私と千早瞬平の出会いは小学一年生に遡る。と言ってもその頃の思い出はあまりない。席も近くなったことはないし、特に話すこともなかった。兄と同じリトルリーグのチームに入ったと聞いた時も、そのことで特に学校で話しかけることはなかった。兄の応援に行った日、兄のチームメイトが悉く凡退する中で一人、出塁し盗塁し還ってきた千早のことを、本人にかっこよかったなんて言うこともなければ、学校の友人達に知らせることもなかった。
小学五年生の頃、友人の一人が千早を好きだと言った。どうしてと聞くと足が速いからだと言う。すると別の友人も好きだと言い出した。頭がいいから好きだと。私はそうなんだとだけ答えた。私だって好きだよと言えなかった。あなた達は野球を観に行ったことないくせに、なんて意地悪も言わなかった。
ある日、体育の授業の二人組を私と千早で組むことになった。私を余りモノにした友人達は後で私にずるいと言った。ずるいってなんだろう。千早が取りやすいように胸元に投げてくれるボールは取れず、千早まで届くボールを投げることすらできない私。キャッチボールの時間を殆ど私のボール拾いに使わせてしまったのに、文句一つ言わない千早。ある意味千早の関心を独り占めしていたけれど、居た堪れない時間でしかなかった。
二人はバレンタインにチョコを渡そうとした。私はがんばれと心にもないことを言うだけだった。でも千早は二人のチョコを手作りはいらないと断った。そういうの無理って。ひどい。大嫌い。二人から罵声を浴びせられても泣かれても千早は受け取ろうとしなかった。学級会で千早を訴えようと二人は憤慨していたけど、みんなの前で千早にフラれたことを話さなければならなくなると気づいて取りやめになった。千早は嫌な奴という噂だけは広まった。その後二人とも他の男子を好きになった。
でも私は千早を好きなままだった。足が速いところも頭がいいところも野球が上手なところも、もちろん好きだった。それともう一つ、他人の作ったものを食べたくないと言える、私にはない勇気も好きになった。
同じ中学に進んだけれど、千早とは三年間クラスが離れてしまった。たまに廊下ですれ違うとき、一年の頃は会釈していたけど、そのうちしなくなった。知人以下の関係だった。千早は学校の部活には入らずにシニアで野球を続けていると噂で聞いていた。応援に行ってみようかと思ったことは何度もある。でも怖くて行けなかった。兄はリトルで野球を辞めて今はサッカー部だし、応援の目当てが千早だと気づかれるのが怖かった。相変わらず千早は女子の間で鼻につくと噂が流れてて、すごく親しい女子という存在がいないことが救いだった。やや疎遠になりつつある小学校時代の友人達に感謝しないといけない。バレンタインの度に千早の仕打ちを他の子に話していたから。
千早が野球を辞めたらしい。は?
野球を嫌いになったらしい。は?
いくら千早と直接話したことは少なくても、千早が野球を好きなことくらいは知っている。その噂を聞いた私は居ても立っても居られず千早の教室まで行った。廊下の窓からそっと中を覗く。眼鏡をかけた千早は知らない誰かのように見えた。
千早は都立に行くらしい。私は少し離れた私学へ。中学を卒業すると、千早との縁は途絶えることになる。中学三年のバレンタイン。結局私は千早には渡せなかった。千早宛に買おうと思っても好みすら知らなかった。私は何も知らない。受験があるから友人達の手作り友チョコがなかったことだけがありがたかった。
高校でできた友人には他人の手作りは食べたくないことを伝えられた。私の彼氏もそうなんだよねとあっさり受け入れてもらえた。中学三年のバレンタイン、そうとは知らなかった友人が手作りブラウニーを手渡そうとしら、家族と自分と飲食店以外は無理だと潔癖症を告白されたのだと。でも君は特別だって、ブラウニーを受け取ってその場で食べたんだって。むちゃくちゃ嬉しかったと笑う友人の顔は可愛くて美しくて、私の潔癖をネタに惚気られたのを許すしかなかった。
千早が小手指高校で野球部に入り、夏の公式戦に出場していたと、彼が負けてから知った。彼の現在を知りたくて、秋の大会を観に行こうと思ったけど、小手指高校は出なかった。
高校一年のバレンタインは私と友人間は既製品のチョコ、友人は彼氏に思い出の手作りブラウニー、私と千早には当然何もない。千早は今も手作りチョコを断っているだろうか。
高校二年の春、友人の彼氏が初めてスタメンに選ばれたらしい。土曜の練習試合なんだけどさ、うちの学校でやるから一緒に観に来てくれない? 友人の誘いに乗った私は、相手高校を聞いて本当に心臓が飛び出すかと思った。
土曜日。いつもより丁寧に髪を梳かして学校まで行く。友人は彼氏のためにおにぎりを作って来ていて、彼氏に渡していた。羨ましいなと思う。千早は絶対受け取ってくれない。友人が、彼氏が言うには相手の投手も捕手も二遊間もシニア時代から有名な選手で強いんだって。勝てるかなあ。心配そうに嘆く友人には申し訳ないけど、千早がシニア時代から有名という話が嬉しくて、どうかなあと言ってしまった。慌てて勝ってほしいね! と付け加えた。昔野球部が強かった名残でちゃんとしたベンチが我が校にはある。壁も屋根もあるせいで千早がベンチに引っ込むと見えなくなるのは残念だった。
試合は負けた。友人の彼氏が言うように、小手指の内野が手強かった。投手や外野は途中で交代したけど千早は下げられることはなかった。野球をしている千早を見るのは、兄の応援として行っていた小学四年の頃以来だった。その頃よりも、小学校でクラスの誰も解けなかった問題を解いた時よりも、中学校でクラスの子と話しているのを見かけた時よりも、今日の方がずっと楽しそうだった。
私には今更何も話すことはないし、千早だって私のことを覚えていないと思うけど、このまま小手指を見送って終わることが耐えられなくなって、せめて一言千早に挨拶したくなった。トンボ掛けをする両校を眺めながら、友人とグラウンドへ行く。耳を澄ませていると、午後も小手指はどこかで試合をするらしいと聞こえた。ダブルヘッダーか、頑張ってるんだ。千早は午後も出るだろうか。ご飯はどこで食べるんだろうか。友人は彼氏を労いに行ったので、私は小手指側のベンチ側へ忍び寄った。頭の中で会話を組み立てる。久しぶりだね、千早君。覚えてるかな、小学校で同じクラスで……
「藤堂君、今日のおにぎりはなんですか?」
急に千早の声が聞こえたので、慌てて物陰に隠れた。さっき恨んだ壁に感謝する。そっと覗くと話してる相手と千早の横顔が見える。
「ツナマヨと鮭と梅」
「俺ツナマヨがいいです」
「お前ほんと遠慮なくなったな……他人の作ったおにぎりなんか食えねえって言ってたくせに」
「藤堂君は他人じゃないですから。同じ野球部のよしみで貰ってあげるって言ってるんです」
「よく言うぜ。つーかなんだ貰ってやるって、藤堂葵様のおにぎりが気に入ったんだろうが。素直にそう言えや」
は?
他人の作ったおにぎり食べるの? いや他人じゃない、のか?
調理実習や飯盒炊爨ですら、他人が調理した料理は無の表情でいやいや食べてたあの千早が? 同じ部員のおにぎりは食べるって?
チカチカする脳内でフラッシュバックする友人と彼氏のエピソード。君は特別。ああ!
何も言えなくなって、踵を返して友人の元へ走る。そんな千早知らない。そんな風に笑うところ見たことない!
友人は観戦に付き合ったお礼にお昼ご飯を奢ると約束してくれていたが、私はとてもそんな気分になれなかったので、帰ることにした。ごめんね、ちょっと気分が悪くて、と友人に宛てたメッセージを送ってから、ふらふらと校門を出る。いつもならこんなことはしない。特に理由もなく約束を反故にするなんて。でも今日は、今日だけは。私の誰にも言えなかった千早瞬平への想いを友人にぶちまけてしまいそうだから、一人になるしかなかった。諦めどきを見失った、風化させられなかった、じくじくとした恋心を今更誰にも、千早本人すら晒すことはできない。千早が幸せならそれでいいなんて、まだ言えない。