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    【田内】高体連 地区大会

    #okdeeer_Tauchi

    Rainy Blue 今年の梅雨入りは、去年よりも少し早かったような気がする。毎朝起きるとじわりと背中に汗が滲んでいる感覚が、俺は好きじゃなかった。朝起きて窓の外から雨の音が聞こえるのも、じめじめと水気を多く含んだ空気も、皮膚に薄い膜が纏わりつくようないやな暑さも全部好きじゃない。自分の名前とか全然関係ないし。何なら小晴れとかやったら良かったって毎年この時期は何回か考えるし。
     何より毎年地区大会が始まるこのタイミングで、どうしても練習の質が下がってしまうのが歯がゆくて仕方がなかった。毎年この時期は、自分でコントロールできもしない気候なんてもんに振り回されて思い通りに動けないことに、変な焦りを感じていた。


     付属桜花には陸上部がなかった。
     運動部の中でも、野球部とサッカー部とそれから陸上部というのは、まぁ大体どんな学校にも存在している。俺が去年の秋頃に走れなくなって陸上辞めて、前の学校辞めるのことも決めて、次年度からの学校を決める為にくっそ暇な病室でパンフレットとかぱらぱらめくってた時も、部活動一覧には大抵この三つは名前があった。だからこそ、あ、陸部ない。と思ったのは、さすがに決め手ではないにしても、興味を持つきっかけになったことは間違いない。
     一旦考えるのやめよ。そう思ってこの学校を選んだことは否定できない。陸上から距離を取りたかったとかそういうことをはっきり考えた訳じゃない。担任や顧問は普通科へのコース変更もできるとか、マネージャーやってくれたら心強いとか色々言ってくれたけど、陸上ありきで選んだ学校に陸上の成績で入っといて、走れないまま在籍を続けるのはちょっとしんどかった。
     陸上部のない学校に転入を決めたときに、母親は何も言わなかった。何か言ってくるような母親ではないのは分かっていたけど、台所で味噌汁の出汁を取る背中に学校決めたで、と投げても、帰ってくるのは「勉強サボったら入れへんで」という一言だけだった。それが俺にとって良かったのか悪かったのかは今更知りようがない。ただ、変に言葉をかけられると何を返していいか分からなくなりそうだったから、その場はほっとしたことだけ覚えている。
     二月、自主退学手続きの全てが終わった。スポーツコースは十四時過ぎには授業が全部終わるから、転入試験の為の勉強時間は十分確保することができていた。その頃には、走れなくなった夏からもう半年以上が経っていて、その間俺は一度も走っていなかった。陸上部に退部届を出してからは、人が走るのを見ることもなくなった。でも別にそれは自分が陸上からわざと目を逸らしていた訳でもなければ、元チームメイトや先輩と気まずくなった訳でもない。
     簡単だった。走れないから、走らなかった。それだけのことだ。
     当たり前にあると思っていたものがそこに無い、という感覚は、実際になくなってからじゃないと分からないものだなと思った。というか、本当になくしてしまってからもまだ分からなかった。走るという選択肢はもう俺には残っていなかったのに、その事実も、陸上のない生活も、ばあちゃんちにある古い磨りガラスの向こう側のことみたいにずっとぼんやりしたままだった。
    「もっとへこんどるか思ったわ」
     先輩が言った。
    「我慢しいひんのよ」
     そう言ったのはばぁちゃんだった。
     色んな人が色んな言葉で俺を心配したけど、当の俺は自分でも拍子抜けするほど普段通りに生活していた。
     俺の一〇〇メートルの自己ベストは、何の皮肉か、ぶっ倒れて棄権したインハイ準決勝で記録された一〇秒三八だった。たったの十秒。自分の前には誰もいない真っ直ぐなトラックと、追い越した風のはやさと、十秒間で俺を運ぶ四十三歩の踏み込み。それだけが、俺の全部だってずっと思っていた。永遠にこの十秒間の中にいたいと思っていたし、ここでだけ心臓が打つんだと、ここでしか生きられないと本気で思っていた。
     これまでの十六年分の人生の、いったい何十日、何百日を走ることに費やしてきたのか、俺には分からない。それがすっぽり抜けてしまって、その分がからっぽの穴になったとしても、代わりに入るもんはある。
     俺は結局、走らなくても生きていけるのだ。それを知ってしまったことが、走ることができなくなったという事実よりもずっと俺の心を重くしたし、後ろめたかった。陸上が好きなら、と引き留めてくれる人達に別にそうでもなかったですとか言えずに、ありがとうと笑うのもなんか変やな心配させそうやなと思いながら笑うしかなかった。
     無理するなと言う人もいたし、幼馴染みなんかは俺よりずっと憔悴していて、それには申し訳ないような気持ちもあった。誰かに悲しんでもらいたい訳でも心配してほしい訳でもましてや同情してほしい訳でもなかったが、周りには多少なりとも俺が無理して笑っているように見えたらしい。別にそういう訳でもないことが余計に居心地が悪かったし、笑っても笑わなくても心配させてしまうなら、俺にとっては笑っている方が楽ではあったのは本当だ。
     走るのが何より好きだった。今はそれに自信が持てない。
     陸上から離れて、陸上部すらない学校へ転入を決めて、特に後悔もしていない自分が本当に自分なのか疑わしい。でもこのまま元チームメイトをサポートする立場に立って、自分ではない誰かが風を追い越していくのを見ているのすら受け入れられるとまでは思いたくなかった。それすら大して悩みもせずに受け入れられてしまいそうな今の自分を、それこそ受け入れてしまいたくなかったのかもしれない。


     今年の梅雨もいつも通り、じめじめと湿った空気が重ったるく、連日土砂降りというわけでもない雨が降り続いている。今週は二日程度しか晴れ間がなくて、グラウンドのコンディションも最悪だった。高体連の地区大会を来週に控えた段階でこの状況というのは俺としては結構焦るところではあるが、うちの部室の炊飯器はそんな焦りもつゆ知らず今日もしっかり稼働しているらしい。白米の炊ける匂いが部室棟の一階の廊下まで漂っている。
    「今日も陸上部お米炊いてんの?」
     ここまで来る途中で偶然落ち合った田中くん(このおバカは俺の従兄弟ではあるが、未だに気付かれる気配がない)が心なしか羨ましそうにうちの部室のドアを見つめた。
    「水泳部隣だからさぁ、お米の匂いしたらおなか鳴っちゃうんだよ」
    「食いに来てもええけど彗星ちゃんとの熾烈な争奪戦に勝つ必要があるで」
    「……わぁ」
     何故か備品棚にはトレーニング器具よりもハイペースにご飯のお供が増えていることは黙っておこうと思う。このおバカも食わせればアホほど食うのだ。フードファイターが増えると今の五合炊きでは間に合わなくなるかもしれない。一人で十分だ。ところで米を買ってきているのが誰なのか、俺は知らない。
    「ていうか小雨くんが持ってるそれ、何入ってんの?」
     言いながら田中くんは、俺の抱えている二つの段ボールをひょいと覗き込んだ。一人で楽に抱えられるくらいの大きさのそう大した重量もない荷物は、ほんのついさっき、雨の中を持ってきてくれた宅配の兄ちゃんから正面玄関で受け取ったものだった。全ての面がまだしっかりとガムテープで封をされていて、中身は見えない。側面に張り付けられた伝票の送り主の欄には、スポーツ用品メーカーの名前が書いてあった。
    「あぁこれ」
     少し湿った段ボールを抱え直す。中でかさりとビニール袋が動いた音がした。
    「発注しとったユニフォームとジャージ。さっき届いてん」
    「わ! 陸上部の!?」
     おめでとうおめでとうと何故か妙に嬉しそうににこにこしている様子に、こんなことに気を取られているうちに雨で濡れた廊下で滑って転びやしないだろうかと少し不安になる。この従兄弟は昔からどんくさくてすっとろかった。これまでまともにスポーツに触れてこなかった田中くんからしたら、今しっかり袖を通している水泳部のジャージも、渡されたときはそりゃ嬉しかったんだろう。
    「高体連に間に合って良かったねぇ」
    「なんとかギリやったな」
     発足させたばかりの部というのは、当たり前のことではあるが参考にできる前年の活動の記録がない。俺も正直なとこ部活動の運営に関して詳しい訳でもなく。待て高体連までにユニフォーム間に合わせなヤバいんちゃうかと気付いたのが地区大会のエントリーが始まる直前になってしまったのは、完全に俺のミスだった。
     練習日の調整とか競技場の使用許可とか、その他色んな雑務の合間にアホみたいに調べまくってデザインを確定させて、のん子先生にも頼りまくってなんとか三週間前に発注したユニフォームが、今日納品された。一日二日ズレ込んでいたら間に合わないギリギリのラインだったから、ここ三日くらいの間は心底胃が痛かった。今日の午前中に配達予定メールが入った時は安堵で数学の授業が手につかないくらいだった。苦手なんで元からあんまり手にはついてないけど。
     とにかくギリギリでも間に合って良かった。このやらかしは俺の中ではだいぶウエイトがでかいというか、大反省した部分でもある。元々スケジュールきっちりつけるタイプじゃなかった俺が、やることの多さに陸上部のタスク管理用の手帳買ったぐらいには。こんな胃が痛むようなミスは、正直二度とやりたくない。
     外から聞こえる雨音が強まる。予報では明日の朝まで雨は降り続くらしい。この調子だと明日の天気が晴れでも、グラウンドは使い物にならないかもしれない。地区大会まで、あと五日を切っていた。どうにかユニフォームが間に合った安堵と、否めない準備不足への不安感が一緒になって頭が痛い。
    「あ、ドア開けたげるね」
    「えー田中くんやさしっ! きゅんです」
    「小雨くんおっぱいついてないからきゅんいらない」
     ふにゃんと緩んだ顔にそこそこ辛辣に突き放されて、俺のきゅんですは行き場を失った。田中くんにはいつか、従兄弟だなんだとややこしいことよりも先に教えてやらないといけないだろう。この世のすべての夢が、おっぱいにだけ詰まっている訳ではないということを。
     田中くんはそれでも親切に陸上部の部室のドアを開けておっぱいのついてない俺を通すと、じゃあがんばってねぇと言い残して隣の部屋へ消えた。
    「あ、せんぱい。お疲れ様です」
    「おつかれー」
     部室の奥の机の上には、もはや当たり前みたいな顔をして五合炊きの炊飯器が鎮座している。白米の炊ける匂いが充満する部室で大き目の茶碗を抱えている彗星ちゃんを見ても何とも思わなくなってしまって、最近は少し危機感を覚える。どうやら今日のご飯のお供はたくあんらしかった。
    「部室開けてくれたんのん子先生?」
    「はい。ちょっと仕事残ってるので片付けてからまた来るって」
    「あー、手煩わせてもーたかな」
     部室中央のベンチに荷物を降ろすと、それまで絶えず動いていた彗星ちゃんの箸が止まった。もぐもぐ白米をよく噛む口は動いていたが、この子が飯食ってる時に箸が止まるのを初めて見た。メッセージアプリを開いてグループに「ユニフォームきた」と投下すると、ものの数秒で既読がつく。特に返事はなかった。
     椅子から立ち上がって荷物の傍まで来た彗星ちゃんが、中身の見えない段ボールを上下左右からまじまじと眺める。この湿気で少し広がった髪の毛がふわふわ揺れているのが、なんか小さい動物……具体的に言えばリスのしっぽに似ていた。
    「中見てもいいですか?」
    「あいつら来る前に開けたる?」
    「遅いのが悪いと思います」
     言いながらじっと荷物を見つめる目がきらきらしていて面白かった。食いもん以外にもそういう顔するんやな、と言いかけて、一応やめておいた。
     結局すぐに飛燕が「唐辛子色のユニフォーム届いたノ~?」と顔を出して、はさみを取り出したところでなっちゃんが「ユニフォーム!」と勢いよく駆け込んできて、全員揃ってからのお披露目になった。外はまだ雨が降り続いていて、やっぱり今日もミーティングという名のダべり会になりそうだった。
     はさみ使って段ボールを開けると、おぉ、と声が上がった。残念なことに唐辛子色は採用されずメインカラーを黒とピンクの二色になったが、正解だったような気がする。知らんけど速そう。
     せっかくやし着てき、とジャージと一緒に持たせて、部室が男女分かれてないから三人をトイレに送り出して、俺は残ったジャージを手に取った。時間がなかったから、一旦ユニフォームは三人分だけを発注したが、ジャージはのん子先生と俺の分と、計五着を発注していた。胸の部分に苗字が刺繍されたデザインは、部活用のジャージとしては珍しくもなんともない。現に前の学校の部活ジャージにもしっかり田内、と刺繍がしてあった。
     陸上やめてから、あのジャージにはどうしても腕が通せなかった。別に部屋着にしても良かったけど、ユニフォームと揃いのデザインは、それを着て何も考えずに走っていられたときを思い出してしまいそうだった。結局部活のジャージはこっちに持ってくることもなく、実家に置いてきている。母親に部屋着に使ったらええやん、と適当なこと言ったらデカいわと一蹴されたので、雑巾か松尾さんのおもちゃにでもなっていなければまだ引き出しに入っているだろう。
     三着だけのユニフォームは、当たり前のことだが俺の分はなくて。そういえば当たり前にユニフォームを手渡されてきた、と今更のように思う。前にいた学校は強豪だったこともあって、一度もユニフォームを着ることなく引退していった三年生だっていた。それを今になって思い出す。
     正直なことを言えば、俺の分のジャージを発注するかは最後まで迷っていた。あんまり考えたくなかった。部活ジャージの下に着るのがユニフォームではないことも、胸に田内の刺繍が入ることも、もう風を追い越すことのできない背中に、付属桜花陸上競技部の字を背負うことも。
    「せんぱーーい! どう!?」
    「……おー」
     なんか妙にセンチメンタルになってたところに戻って来た三人でギ○ュー特戦隊ポーズをキメられたので色々とどうでも良くなってしまった。関西人としてはツッコむべきなんだろうが、あいにくその気力がない。
     それでもユニフォームを着てはしゃぐ後輩の姿を見ると、良かった、と思う。地区大会までに間に合って良かった。こいつらがこの学校の陸上競技部として初めてトラックとフィールドを踏むその時に、学校名を背負わせてやれて良かった。だってユニフォームを手渡されて頑張れよ、と背中を叩かれたときの気持ちは、俺がいちばんよく知っている。
    「似合う似合う」
     まだ自分のジャージをビニール袋から出せずに握り締めているのが、どうしてなのか分からなかった。手を開いて、その学校名を掲げた背中を叩いてやらなければならない。お前ら頑張れよ、と。
     たとえそのユニフォームを、自分が受け取ることはなかったとしても。
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