をして千早を指差す大男がいた。ちはやくん? と男の隣で少女が問いかけている。千早には見間違いようもなかった。
「……人を指差すのは失礼じゃないですか? 藤堂君」
にーに駄目だよと隣の少女にも言われた藤堂はわりいと素直に指を下げた。妹さん随分大きくなったなあと千早は思う。そして新たな恋を願う前に藤堂を遣わしたようにしか思えないこの神社の神様を恨んだ。もうここには来ない。
実は藤堂とはそこまで久しぶりでもない。年末の小手指野球部OBの忘年会で会っている。なんなら二人並んでお酒を呑んで馬鹿話をして笑っていた。それでも不意の再会はときめき不可避である。千早はこの場に藤堂の妹がいることに感謝していた。妙なテンションになって二人で呑みに行きません? とか誘わずに済ませられる。
藤堂は年末から実家に帰省していて、今日は妹が一緒に初詣に行きたいって言うから人気のないとこに来たという話をしていた。藤堂自身は地方の球団の寮で暮らしているが、実家は以前暮らしていた集合住宅から小手指校区の別のマンションに引越しをしたと以前に聞いていた。藤堂は家族のために戸建ての家を買うつもりだったが、姉も妹も家を出る日が来るだろうからと父に言われたそうだ。最初、藤堂の家族はみな藤堂自身にお金を使うよう説得していたが、野球を続けるための金銭的負担や、一時期荒れて心配と迷惑をかけたから、何としても家族に恩返しがしたかった藤堂が強行してマンションを購入したらしい。藤堂だって家事をしていたのだから一方的に負担をかけていた訳ではないだろうに、と千早は思うが、藤堂の家族のことに口を出すのは良くないとわかっていた。今その話は関係がないけど。とにかく、藤堂は地元のスター選手で、初詣に行くのも気を遣うような立場の人間なのだ。藤堂一人のプライベートの盗撮写真ならともかく、同行していた妹の写真も流出しかねない。要の教え通りに誰もいない神社はうってつけだったのだろう。
「……お前、話聞いてねーだろ」
「聞いてますけど」
つらつらと考え事をしていたけれど、藤堂の話を聞いていないはずがない。千早はなんでここに? えっと……それ何持ってんだ? あー……なあ、明日って空いてる?
「俺は実家の帰りです。これは母が作った筑前煮で、今から家に帰るところです」
明日は家でゆっくり過ごすつもりだった。外せない予定があるって言えばいい、そうすれば無理強いするような人ではない。しかし。
「……明日は特に何も。初詣も今済ませたので」
「! じゃあどっか行こうぜ!」
「どこも混んでるんじゃないですかね。それにお正月くらいご家族でゆっくり過ごした方がいいですよ」
ねえ、と藤堂の妹に顔を向けると、少女は兄の顔を見て、それから千早に言った。
「……あの、良かったら明日、うちにどうぞ」
「!?」
「お、そりゃいいな。何なら今日うち泊まるか?」
「いや何言ってんですか、馬鹿ですか。妹さんは俺に気を遣って言ってくれただけですよ。久々の家族団欒のお正月に赤の他人俺がどんな顔して遊びに行くって言うんですか」
あの人見知りをしていた妹とは思えない発言に動揺し、妹の前で藤堂のことを馬鹿と言ってしまった。しかし今は反省している場合ではない。家はおかしいだろ家は。どこぞの幼馴染か。
「や、実は明日誰もいねーんだよ」
聞けば、父親は年始早々トラブルがあり出勤、姉はパートナーの実家へ、妹は友人達と初詣とカラオケとのことだった。長男は放ったらかしにされてしまったらしい。藤堂の妹がいなければ、せっかく帰省したっていうのに可哀想にと笑ってやるところだった。
家族大好きな藤堂が正月早々一人ぼっちなのは、まあ哀れだ。一応片思いの相手でもあるので、できれば寂しい思いしてほしくない。とはいえ吹っ切りたい相手と二人きり、しかも相手の実家は嫌すぎる。お正月なのにとてもじゃないが寛げない。……そう、妥協、けして下心はない。
「仕方ないですねー。藤堂君、うちに来てもいいですよ」
「いいのか!?」
「ええ、まあ食べるものあんまりないので、自分の分は買ってきてくださいね。お酒とかも」
「なんか食いたいモンあんなら作るけど」
「そこまではいいです」
久しぶりに藤堂の作る料理を食べてみたい気はするが、食べたらまた胃袋を掴まれてしまう。そもそも正月休みなんだし働かせるのは悪い気がする。
やたら嬉しそうな藤堂の顔を直視するのが嫌になり、視線を逸らすと藤堂の妹が寒そうに手を擦り合わせていた。しまった、長話をし過ぎた。とりあえず、後で住所を連絡すると告げて二人と別れることにした。
「また明日な!」
「ええ、また明日」
高校生以来の挨拶に、感傷的になった千早は涙目を見られないように振り返らずに進む。背後からは神社の鈴の音がする。藤堂兄妹はどんな願いをするのだろう。そういえば新年の挨拶をしそびれた。まあいいや、明日会ったら言おう。そういえばお賽銭だけ入れて願掛けできなかった。もういいや。どうせ明日二人きりでなんて過ごしたら、またしばらくは恋を諦められないし。今年一年間だけ延長戦ってことにしよう。とりあえず家にある藤堂葵グッズは隠さないといけないな。