はじまりの庭 日常なんてものは、偶然の寄せ集めで成り立っている。
例えば今日。気象予報士が「一日中雨でしょう」と言ったこの日、たまたま二時間だけ雲が途切れた。ちょうどその時、なぜかキバナは無性にクリームパンが食べたくなった。けれど贔屓のパン屋が臨時休業だったので、ふと目にした新しい看板のお店に向かって歩いていた。ほら、もう三つも偶然が重なっている。
もっと言えば、こういう時いつもおつかいに行ってくれるレナが出張していたことも偶然だし、そもそもキバナがこの街のジムリーダーを務めていること自体、無数の奇跡によって導かれた結果なのだ。遠い昔のあの日、偶然テレビでポケモンリーグ戦を見ていなければ、きっとここには立っていない。
日々の暮らしというものは、そういうふうにできている。けれどそれが、ひょんなことから「運命」と名付けられることもあった。つまるところ、今日という日がそういう特別なものだったと思うかどうかは、当の本人次第なのだ。
そう、キバナはのちに、外れた天気予報やクリームパンのことはすっかり忘れてしまっても、これから起こるたった数時間だけは何度も思い出すことになる。
あれがまさしく運命だったのだと、軽やかに口ずさみながら。
「ハイ、そこのお嬢さん。何かお困りごとでも?」
声をかけると、その子はきょろきょろとあたりを見回した。まさか自分のことだとは思っていないような仕草に、キバナはフッと口元を緩める。そしてもう一度「そこの迷子のあんただよ、お嬢さん」と呼びかけた。
くるり、その子は軽やかなターンで振り返る。肩にかかるくらいの髪が、風をはらんでふくらんだ。ぱっちりとした金色の瞳は、髪と同じりんどう色の豊かなまつげに縁取られている。
わお、と口笛を吹きかけた口元を手で抑えた。まるで、豪奢な額装を施された油絵を彩る天使のごとき姿をしていたのだ。そう、俗っぽく言えば、とてもかわいい。ただ一つ欠点があるとすれば、その子はどう見ても十歳そこらで、キバナがちょっかいを出せば両手が後ろに回るだろう、ということだった。まあ、幸運なことに、彼にとって子どもは対象外なのだけれど。
なのでキバナは、「道案内してあげる」と申し出るだけで留めておくことにした。放っておいてもよかったが、別の部分でも少し興味をひかれたのだ。
その子が着ているのは、ジムチャレンジャー用の白いユニフォームだった。ナックルシティで見るのは、この子が初めてではないだろうか。
さて何をおしゃべりしようかな、と考え始めたキバナだったが、その思考は突如として断ち切られる。
「う゛……ッ!?」
腹のど真ん中へ、小さな拳が思いっきり打ち込まれのだ。
「おれはおじょうさんなんかじゃないっ」
鈴の転がるようなソプラノが、昨日と同じになるはずだった今日を変えてしまう。紡ぎ合わせた糸のように、幾重にも重なった偶然が形を成して現れる。
「おれはおとこだ。ハロンタウンのダンデだぜ!」
キバナはこの時のことを、「おれさまにとっての運命とは、みぞおちに衝突した隕石みたいなもんです」と語ることになるのだが、そんなこととはつゆ知らず。突然の鈍痛に呼吸をおかしくしながら、「そ、ですか……」と返事をするので精一杯だった。
息も絶え絶えに体を折り曲げていると、ダンデと名乗った子どもにじっと見つめられているのに気がついた。かわいい顔して手が先に出るタイプだし、大人に対して敬意はないし、そもそも自分と同じモノを持ってるということで、キバナは随分とぶっきらぼうに「なに」と言った。けれどその子は加えて鈍感だったのか、そんな素っ気ない態度をものともせずに「もしかして、ナックルシティジムのキバナ?」と小さく尋ねた。
「そうだけど」と答えると、とたんに瞳が輝き始める。空の雲間から差し込むわずかな日光が、甘い金色の中できらきら弾けた。
それはさっきまでの粗野な態度からは信じられないほど、無垢でかわいらしい表情だった。ことん、と首を傾げられれば、否応なしにこの子の第一印象を思い出す。そういえば顔はかわいいんだよなーこいつ。なのでキバナはついつい機嫌を直して「なんだよ、本物が思ったよりかっこいいんでびっくりした?」と腹を押さえつつも片目を瞑った。
「かっこいいかは分かんないけど」
「分かんないのかよっ」
「でも、目が青空みたいできれいだなって思った」
「……あ、そォ」
それはあまりにも粗く、拙い言葉だった。けれど、どんなに豪華な贈り物より、きらびやかな賛辞よりも、キバナの心の真ん中を貫いた。
これまで磨いてきた流暢なレスポンスはどこへやら、キバナはうぶなティーンよりもひどい返事をしてしまう。そのことに気がついて、カッと頬を赤くしたキバナのことなんか気にもせず、ダンデは「あと鼻が高くて、足が長くて、手が大きくて……」と目にしたものを全て言葉に換えようとするので「あーもう分かった、分かったから!」とたまらずそれを遮った。
このキバナさまが、出会って早々ここまでペースを崩されるとは。しかも相手は白ユニのチビときた。
珍しく慌てたような気持ちで、キバナはいつもの調子を取り戻すべくリーグカードを取り出した。いつもポケットに常備しているそれは、ちょこっとサインを描いて渡してやれば、たちまちファンクラブの会員が一人増える魔法のカード。
「おれさまのこと、そんなに好きならサインやるよ」
「……サイン?」
「そー。おまえには特別、レアリーグカードに描いてあげる」
「……」
「友達に見せたら、おまえはたちまち人気者だぜ」
ポケットの中からペンを探り出し、頭を噛んでフタを外したところで気がついた。己を見上げるふたつのアンバーが、数秒前とは全く異なる輝きを放っているということに。
「いらない、そんなの」
つむじ風がまき上がり、濃紫のたてがみが荒く逆立つ。
その声は確かにソプラノだった。さっきと同じ音域であるはずなのに、なぜこれほどまでに肌を震わせるのか。真っ直ぐに己を射抜くまなざしの、なんと苛烈で鋭利なことか。激しい炎が噴きあがり、熱風に飲み込まれるイメージが頭にひらめいた。行く宛のなくなったリーグカードをちらとも見ずに、その子は言った。
「おれはキバナを倒す、そのためにここに来た。そしておれは、チャンピオンになるんだ」
──なんだこいつ、おもしれえ。
背中を駆け上がる予感に、思わずつり上がりかけた口元を手で覆う。
キバナはこれまで、虚勢ばかりの大言壮語は飽きるほどに聞いてきた。でも、こいつのそれは、何かが違う。そう思えるだけの確信があった。理由なんてない。けれど時に、何より正しい答えを導くのは、セオリーでも神の啓示でもなく、己の直感だったりすることを知っている。そしてキバナは、ここに至るまでの道を切り拓いてきた「直感」というものを、神様よりも信じていた。
「おまえがチャンピオンになっても、おれさまがすぐに引き摺り下ろす。史上最短のチャンピオンとして、おまえの名前を刻ませてやるよ」
ファンサービスなど既に放棄した顔を、ぐっと子どもに近づける。黄金色の大海原を切り裂く青色は、乱暴なほどの輝きを放っていた。けれど鋭利なまなざしを突きつけられても、なおダンデは凛々しく顎を上げ、男を真っ直ぐ見据えていた。
己を捕らえて離さない、一対のうつくしいシトリン。わずかなスカイブルーと混じり閃光を放つそれは、キバナの胸をどうしようもなく弾ませる。
そしてキバナの直感は現実となる。極彩色の紙吹雪の中、ちいさな王様が産声を上げた。
◇
どうせろくでもない話だと分かっていた。ローズの口にしたことが理解できず、キバナは端正な顔を小さく歪め「よく分かりませんが」と吐き捨てる。
「ダンデくんのライバルになってください」
わずかに覗くキバナの犬歯にちらと目をやり、ローズはつい数分前と同じ言葉を繰り返す。なってくれませんか、ではなく、なってください、ときたか。キバナは深いため息をついた。
「ダンデはなんと? そういうものは、一方的に決めるものではないと思いますが。委員長は『私たちは今日からお友達です』と言って友人を作るタイプでしたか」と研いだナイフでつついてみたが、ローズは面白いジョークでも聞いたかのように笑うばかりだった。
「わたくしはね、キバナくん。常にあなたがたのことを考えているのです」と、バンダナの下から鋭い視線を投げつけるキバナなど意に介さず、誰もがうっとりするテノールを響かせて、滑らかに話しはじめた。
「南端の田舎から出てきた無名の子どもが、瞬く間にガラルの頂点へと駆け上がるシンデレラストーリー。それに人々がどれだけ熱狂していたか、あなたも見ていたでしょう? 彼らは物語を求めている。ダンデくんの第一章は、チャンピオンになることで幕を閉じました。そして今、第二章を始める必要があるのです」
あんたが勝手に始めることじゃない、そう言おうとしたのが分かっていたかのように「ねえキバナくん」とローズが微笑んだ。行き場を失い、飲み込んだ言葉が腹に積もっては燻った。
「そこであなたの出番です。トップジムリーダーであるあなたがライバルになってくれれば、あの子もきっと成長できる。無邪気な子どもから、誰もが憧れる無敵のチャンピオンへの羽化。それが第二章となるのです。あなたは人気も申し分ないし、多くのファンがあなたとダンデくんに夢中になる。ガラル中の人々があなたたちを応援する。それはあなたがたにとって、大きなプラスになるでしょう?」
たぬきじじいめ。キバナは口の中で毒づいた。つまるところ、既に確固たるものであるキバナの人気を利用したいのだ。キバナと絡ませれば話題性も抜群だし、ダンデが更なるファンを獲得する足掛かりとなると踏んだのだろう。おれたちのプラスになる? いいや違う、それで真に美味しい思いをするのは、おれたちじゃない。
こいつは、チャンピオン・ダンデを、ポケモンリーグのマスコットにしようとしている。
それに気がついた瞬間、キバナは悟った。
あの日、あの小さな体に、無限の可能性を詰め込んでいたダンデ。なんにでもなれるはずだったし、なんでもできるはずだった。けれど彼を取り巻く大人のせいで、このままでは消費されるだけの物語の主人公になってしまう。木の一本でさえ用意されたステージで、踊り、歌い、観客を楽しませるための操り人形。全てが仕組まれた筋書きの中を、ダンデはえんえんとひた走るのだ。なにもかもが整えられた道の上で、しかしそれは自分自身で選び取ったものだと信じて疑わずに。
「ひとつ聞きたいことが」
キバナが手を挙げると、ローズは先を促すように片眉を上げた。数字にしないと人の価値が見えない瞳から目を逸らさないまま、キバナは静かに尋ねた。
「あいつがチャンピオンじゃなくなったら、どうするんです」
ローズは、まるで空は青いと教えるかのように言う。
「チャンピオンではなくなった一般人について、委員会は関与しません」
──キバナの腹が決まった。どうせローズに呼び出された時点で、既に筋書きは走り出しているのだ。キバナはフッと肩の力を抜くと、「分かりました。引き受けましょう」と静かに言った。けれどローズが右手を差し出す直前「ただし」と鋭い声を差し込む。
「ダンデのライバルであるとともに、あいつの教育係もやらせてください」
「……それは、なぜ?」
時代の先を常に見据えるアーモンドグリーンが、鈍く光って細くなる。
老獪な交渉に長けた男を前にしても、キバナはそのみずみずしい足で床を踏み締め、よりいっそう真っ直ぐに立った。
「よく考えてください、ローズ委員長。ポケモンバトルの実力が申し分ないとはいえ、あれはまだほんの十歳の子どもです。それでも、チャンピオンとしてスポンサーがついた以上、それ相応の振る舞いが求められる。いつまでも田舎出身の子どものままではいられない。わたしなら、リーグ委員会所属のトレーナーとしての立ち振る舞いや、パーティでの作法、スポンサーとの付き合い方、あの子に必要なことのほとんどを教えることができます。マナー講師なんかじゃ分からない、トップジムリーダーの経験則からね」
静かに話を聞くローズへ、キバナは燃えるふたつの青を向ける。
「そうしたら、きっとダンデの支援者が増えて、ポケモンリーグが更に盛り上がるんでしょうね」
──おまえの薄暗い魂胆は読めてるぞ。
牙を剥き出し、唸りを上げなかった自分を誰か褒めてくれ、とキバナは思った。
熱く煮えたぎるものを表に出さず、つとめて穏やかな笑顔を浮かべた。ローズは顎に手を当てて、その顔をしばらく眺めていたが、やがて「ふむ」と口ずさむように発すると、テレビ画面で何度も見たような表情を作った。
「いいでしょう。これからあなたはダンデくんのライバルで、先生です。それもなんだかおもしろそうだ」
必要最低限の打ち合わせを経たのち、キバナはようやく解放された。シュートシティを一望する大窓は、すっかり夕暮れの絵画と成り果てている。
ドアノブに手をかけようとした時、ローズが「そうそう」と軽やかに呼び止めた。
「あなたの美しい所作と、人の心を掴む社交術、そして公人としての正しい振る舞い方について、わたくしは感心しているのです。ダンデくんがあなたと同じものを身につけてくれたら、こんなに嬉しいことはない」
燃え盛るような街を背に、男は穏やかな笑い声を上げた。その表情は、刻々と色を深める影に紛れて見えやしない。
「お優しいあなたのことだ、余計なことまで教えてあげたくなってしまうのでしょうが、時間は有限ですよ。必要な物事を、きちんと取捨選択してくださいね」
「ええ、もちろん」
キバナは無機質に微笑みながら、己の意思とは真逆の言葉を口にする。
そうして、たった今ローズからお墨付きを得た処世術を、遺憾無く発揮してみせたのだった。
◇
この植物園の温室は、昔からキバナの秘密の花園だった。
花園、というにはいささか無骨な植物が多いのは、これらの大半が研究用としてガラルに持ち込まれたものだからだ。その生態を調べるだけでなく、新たな素材の開発や新薬のための研究に貢献したかれらは、役目を終えるとこの温室に集められる。一定の気温に保たれたこの楽園で、植物たちはのんびりと余生を過ごすのだ。
花が咲かなくなってしまったものも多くあったが、しずくを弾く緑色の宝箱は、キバナの心を十分に引きつけた。めくれあがった樹皮や大人の顔ほどもある葉、ごつごつとした幹のこぶを見ていると、まるで異国の森に来たようで心が躍る。
ダンデもどうやら同じ感想をいだいたらしく、温室へ入るなり茂みに突っ込んで姿を消し、キバナを大いに困らせた。
「これからは、通路を外れて歩かないこと。守れないなら二度と連れてこないよ」
「んー、わかった」と言いつつ、ダンデのまるい目は既によそを向いている。
一歩めからつまづいたスタートに一抹の不安を感じるものの、気を取り直して咳払いをひとつ。うむ、なんだかせんせいっぽい。
あっちこっちへ動き回る子どもを、ようやくガゼボの下に押し込めた。白塗りのそれは、まるで小さな鳥かごのよう。これからここが、ダンデにとって秘密の学び舎となるのだ。
そんなこととは知らず、ガーデンチェアに座って足をぶらつかせるダンデは「なにするの?」と瞳を輝かせている。ジムリーダーとチャレンジャーという立場でバトルをして以来、その子は妙にキバナに懐いていた。キバナの手から、オヤツが出てくることを知っているワンパチのように、期待のこもった目で彼を見上げるのだ。
テーブルへ身を乗りださんばかりの子どもへ、キバナはにっこりと笑う。そしてわくわくした顔の子どもに向かって、
「これから、おれさまとここで『おべんきょう』をするんだ」
と高らかに宣言した。
「お、べんきょ……?」
よく分かっていない子どもが、首を傾げながら「ポケモンの?」と尋ねるので、朗らかな表情を崩さないまま「違うよ。科学や歴史、文学について学ぶんだ」と答えてあげる。たちまち、ダンデの顔が曇りはじめた。
「いやだ」
「そんなこと言うなよ。おまえに必要なことなんだぜ」
「スクールで、算数とか、スペルはちゃんと習ったもん。余計なことはいらないし、これからも必要ない」
「もう決まったことなの。喜びな、このおれさまがおまえの教育係だ」
「そんなの頼んでない!」
「おれさまがローズさんに頼まれたんだよ」
──ちょっとだけ嘘を混ぜた。「余計なこと」をダンデに教えたいのはキバナであり、完璧な独断である。けれど委員長の名前は効果ばつぐんで、にわかに興奮したダンデだったが、その一言でとたんに口を閉じた。あの男に推薦状をもらって今があるということもあり、ひとかたならぬ恩義をいだいているらしかった。
不服そうに唇をもぐもぐとさせながらも、必死に事実を飲み込もうとしている子どもの顔を見ながら、キバナの心はうっすらと濁ってゆく。おまえが恩人だと思っているそのローズが、実は。そう言いかけた口を、ぐっとつぐんだ。この子どもに、そんなことまで教える必要はない。少なくとも、今ではない。
「とはいえ、おまえを退屈させるつもりはない。なんたって、ナックルユニバーシティ主席卒業のキバナさまが『せんせい』だぜ? ぜったい夢中にさせてやる」
「うえー……」
納得できないまでも、自分の身に降りかかったことをなんとか嚥下できたらしいダンデが、苦いものを食べたみたいな顔をする。けれどキバナが「まずはガラルのポケモン史について。いつから人とポケモンが共存することになったのか、歴史書を読んで勉強しよう」と言って厚い本を取り出すと、ポの字を聞いたダンデの耳がぴくりと動いた。
「なんだ、ポケモンのことじゃん」
「最初はね。でもバトルについては今日もこれからも一切禁止な」
「ええーそれじゃつまんないぜ」
「まあまあ、これけっこう面白いよ。モンスターボールがなかった時代、何でポケモンをゲットしてたか知ってるか?」
「……ぼんぐり? ヨロイ島で修行してるとき集めてた」
「正解! じゃあ、ぼんぐりを使う前はどうしてたと思う?」
「んん……知らない。どうしてたの?」
集中しはじめた子どもの顔を見て、キバナはふふんと鼻を鳴らした。
「さて、おれさまが話すのはここまで。スクールで読み書きは習ったんだろ? その本の中に答えが書いてあるから、自分で読んでみな」
もともと好奇心旺盛だったらしいダンデは、さっきの態度が嘘みたいにぶ厚い本へ飛びついた。目をらんらんとさせながら古びたページをめくるダンデに、「このあと、一緒に本棚を買いに行こうか」と提案してみた。
「シュートシティに引っ越してきたばかりで、最低限の家具しかないんだろ? これから本がたくさん増えていくんだし、今から買っておいて損はないだろ」
「あー……いらない、ぜ……」
すっかり文字を追うことに夢中のダンデは、上の空でも己の頑固さは忘れていない。そんな子どもに苦笑しながら、草木が水を吸うように知識を得る姿を、キバナは頬杖をついて見つめた。
本棚は、おまえにとって必要なのだ。これからそれが、おまえの羽を休める止まり木になるかもしれないのだから。天体の動きや雲の名前、まちに流れる音楽と今日に繋がる悠久の歴史。そういうものをたっぷり詰め込んだ本が、空っぽの棚をいっぱいする。おまえの世界を豊かにするもので、溢れてゆくのだ。
一生懸命に文章を辿りながら、諦めの悪いダンデがぶつぶつ文句を言っている。
「チャンピオンは、ポケモンのことが完璧なら……それでいいって、みんな……言ってるんだぜ……」
キバナの腹が熱く沸き立つ。
おまえが生まれてきた意味を、大人の勝手な都合で決めさせてなるものか。
「すごいな、もうそこまで読んだのか。第二章のバンバドロと農耕の歴史については、こっちの本の方が詳しくて、───」
スタジアムでボールを握るのと同じだけの力で、キバナはもう一冊の本を掴んだ。
温室のガラス天井の向こうから、やわらかな日差しが光の粒となって降り注ぐ。心地良さそうに葉を広げる植物たちは、空を目指してのんびりと背伸びをしている。色も形も個性豊かな花々は、あちらこちらで甘く咲き誇っていた。
いつか、ここの花の名を全て教えてやるのも悪くない。ダンデの季節を彩るものが、たったひとつでも増えればいい。そうして、実は四つだけではない季節の境目に、おまえが気づいてくれたらとても嬉しい。
子どもは今、カラフルな挿絵に夢中になっている。
キバナはその右回りの小さなつむじを、まるい頬を、伏せられた長いまつげを、どこか眩しそうに見つめていた。
(キバナおにいさんとダンデくん②/2021.09.24)