マスタード色のコート「ああ、足元気を付けてくださいよ。滑りますからね」
店主の声に目を落とすと確かに木の床が濡れている。私はわかりましたというのを視線に込めて店主に笑顔を送った。店主は丸顔の30代くらいの痩身のひとであった。
仕事場から自宅を結ぶ線上に最近開いた雑貨店があって、かねてから気になっていたのを今日ふと寄ってみようという気になった。ガラス張りの扉の濃い色の木枠には節がたくさんあって、月並だがどれもまるで私を監視する目のようであった。
湿った空気の雑貨店は薄暗いなかに売り物がごちゃごちゃとひしめいていた。大きいものは壁際に堂々と並んだ古めかしいタンスから、小さいものはオーク材の机に陳列された色のついたクリップまで品ぞろえも多様で、これはしっかり見て回るには時間がかかる、来るならば休日にすればよかったと私は後悔した。
だが実際、全く見て回る時間はなくなった。店主がにこにこ笑顔で近づいてきたのだ。丸顔ははちきれんばかり興奮しているのがわかった。話したいことが何かあって、それが顔を破裂させようとしているような印象を私は覚えた。これはやっかいな店に来てしまったと思ったが、既に店主は話しだしていた。
「いやあ、よく考えたんですけどねえ、お客さん、これはわたくし誰かに話したほうがいいとやっぱり思いましてね」
「はあ」
「今日は会う人会う人みんなにこの話をしてるんです。なにせ昨日あったばかりのことなんですよ」
「ええ、なんですか」と私はもう諦めて興味を示してやった。私は人に抵抗するのが苦手である。そこで私は初めて店主が背中に何か隠し持っているのに気づいた。
「これなんですよ、うちの商品なんですけどね」それは目の覚めるようなマスタード色の丈の長いトレンチコートだった。女性用で、春ごろ着るのにちょうどよさそうな代物だ。店主は弁解するようにいった。「いえ別にね、これを売りつけようってわけじゃなくてですね」
店主は本格的に話し始めた。それは妙な話だった。
「この可愛い黄色いコートね、友人から仕入れたものなんですよ。妙なことをその友人がいうもので、私が疑うと、疑うならしばらく着てみなさいと言うんです。それで私も、自分の売るものにはある程度責任を持ちたいとまあ、考えておりましてね。袖を通して、外出するときはこれを着て生活するようにしたんですね、それがまあ、ちょうど2週間前のことです。そうしたら、はじめは気づかなかったんですけれど、なんだか妙なんですよ。男が……男がひとり、いつも居るんですね。近くに。知らない男ですよ。ぜんぜん知らない。黒い服、ちょっといま時期寒そうな、黒いぴたっとした半袖のシャツを着て、下は普通のジーパンでね、年は……あれは多分30後半とかそのくらいでしょうね。顔は普通ですよ、別に危険そうとか、怖いとか不気味とかいうのもなくて。どこにでもいそうな男です。だから最初は見間違えだと思ったんですけどね、でもやっぱり、この黄色いコートを着ているとどこからともなく現れてね、そのへんに居るんです、そんなに私に近づくでもなくてね。なんだか居るな、くらいの感じでね。私ももうそれが怖くなってね。幽霊みたいでしょう、いつも居るなんて。だから友人に、これは何か呪われているとか、そういう怖いコートなのかと聞いてみたんですけれど、友人は『いやそういうんじゃないんだよ。全然ちがうんだ』とこう言うわけです。『もう少し着ていれば分かるから』とも言うので、まあ私は何より商売人でね、しっかりした商売人ですから。ちょっと怖いけどがんばらなきゃと思って、着続けたわけです。そしたらまあ怖いですよ。徐々に男が近づいてくるようになったんです。もう怖くて怖くて。コートを脱ぐとすぐに消えるんですけれどね。しかしそれじゃ埒が明かない。だから意を決してずっと着ているようにしてね。そうして日が経っていきまして、とうとう昨日、昨日です。その男が、スタスタこちらに歩いてきまして。スタスタっと何の迷いもなくね。一体何をされるかと身構えているとね。ニコッと笑って話しかけてくるわけです。こう言ったんですよ男が。『あなた、生まれなかったことにしてあげましょうか』と。『はい?』と聞きなおしまして。何を言うんだ一体と思いましたから。そうしたら『生まれてこなかったことにしてあげられますよ。してあげましょうか』とちょっと言い方を変えてくるんです。それで、まあ、これはイエスかノーか応えなくちゃいけないみたいだと思って、私はちょっと考えましてね。生まれなかったことにされたら困りますね。頑張って組み立ててきた商売もありますからね。『お断りします』と答えたんです。すると男は『そうですか。ではコートを返してください。それは私のものですから』と言い出すんです。困りますね。私は『待ってください。これは法的に私の所有物ですよ。私が○○という者からちゃんとお金を払って仕入れたれっきとした私の商品です』と胸を張って宣言しました。これは口論になるなと思いましたよ。ところが全然そうでもなくてね。『はあそうですか。それは困りましたね。困りましたけど、それが道理ですねえ』と男はうんうん頷いて。肩をすくめてこう言ってくれまして。『まあ仕方ありませんね。あなたのお店、あれは良いお店ですからね。きっとすぐに売れるでしょうな。良いですよ、店に置いて下さい』と。ぺこりと頭を下げるもんですから、私も『どうもありがとうございます』なんて反射的に一礼しちゃったりなんかしまして。それで、でもそれでおしまいなんてことにするわけにいかないでしょう。もうすこし商品について理解しないといけませんからね。私は聞きましたよ。『さっきのあれはいったいどういうことですか。生まれなかったことにとかなんとか』男の説明をまとめますとね」
曰く、生まれてこなかったことにしたい。ともし答えたなら、男が色々とがんばって、現実を変えてしまって、本当にそのひとが生まれてこなかったことにしてあげるのだ、それが男の仕事なのだ。というのである。
「それでね、男は言うんですよ。男もまあ話したかったんでしょうね、誰かに。そこに私が水を向けたという。ちょっと照れたような顔してね、ぺらぺらよく喋るんです。『この仕事していて困ることがありましてねえ。人をひとり生まれてこなかったことにするわけでしょう。それは大変な苦労なんですよ。でも最終的には、自分のそのひとに関する記憶も全部消しちゃうもんだから、自分が消したのがどういう人間だったかもわからないわけですね。全くあの無力感と言ったらないですよ。ずいぶん頑張るんですがねえ。なんだか虚しくてねえ』それを聞いて、私はこの男は単純に気が違っているだけなんじゃないかと思ったんですけどね。だってそうでしょう。なんにも覚えてないんだったら、本当に誰かを生まれてこなかったことにしたか、その証拠がないでしょう。でも私もね、コートを着ている間だけはこの男が見えるというね。そういう摩訶不思議を体験しているわけだから。無下にするわけにもいかなくてですねえ。半分信じて、半分疑っているみたいな。そういう感じですね。それからしばらく仕事の愚痴なんか聞いてあげて、私も少し話してね。それで男とはさよならしまして。私もコートの謎が解けたからコートを脱ぎまして。今に至るというわけですね。どうですお客さん、不思議なコートでしょう。いかがです、不思議な経験ができますよ」
最初に売りつけないと言ったのはどこにいったのか、結局セールスであった。
私はコートを買った。(了)