「お邪魔しま〜す」
そう言う要の声に千早は待ったをかけた。四人のチームメイトを玄関に置き去りにしたまま千早は自室へ急ぐ。机の上に置いていたモノを押し入れに隠して代わりにスリッパを取り出す。それを抱えて玄関に戻り、チームメイトにスリッパに履き替えるよう指示をした。自室に先に行った理由を「スリッパを持ってくること」にしてしまえば、「何を隠した?」と問われるリスクを回避できる。もっとも汚物がそのままの靴下で家に上がり込むことも嫌だったが。
小手指の一番打者として成果を出せていない千早に対して、チームメイトはあまりにもお人好しで、かつてチームメイトに壁をつくっていた千早から言えないような、真っ直ぐな言葉と信頼を浴びせかけたのだった。
チームメイト達が帰り、千早は一人。両親はまだ帰らない。部屋の掃除機掛けも終わったので収納に隠したモノを取り出す。南京錠のある空っぽの箱。かつて千早が死にたくなるような嫉妬を、それと向き合うことを逃げて、でも捨てきれなくて、見ない振りをして閉じ込めた、あの箱。千早がその蓋を開けると、まだグラブの匂いが染み付いているような気がした。
千早は空っぽの箱を眺めて昨夜の思考を辿る。バッティングフォームを変えているけれど、碌に長打が打てないまま公式戦が始まってしまった。勝ち進んではいるけど、一番打者としての責務は果たせていない。このままでいいのだろうか。そんな悩みを抱えているからか、初心に戻りたくなってしまい、グラブを隠していた箱を千早は取り出した。この箱にグラブを入れて鍵をかけた時、もう二度と野球を楽しめないのだと思った。思っていた。
それが今、何の因果か野球を辞めるきっかけとなったバッテリーの背中を守っている。しかも、それがかなり楽しい。
チームメイトの藤堂も同じようにグラブに封をした仲間である。ちゃんと確かめたことはないが、千早はそう確信している。同じようにバッテリーに心を折られた山田は封印まではしていないはずだ。藤堂の場合イップスだったことが大きい。
千早は箱を撫でた。藤堂がイップスを克服したのは、要のアドバイス、清峰のプレッシャー、そして山田への信頼が大きい。光のような彼らがいてこそ藤堂は完全に復活した。強打者で、背が高くて、力も肩も強い。守備のセンスは自分だって負けていないが、藤堂は「いいなぁ」の塊だった。野球とも自分とも向き合えなかったままの千早なら、イップスで苦しんでいたことを知らないまま「いいなぁ」で藤堂の努力も苦しみも消費してしまうところだった。だからチームメイトになれて良かったと思う。
問題はその感情を何故かうっかり恋に結び付けてしまった千早にある。たまたま隣の席で、たまたま同じような感じで野球を辞めて、復帰して、苦しみも報われるところも近くで見すぎてしまっただけで。妹思いで面倒見が良くて、意外とデリカシーがあって……とか良いところをたくさん目にする機会が多かっただけで。隣の席だから気になる! 好き! とか小学生かよと千早も思うが、好きになってしまったからにはどうしようもない。ただ、千早はそれを認められなかった。千早自身の感情と向き合えず、逃げて、藤堂を揶揄って茶化してばかりだった。つまり、「こんな態度をとる奴が君を好きなわけないでしょ」というアピールをし続けたのだ。結果、悪友みたいなポジションは手に入れた。それでいい。山田みたいな好かれ方も、要みたいな構われ方も、「いいなぁ」と思わないように、彼らはイップス克服の立役者なんだから当然なのだからと言い聞かせて。
それからスマホに残してある、イップス対策ワンバン練習の時の藤堂の動画を見ていた。フォームの崩れっぷりがおかしくて、でも動画を見せながら指摘するとどんどん調子が良くなって、あっという間にワンバン送球を習得した藤堂には舌を巻いた。藤堂が真剣に練習する様子がいくつもスマホに残されている。少しずつ改善していくその様を、まだ消せずにいるなんて、藤堂には言えない。
それで藤堂の送球練習から鳥が肩に止まってる様子などあらゆる藤堂動画を見直していたら、すっかり夜遅くなってしまい、慌てて眠ったので箱をしまいそびれたのだ。翌日友人達が遊びにくると分かっていたなら押し入れに片付けておいたのに。それにしても、野球を辞めすぐの頃は、勉強していても音楽を聞いていても、時計が全然進まなくて辛かったのに、藤堂の動画だけで時間が溶けるなんて、全く信じられない。恋とは不思議なものである。
とにかく、この箱を誰にも見られることがなくて良かったと千早は思う。過去の象徴であり、千早だけの苦しみの記憶なのだ。仮に藤堂だけであっても共有したい訳ではない。それに、今日のチームメイトからの言葉で今の千早で頑張ろうと腹を括った。もう大丈夫。千早は箱を再び押し入れへしまい込んだ。
夜、千早が風呂から上がると藤堂からメッセージが届いていた。明日の試合に関することかと思ったが、違った。 『一年の時の俺のワンバン練習動画ってまだ持ってるか?』 ひっ、冗談ではなく千早はそう言った。目の前に藤堂がいなくて良かった。わざわざバックアップもとっています、なんて言えるわけがない。 『間違えて消しちまって』『もういらなくないですか?』 既読がついた途端、藤堂から電話がかかってきた。
「笑うんじゃねえぞ。その、あれお守りにしてたんだよ」
「お守りって?」
「だからよー。俺こんな状態から今ちゃんとやってるぜっていう……明日大事な試合だし……お前がゲラゲラ笑いながらアドバイスしてるの、あれ、あれがいいんだよ」
イップス克服に千早も少しは力になれていたのだと思えて、千早は嬉しかった。でも、お前がいいみたいな思わせぶりな言い方をする藤堂は腹立つなと千早は思い、特にボロカスに言った動画を送りつけてやった。