後悔している。　後悔していることがいくつかある。
　
　例えばそれは、小学校の頃使っていたバリバリ財布をウォレットチェーンのおもちゃみたいなやつで腰にぶら下げて木登りしたら枝に引っかかって見事に自分だけ落下して、木の上に取り残された財布が中に入っていた三四二円と共に永遠に取れなくなったことだったり、五年生の頃に配られた裁縫道具のカタログの中から、当時はバカカッケェと思ったツインドラゴンナンチャラカンチャラを母親の忠告を無視して友達とノリノリで選んだことだったり、縁側でスイカを食べながら飛ばした種の着地点を指して「何年かしたらあの辺スイカ畑やで」とか適当言ったら十年経った今でも従兄弟がそれを信じていることだったり、何やかんや面倒見て甘やかしていた幼馴染みが、高校三年生にもなって他人の話聞かんわ俺を見つけりゃ学校のどこだろうと構わず引っ付いて離れんわなちょっとヤバめ女子に育ってしまっていることだったり。ガキの俺アホやなぁみたいなのから今後が不安になるやつまで色々あるが、大抵がそういうくだらないやつだ。
　ただ、ひとつだけ。やり直せるもんならやり直したいと思うくらいの後悔が、十七年というゆーてまだまだクソ短い俺の人生の中にひとつだけあった。
　
　それが二年前、俺が高校一年の頃のちょうどこれくらいの時期、高体連の地区大会前だったと思う。俺が一年間だけ通った高校は、関西の陸上では強豪で名の通ったスポーツ特進コースのあるような大学附属高校だった。
　強豪だけあって当たり前に部員は粒揃いで、地区大会に出るにも部内でタイム順の選抜があるくらいで。同じ部の同じ競技の奴らは心強くもあったが、同時に常に大会出場の少ない枠を競い合う関係でもあった。
　一年の時点で、正直なところ俺のタイムは部で一番良かった。地区大会への出場権は全く心配していなかったものの、六月の時点でひとつ小さな、本当に小さな気がかりがあった。
　
　体力が落ちた気がしていた。
　中学の頃に比べて練習時間は格段に増えていたのに、スプリントとはいえ体力が落ちるはずはなかった。ただ、僅かな違和感が積もっていくようだった。
　
　走った後の息が落ち着くのにかかる時間が、数秒長くなった気がした。
　タイムは落ちていないのに、疲労の蓄積が大きくなった気がした。
　普段より耳に響く心臓の音が大きいような気がした。
　そんな小さな違和感だった。
　
　コーチも一緒に練習をする部員も誰も気付いていなかったし、俺も特別何も言わなかった。一週間前の調整メニューの回復を少し多めに取って、それで地区大会は全く問題なかった。
　県大会も問題なかったが、走り終えた後僅かに背中がきりりと痛むのが気になって、この時母親にだけ少し話をした。
　
「インハイ前に病院行っとき」
　
　背中に手を当ててそう言った母親に、おー、と適当な返事を返した。きゅっと寄った眉間のシワは、不機嫌ではなく心配の合図だということは十分知っていた。
　
　母親の忠告というのは、まぁ昔から無視してきたもんである。それこそ小学生の頃の裁縫道具だって、シンプルなやつにしとけと散々言われて選んだのはツインドラゴンナンチャラカンチャラだったし、バリバリの財布腰にぶら下げとるんはダサ男の象徴やでとかなんとか言われても頑なに変なチェーンで財布をぶら下げるのはやめなかったし。
　言うことを聞いておけば、確実に後悔は減っただろうと思う。その時だってそうだった。病院行っときゃ良かった。誰かあん時の俺を殴れと言いたいところだが、俺は多分殴られたって病院には行かなかっただろうと思う。
　
　自分の不調を明確にされたくなかった。それを理由に、ずっと立ちたかった場所へ立つ権利を、走りたかった場所で走る権利を誰かに奪われることがひどく怖かった。
　ただその一瞬の為の意地の為に、俺の全部だったあの十秒間を永遠に奪われるとは、俺だって思っていなかったのだ。
　
　後悔している。
　あの時不調を押して憧れの場所に立ったことを、ずっと後悔している。