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    【田内】高体連地区大会

    #okdeeer_Tauchi

    よるべ 白線を前にスタートの合図を待っているとき、俺が聞いているのは心臓の鼓動だけだった。最初に踏み出す左足の為に限界まで研ぎ澄まされた神経が、空を裂いて弾けるピストルの音を待つ。
     約十秒間で、真っ直ぐに引かれた百メートルの白線の間を駆け抜ける。十秒の間に考えるべきことはたった一つだった。誰よりも早く飛び出して、最高速度で駆け抜けたやつの勝ち。それだけで良かった。その単純さが好きだった。
     背後から迫る誰かが地面を蹴る音も、誰かの為の声援も、俺の為の声援も、色とりどりの横断幕も、何ひとつとして俺と白線の間に流れる十秒間には入って来られなかった。全部を意識の外に追いやって、俺をこのトラックまで連れてきた四十三歩だけを、頑なに信じていられた。
     前を走る背中のないトラックは眩暈がするほど広くて、誰を追いかける必要もない十秒間は、いつ息を吸ったのかも分からないくらいに一瞬で過ぎ去っていく。
     風に乗るだとか風になるなんて、走ったことのないやつが並べた月並みで安っぽい言葉だと思った。走っているとき、風なんか気にもならなかった。
     追い風も逆風も全て振り切って、誰もついて来られないところまで走って、走って走って、そこまで走って来たやつだけが、自分が追い越した風の速さを知っている。
     自分の呼吸と地面を蹴る足の裏と、静かに打つ心臓の音。それだけが俺の十秒間の中にあって、それだけが俺の十秒間のよるべになる。誰もいない一直線の百メートルを駆け抜けてフィニッシュラインを断つように横切ったあと、ゆっくりと世界に戻ってくる騒めきがひどく煩わしく思えた。だからもう一度、十秒前に踏み出したスタートラインに戻って、この十秒を繰り返したいと思った。永遠にこの一瞬の中にいたいと思っていた。
     
     この十秒が、俺の全てだった。
     
     
     今日で高体連の地区大会まで、ちょうど十日を切った。梅雨入りすると焼け付くような日差しを感じることは減ったが、その分じめじめとした湿気が煩わしい。伸びた襟足を触りながら、前に髪切りに行ったんいつやったっけ、と、大きな水たまりのできたグラウンドから目を逸らしながら考えた。
     六月は雨が多く、屋外での練習がメインの陸上部はまともに練習ができない日も多い。こういう時には、前の学校の整った環境を嫌でも思い出した。スポーツ推薦コースを有する私立高校は屋内競技場が併設されていて、雨の日でも何ら関係なく、毎日数時間、余計なことは何も考えずに練習に没頭できた。
     今日も空気がたっぷりと水を含んでいて、顔に張り付くような湿気がひどく煩わしかった。空は暗く重たそうな雲に覆われて、いつ雨が降り始めるか分からない。それでも全く走れず筋トレで終わるよりはずっといい。全員に共通の軽いトレーニングメニューを指示して、種目ごとに一週間前からの調整メニューを組む為に手元のバインダーに視線を落とした。
     大会の一週間前からは、一部種目は通常の練習メニューではなく、レース前調整メニューに変える必要がある。特に短距離は疲労を当日に残さないように、四日前辺りから回復を中心に軽めのトレーニングに留めるのがセオリーだ。全員の今日のメニューを把握してから、基礎トレに励む後輩たちの顔を見る。
     正直なところ、ここ最近何人かの顔がなかなか晴れないことには気付いていた。
     陸上競技がリレー以外は個人種目であるのをいい事に、俺は基本的に、部員それぞれの陸上への熱意を統一しようとはしてこなかった。本気でインハイを目指すやつがいてもいいし、別にダイエットや体力作り目的に走りたいだけのやつがいたっていい。それぞれに合った練習メニューを、調整スケジュールを、俺がきちんと組んでやればいい話だ。
     俺自身、現役の頃は個人競技の独立性は好きだった。勿論練習は何人もの部員達と一緒にやっていて、仲が険悪だったとかそんなことはなかったが。ただ、ひとたび競技になれば、俺が向き合う相手は百メートルという距離と約十秒というタイムだけで、そこには誰も入ってこられはしなくて。
     寂しくて、でも特別だった。
     そういう意味で言えば、陸上はどれだけ周りに信頼出来る仲間がいても、けっこう孤独な競技だと思う。どうしたって、自分と、自分の記録とだけ向き合い続ける時間が生まれる。躓いたときに声を掛けてくれる大人や仲間はいれど、立ち上がる時には、いつも一人で足を踏ん張らなければならない。自分の失敗をカバーするのは自分しかいないし、弱気になる自分の背中を蹴飛ばせるのも、やっぱり自分しかいない。
     そんな寂しい世界の中で走り続けるには、跳び続けるには、投げ続けるには、よるべがいる。それは同じように隣で悩む仲間かもしれないし、同じ夢を持つライバルかもしれない。ただ悩みを押し流すような激しい雨かもしれないし、曲がった背中を撫でるようなやわらかい風かもしれない。
     俺は曇った顔を晴らしてやれるような強い言葉は持っていないし、寄り添うように隣にいて励ましてやれるような優しい目も持っていなかった。必要な時しか手を貸さずに見守っていると言えば聞こえはいいが、ただ、俺にしてやれることがあまりに少ないだけだ。
     それでもせめて見ていたいと思う。立ち上がって走り出す、空を蹴って跳ぶ、どこまでも遠く放るその瞬間、その一瞬に、少しだけ背中を押し上げる風のように。いるのかいないのかも分からないくらいでいい、ずっと気付かなくていいから、ただ、顔を上げてまた進み始めるその背中を見ていたかった。
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