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    genko_gorilla

    雑伊中心に練習用の書き散らしなどを投下する予定です。
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    雑伊、フクロナ多めのPixiv→https://www.pixiv.net/users/20035531

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    genko_gorilla

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    雑伊で現パロ(作家と編集)。
    長文や会話練習、体力づくりを目的に、毎週更新→ある程度まとまったら整えて支部にアップを予定しています。毎金曜目安。秋までに書ききりたい。ファイト自分。

    ・支部にアップする際に大幅加筆・修正の可能性があります
    ・誤字脱字因果関係の齟齬もその段階で直しますので見逃してください
    ・週刊漫画誌のネーム連載とか許せない方には向いてないです
    ・これは雑伊なのか?

    #雑伊
    #現パロ
    parodyingTheReality
    #作家と編集
    writersAndEditing
    #未完
    unfinished

    タイトル未定(作家と編集)★8/22追記 Pixivにて完成版を掲載しました!★
    みなさんからのリアクション(絵文字)を消すのが忍びないので、
    こちらのポイピク版はこのまま残させてもらいます〜




     編集長に声をかけられたのは、あるうららかな春の昼下がりだった。
    「善法寺、お前そろそろ担当つくか」
     薄汚れた社内の廊下。切れかかった蛍光灯が、ぢりぢりと小さな音を立てている。企画書のコピーとゲラの束を抱え、会議室に走っていた伊作は、すれ違い様の唐突な申し出につんのめりそうになった。
    「担当……ですか?」
    「うん。文芸編集部に入ったからには、やっぱり作家の一人や二人担当してなんぼだろ。お前、今月で二年目に入ったよな?」
    「はい」
    「じゃ、そろそろいいだろ。いい加減雑用だけで給料もらうにも飽きた頃だろうし」
    「でも……」
    「こっちとしても、お前に担当してもらいたい作家センセイがいるんだよ。知ってるだろ、雑渡先生。ここらで大いに売り出したいミステリ作家」
    「ざっと? ……ああ。あの」
     伊作は目を白黒させながら、知っている限りの情報を脳内でかき集めた。気を取られて腕の中の紙束が滑り落ちそうになり、慌ててバランスを取り直す。
    「雑」に「渡」るで「ざっと」。確か、下の名前は昆奈門だったか。人を小馬鹿にしたような名前は、ペンネームかと思いきや本名だと聞いた。顔はよく知らないが、単行本か何かで見た著者近影は印象的だった。作家の写真は真正面が撮影することが多いが、向かって右側を向いた彼のポーズは独特だったのだ——そんな記憶が、うっすらとある。
     しかし、雑渡は確か——。
    「俺も何回か話したことあるけど、物腰柔らかくていい人だよ。転職した前担当も、扱いに困ってる様子はなかったし、お前みたいなペーペーでも大丈夫だろう。だからここらでいっちょ経験値あげとけ、なっ?」
     話は済んだと言わんばかりに、片手を上げて去っていく中年男を、伊作は呆然と見送った。



    作家と編集(仮題)


     自社ビルのある都心から、電車で約1時間。雑渡が顔合わせ兼打ち合わせに指定したのは、東京郊外にある自宅だった。
    ほどほどの都会感と、それ以上の自然が同居し、住みよいベッドタウンとしても人気のとある市。JRの駅を降り、慣れない土地でうろうろとしながら、伊作は一つの住所だけを目指して黙々と歩を進めた。連休明け、五月の日差しは柔らかく、歩くには心地よい気候だったが、伊作の心境はそれどころではなかった。
    意外にも若者の目立つ商店街を抜け、大通りから一本外れた細い道を歩き続けること約15分。道ゆく人が次第にまばらになった頃、その家は現れた。
     都内ならば平均的だが、その市では小さい方に部類される二階建ての一軒家。まず目に入るのは道路に面してせり出した二階の大きなベランダで、車庫の奥に控えめに立つ玄関扉を探すのに少しだけ苦労した。ベランダにも玄関周りにも洗濯物やゴミなど生活感を感度させるものはなく、掃除が行き届いていたが、清潔というより殺風景な印象を伊作に抱かせた。申し訳程度の庭も手入れがされているが、花が植えられているわけでもなく寂寞としている。隣接する一軒家の花壇が花盛りを迎えているため、余計にそう感じるのかもしれない。
     まじまじと観察していた自分に気がついて、伊作はハッと我に返った。いけない、今から大切な仕事相手との面会があるというのに。慌てて腕時計を見る。午後12時58分。13時からの約束には程よい時間だ。
     手みやげのバウムクーヘンの紙袋を握りしめ、伊作はその場で大きく深呼吸をした。編集者としては久々のまともな仕事だ、失敗するわけにはいかない——。
    (二度と、あんな失敗は繰り返さない)
     もう一度大きく呼吸をし、こわばる指でインターホンを押す。「雑渡」とだけ書かれたシンプルな表札を見つめ、しばし待った。
    『——はい』
    「こ、こんにちは。草原社の善法寺です」
    『やぁ、時間ぴったりだね。開いてるから入って』
     深い夜のような静かな声音と、穏やかな口調。「物腰柔らかくていい人」との編集長の評を思い出して、伊作は細く息を吐いた。


     玄関を上がり、階段のある吹き抜けを通って案内されたのは広いリビング。テーブルとソファ、それから最低限の家具があるだけで全体的に物が少なく、ちらりと見えるキッチンまで、どこもかしこも整理整頓されていた。一言でいえば綺麗ないえ。しかし伊作は、外観同様に寂しいとも機械的ともとれる印象を抱いた。
    「わざわざ遠方まで来てもらって、すまなかったね」
    「いえ、とんでもないです。あのこれ、お口に合えば」
    「ああそんな、気を使うことないのに」
     バウムクーヘンを伊作から受け取り、雑渡はそっと頬を緩ませた。
    「新宿の老舗の。ふふ、かえって悪かったね」
     次からは手ぶらで来てもらえればいいからね。そう言ってキッチンに進む雑渡を見送って、伊作は静かに息を吐いた。
     なんだ、編集長の言う通り、いい人じゃないか。
     雑渡の穏やかな人となりと、たっぷりと日差しが入る室内に、すでに伊作の緊張はほぐれてきていた。知らず知らずガチガチに強張っていた肩から、ゆっくりと力を抜く。
     余裕ができてきた伊作は隙をみて、相手の様子をこっそりと観察する。
     今日までに仕入れてきた予備知識では36歳とのことだったが、目の前の男は50代でも通じそうな老成した雰囲気と、20代にも負けないしなやかな体つきをしている。
     シンプルだが洗練された衣服に身を包み、少し猫背でバウムクーヘンを切る姿は一見平凡だが、右目にぐるぐると巻かれた包帯と、その下からかすかに覗く火傷の跡が異様だった。
     著者近影の独特なポーズはこのためか。勝手に納得して、勝手に居心地の悪さを感じた伊作は、ワントーン上げた声で雑渡に話しかける。
    「こちらのお宅にはお一人で?」
    「うん。掃除やら食事の支度やらは、週に二回家政婦派遣所の方が済ませてくれる契約になっている」
     慣れた手つきで紅茶と切り分けたバウムクーヘンを運び、雑渡はテーブルに着いた。
    「改めて。一応作家の、雑渡です」
    「草原社文芸編集部の善法寺伊作です。そんな、一応だなんて」
     これからよろしくお願いしますと差し出した名刺を、雑渡は丁重に受け取った。しげしげと眺めながら、低い声でつぶやいた。
    「編集長さんから話は聞いているだろう。書けない作家を、作家とは呼べないさ」
    「書けないとは。構想中と、うかがっております」
    「ふ。うまいこと言うね」
     軽く息をついて、雑渡は微笑みを絶やさず続けた。気のせいか、右目に暗い影が落ちる。
    「でもそう言ってもらえるとありがたい。確かに三作目の構想中、ということで間違ってはいないからね。——売れない作家にとっての三作目がいかに大切かは、編集が一番良くわかっているだろう」
    「……ええ」
    「ああ大丈夫、プレッシャーをかけているわけではないさ。泣いても笑っても書くのは作家だ。特にきみは——失礼だがまだ若い、あまり経験値もないだろう。わたしを踏み台にステップアップするぐらいの気持ちでいいんだよ。売れたら編集者の、売れなかったら作家のせい、それぐらいで接してくれればいいから」
     ね。雑渡はにっこりと笑って、空気を変えるように当たり障りのない雑談をし始めた。
     今更だけれど紅茶でよかったかい、自分は普段日本茶党だが、せっかく新しい編集さんが来るというから変えてみようと思って、メールと電話で若い男性だとはわかっていたから紅茶を用意してみたんだがどうだろう、でもきみがバウムクーヘンを持ってきてくれたからぴったりだったね、いいティータイムになりそうだははは。
     終始にこやかな雑渡に相槌を打ちながら、伊作は再度編集長の人物評を思い出していた。確かに物腰は柔らかく、作家という職種には珍しく愛想もいい、しかし。
     伊作はもう、目の前の男を素直に“いい人”とは思えなかった。
    (そんなこと言って、バウムクーヘンに手さえつけていないくせに……)
     傍目には優しくて気づかいのできる、責任感のある立派な大人。しかしどこか他人を拒絶するような、やわらかい膜で、自分を守っているような。そう、感じてしまった。
     新人といえど編集者。他人を観察する目には自信があった。
    (……でも)
     伊作はテーブルの下でこぶしを握り締めた。
    (きっとそれはお互い様で、雑渡先生から見たらぼくも似たようなものなのかもしれない。だけど、担当となったからには、雑渡先生に納得いくものを書いてもらいたい……!)
     数カ月の間凪いでいた気持ちが、胸の奥でむくむくと湧き上がって来るのを感じた。
    「雑渡先生!」
     弾みをつけて立ち上がる。ずかずかとテーブルを回り込んで、雑渡の手を勢いよく握った。
    「ぼくは雑渡先生の編集者です、担当編集です! 雑渡先生の三作目、絶対売りましょう。先生がちゃんと書きたいもので、なおかつ面白くて売れるものを、一緒に考えましょう!」
     初対面の、しかも一回りも下の新米編集者に突然絶叫されて、雑渡はしばしポカンとしていた。しばらくして、隠れていない左目がわずかに輝きを増した。


     翌日、伊作は編集長の出社を待って、書類や本が山積みになった彼のデスクに向かった。
    「おはようございます。いきなりすみませんが、雑渡先生についてご相談が」
    「はよっす。おー、昨日挨拶行ったんだっけ? 悪かったな同行できなくて、あの老先生いつも急に打ち合わせねじ込んでくるんだよ。……で? 問題なかっただろ?」
    「ええ。おっしゃっていた通り、物腰の柔らかい、いい人でした」
     含みを持たせて伝えてみたが、編集長は何も気づかなかったように
    「だろ? いい人なんだよ、崖っぷちってこと以外は」
     あっけらかんと言い放った。
    「あの……雑渡先生って、なんで売れてないんでしょうか? 文章はうまいしトリックも堅実だし。そりゃずば抜けてトリッキーなわけではないですけど、手堅く書かれてるから、固定ファンも多いと思うんですけど」
     タイミングを見計らって、持っていた一冊の本を差し出した。いかにもミステリ然とした、暗色を基調としたハードカバー。編集長はそれを受け取ると、懐かしそうな表情でぺらぺらとめくった。
    「ああ、『虚無の申し子』ねぇ。懐かしいなあ」
    「確か、うちで開催しているミステリの新人賞で大賞を獲ったんでしたよね?」
    「準大賞な。大賞こそ逃したけど、やっぱり光るもんがあるって審査員の中で議論になったんで、思い切ってデビューさせたんだ」
     伊作たちの勤める草原社は、ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーを得意とする中堅出版社だ。年始に締め切りを設けているSF大賞は毎年それなりの数の応募があり、SF作家の登竜門として定評がある。その勢いに乗って5年前に生まれたのが新人作家向けのミステリ大賞で、雑渡が準大賞に選ばれたのは後者だ。
    「二作目の『あまのじゃくの棲家』はホラー要素もあって、雑渡先生の引き出しの広さを感じましたが……。売り上げデータと返本記録確認したんですが、これもそこまで売れなかったんですよね? 雑誌の書評もレビューも見ましたが、要領を得ないものばかりで」
    「ははは、もうそこまで調べたか。相変わらず真面目だなぁお前は」
     雑渡を受け持つと決まってから、伊作は雑渡の過去作を二度ずつ読んだうえ、過去の経歴をはじめ、各作品の口コミ、書評やレビュー、営業記録など一通りを頭に入れていた。そしてそれは、伊作にとって努力にすら感じられない、当然の作業だった。
     そもそも地方の国立大学を出て、出版社一本に絞った就職活動で第一希望の枠を勝ち取った男だ。元来の几帳面な性格、愛想の良さ、そして堅実な仕事ぶりは、新入社員の中でも群を抜いていた。
     一人の編集者が10人や20人受け持つのが普通の編集の世界。中堅の草原社でも、編集一人につき平均5から10人の作家を担当している。高い能力があるにもかかわらず雑用係に甘んじ、現状雑渡だけの面倒をみている伊作は、異色の存在といえた。
    「雑渡先生なぁ……うーん……」
     デスクの上に散らばっていた赤ペンを拾い上げてガリガリと頭を掻きながら、編集長は苦虫を噛み潰した表情で唸った。
    「善法寺は率直にどう思った。お前確か文学部だったよな」
     得意だろ、作品分析。目を合わせず聞く。
    「え。ですから、先ほど申し上げた通りです。文章もトリックもソツがないなのになんでかなって」
    「……そうか。お前もか」
     意味深に呟いた男を訝しんだところで、デスクの内線が鳴った。漏れ聞こえる声は、いつも世話になっている編集プロダクションの社名を告げていた。
    「おう……すぐ代わる。——とりあえず三作目のプロット作らせろ。どうせ連載枠は取れないから、書き下ろし単行本でじっくり攻めろ。任せたぞ」
     前半は受話器越しに社員に、後半は伊作に。やけっぱちのようなセリフだったが、伊作とてはなから連載になるとは思っていない、文庫書き下ろしと言われなかっただけ御の字だ。
     伊作は軽く頭を下げて、自分のデスクに戻った。


     「お前もか」。歯にものの詰まったような編集長の物言いは気になったが、編集者としてまだまだ新米の伊作にとって業務は山積みで、日々に忙殺される中で次第にその違和感は薄れていった。
     雑渡とのやりとりは最初、メールと電話が中心だった。常識の範囲内の時間帯に連絡を入れてくる雑渡はいわゆる“わがままな作家”や“出版業界人”のイメージとは180度違っていて、伊作はその礼儀正しさと几帳面さに驚くと同時に好感を抱いた。
     ふた月もする頃には二人はすっかり打ち解けて、伊作が雑渡の自宅に呼ばれる頻度も上がっていた。
     例えば7月のとある平日。
    「やあ、伊作くん」
    「雑渡先生」
     後から後から流れる汗をぬぐって、伊作は雑渡に手を振った。二階のベランダにいる雑渡の表情は、強い日差しに邪魔されてよく見えない。しかし、紫煙を吐き出しながらゆるゆると手を振り返すその姿は、出会った頃の彼にはなかった気楽さを感じさせた。
     実際、学生時代も社会人になった今も、伊作の人懐っこさや甲斐甲斐しさに、親しみやすさ以上の感情を抱く輩はいくらでもいた。それゆえ伊作は今回も、雑渡を懐柔できる自信はある程度あったし、打ち合わせを重ねるごとに手応えを感じてもいた。だからこそ伊作は、自分と雑渡の間に「作家と編集者」以外の感情を持ち込まないように、そして、相手にも持ち込ませないように、毎度己を戒めるのだった。
    (——よしっ)
     伊作は“親しみ”と取れる程度の遠慮のなさで玄関を開け、自分専用に雑渡が用意したスリッパを履いてから、勝手知ったる様子でリビングへ向かった。
    「今日も遠いところをありがとうね、暑かったでしょう」
    「いえ、やはり都心から離れると空気が気持ちよくて。駅からの道のりがちょっと楽しみだったりします」
    「それならよかった。はい麦茶」
    「いただきます」
     ごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲む伊作を、雑渡は口元を緩めて眺めている。
    「はー。生き返りました、ありがとうございました。さて、今日こそプロットを完成させましょう!」
     にこりと微笑みかけると、雑渡は我に返ったように、手元のメモ用紙に目を落とした。
     伊作は気がつかないふりをした。


     三作目のプロット作りは、ゆっくりとだが、順調に進んでいた。少なくとも伊作はそう思っていた。編集長に容赦のないダメ出しを何回もくらい、営業部の同期に意見を聞きながら、主人公をはじめ主要キャラクターの内面を掘り下げていく。大体の流れと仮題も決まってあともう少しで草稿に取りかかれそう、というところで、伊作は雑渡に呼び出された。電話の声は深刻だったが、伊作には身に覚えがなかった。
     なんだろう。伊作は首をかしげながら、赤や黄に色づき始めたいつもの道を歩いていった。涼しくなってきた風に少しだけ身を縮ませながら、習慣のようにベランダを見る。ここのところ欠かさず出迎えてくれた雑渡の姿はそこになく、どことなく不安な気持ちになった。
     呼び鈴を鳴らすこともなく早足で玄関を開ける。靴を脱いでいると、見慣れない男が奥からやってきた。二十代くらいだろうか、大きなどんぐり眼と凛々しい眉毛が伊作を睨みつけている。険悪な表情と、使い込まれた白い割烹着がなんともちぐはぐだった。
    「——草原社の編集さん?」
    「あ、はい、草原社の善法寺です。すみません勝手に入ってしまって、ついいつものクセで。——あの、雑渡先生のおうちの方で?」
    慌てて取り出した名刺を受け取りもせず、男は半身をひねって、階段越しに二階へ呼びかけた。
    「組頭ーッ、編集さんいらっしゃいましたよーッ」
    「く、くみ……?」
     聞き慣れない単語にうろたえる伊作を尻目に、返事のないことを訝しんだ男は軽い身のこなしで階段を駆け上がり、姿を消した。
     雑渡が以前言っていた、週に二回来るという家政夫さんが彼なのだろうか。それにしては、客人に対して愛想がないような……。内心の動揺を鎮めつつ待っていると、男はやがて姿を現して、心底面白くなさそうな表情で伊作を手招いた。
    「二階の書斎にお越しいただきたいとのことです。こちらへどうぞ」


     階段を上がった先、突き当りの部屋。襖を開けた伊作の目にまず飛び込んできたのは、そこここに積まれた本の山だった。わずかにあいた隙間から畳の目が見え、和室だとは判明したが、執筆するため以外の生活必需品は何もない。それは、今まで何度も目にしていたモデルルームのような玄関やリビングとは明らかに異なっていて、伊作は初めて血の通った雑渡と相対したような気持ちになった。
     初めて足を踏み入れる書斎をキョロキョロと見回していると、積まれた本の谷間になっている場所、おそらく部屋の中央から聞き慣れた声がした。
    「やぁ。すまないね、急に呼びつけた上に出迎えもせず」
    「いえ……失礼、いたします」
     文机に座布団という昭和にタイムスリップしたような格好で、雑渡は頭を掻いた。以前会った時よりも明らかにやつれているし、目の下の隈もすごい。
     伊作はどうにかこうにか隙間を作って雑渡の対面に正座し、
    「雑渡先生、どうされたんです? そんなにお痩せになって……。ちゃんとごはん食べてますか?」
    「それがねぇ……」
    「くみがし、雑渡先生のお食事は、私がきちんとお作りしていますのでお気になさらずっ」
     トゲのある声に振り向けば、襖の向こう、廊下に割烹着の男が立っていた。お盆に乗せた二人分のお茶を持っている。
    「やめなさい尊奈門、大事なお客様だぞ。すまない伊作くん、お茶を受け取ってもらえるかな。彼にはこの部屋にだけは絶対に入るなと言いつけてあるんだ」
     これでも従順で器用なハウスキーパーなんだよハハ、と笑う目元はやはり弱々しい。
     得意げに小鼻を膨らませ始めた男——尊奈門からお茶を受け取った伊作は、改めて雑渡に向き合った。
    「それで、どうされたんですか、今日は」
    「うん。ここ数カ月、ずっとプロットを考えていたじゃない」
    「ええ、編集長にももう少しだから期待してと伝えていて」
    「やっぱり、面白くないなと思ったの」
    「え……」
     伊作はしばらく絶句した。何か、何か対抗策を考えなくてはいけない。
    「この作品はつまらない」「価値がない」。作家ならずとも、何かを創作したことのある人間なら一度は陥る思考だ。少なくとも、伊作はそうだった。
     だから伊作は、とにかく雑渡を励まし、顔を上げさせようとした。
     あなたには才能がある、確かな文章力と構成力がある、トリックだって緻密だ、確かに部数的には伸び悩んでいるけれどもぼくだって編集長だってあなたを売り出したいと思っている、書けないわけじゃなくて不運だっただけだ、不運といえばぼくさっきこんなことがありまして——。
     気づけば、握りしめた手の中はねばついた汗でじっとりと濡れていた——忌むべき記憶となった、あの時のように。
    「だからそんなことおっしゃらないで」
    「いや、違うんだ」
     機関銃のようにしゃべる伊作を、雑渡は芯のある、しかし柔らかな声で遮った。
    「誤解させてしまってすまない、だから書けないとか、だから書かないとかじゃないんだ。現状の展開もトリックも気に入っている。ただ」
    「ただ?」
     思い詰めた表情で、雑渡はゆっくりと息をはいた。
    「主人公が、どうにも動かないんだ」
    「へっ」
     思ったより真っ当な意見に、伊作は勢いを削がれた。雑渡は伏し目がちに続ける。
    「伊作くんもわかっていたんじゃないかな? わたしの作品に、読者を惹きつけ続ける、魅力がないってこと」
    「そんな——」
     今度こそ伊作はフリーズした。
     薄々気づいてはいた。雑渡の作り出すキャラクターたちには、人間の温かみがない。深みがない。ただしそれはロジカルな本格ミステリにとって、決して不利ではないと、だから言わなかった。素通りしていた。気づかない、ふりをしていた。
    「そこでお願いなんだが」
     何も言えないでいる伊作に、雑渡は何かを決意した面持ちで向き合った。
    「きみを、モデルにさせてもらえないだろうか」
    「……ぼくを?」
    「うん、きみでなければダメなんだ」
     そう言って雑渡は、A4サイズの一枚の紙を取り出した。何度も書いては消し、書いては消したのだろう、あちこちに鉛筆の黒ずみができ、紙の端々もよれてしまっている。
     そこには、善光寺伊作によく似た造形のキャラクター“善光寺伊織”に関する細かいメモが、ぎっしりと書き込まれていた。社会人になったばかりの青年、薄茶の髪に穏やかな笑み、なぜか不運に巻き込まれる運命の持ち主。とぼけた、味わい深い簡単なイラストや、ざっくりと練られた年表などから、雑渡の本気度が伝わってきた。

     明るくて優しくて、どんな人間にも別け隔てなく接する主人公——。
     つまりそれは、雑渡が抱く伊作のイメージそのものなわけで。

    「事後承諾になってしまってすまない。だけど、きみを——善光寺伊織を主人公にしようと考えついたところから、するすると物語が動き出してしまって、止まらない。こんなこと今までなかったんだ。わたしは初めて、自分が書きたいと思う人間に出会ったんだと、そう気づいた」
     なんのてらいもなく話す雑渡の表情は、疲れているとはいえ今までになく明るく、充実感にあふれていた。暗い隈に囲まれた瞳でさえキラキラと輝いて見える。
    「ぼくを……ぼくは……。——それで、雑渡先生が書けるとおっしゃるなら、問題はありませんが」
     ただ、なぜぼくを。ためらいがちに目を伏せると、雑渡は途端に居住まいを正した。丸めがちの背を伸ばすだけで、雑渡は随分と大きく見える。つられて伊作も背筋を伸ばした。
    「ここ数カ月、きみは編集者として、それから一人の人間として、本当によくやってくれた。編集としてはほぼ未経験だとは聞いていたが、こんなに頼もしいとは思わなかった。礼を言うよ——ありがとう」
    「いえ、そんな。当然のことです」
     もうとっくに見慣れた、火傷跡が残る薄い唇を少し緩ませて、雑渡は自嘲気味に笑った。
    「そうだね。編集者としては——会社員としては、当然なのかもしれない。でも、本当に有難く思っているんだよ。作家と編集者は、一蓮托生に思えてその実は異なる。それはそうさ、作品が売れても売れなくても一定のサラリーが懐に入る出版社付きの編集者と、売れなければ見放されておしまいの作家の立場が、同じであるわけがないのだから」

    (きみは——失礼だがまだ若い、あまり経験値もないだろう。わたしを踏み台にステップアップするぐらいの気持ちでいいんだよ。売れたら編集者の、売れなかったら作家のせい、それぐらいで接してくれればいいから)

     伊作は反射的に、初めてこの家のリビングで雑渡と話した時のことを思い出していた。あの時も雑渡は似たようなことを言っていたはずだ。
     あくまで淡々と、雑渡は続ける。
    「ひねくれた考えのせいで、随分誰に対しても他人行儀になってしまってね。作家といえば偏屈などと言うチャチなイメージには収まりたくなかったのだが、どうにもうまくいかないものだ」
    「いえ、そんな」
     黙って聞いていた伊作は、さえぎるように声をあげた。
    「雑渡先生はとてもお優しいです。電話だってメールだって常識的でしたし、礼儀正しいですし、偏屈だなんて、思ったことありません」
    「最初はどうだった?」
     ぐ、と詰まる。
     慇懃な態度でやんわりとコーティングされた、分厚い壁のような拒絶の言葉。味のない紅茶と、砂のようなバウムクーヘンの食感。
     顔色を失った伊作を見て、雑渡はこらえきれずに吹き出した。
    「ほら、隠し事ができない。そういうところ、きみは編集者に向いてないね」
     声をあげてひとしきり笑った後、雑渡は伊作の目を覗き込むように首を傾げた。
    「あの時は悪かったね。わたしは——他人に何かを期待することが、どうしてもできなくて」
     ぽつりとこぼす唇が歪み、火傷の跡が痛ましく引きつった。雑渡は視線を落とす。
    「伊作くんは、わたしの前職を知っているかな」
    「いえ——あの、はい。過去作のプロフィールでは、会社員だったかと。ネットでは、清掃の会社だと書いてある記事も見かけましたが」
     唐突な問いかけに、伊作はしどろもどろに返した。作家の人生など、よほどの売れっ子か話題の人間でなければ、そんじょそこらに詳しい情報など落ちていない。
    「うん。まあ、間違いではないんだけれどね。実際は、もう少し複雑でね」
     少しずつ語られた雑渡の半生は、伊作が想像しうる限り作家とは最もかけ離れたものだった。


     荒れた家に育った雑渡は、半ば辞めるように中学校を卒業した後、当然のように暴力的な組織に身を委ねた。体力も、世間への鬱屈も有り余っており、当時は随分暴れていたなと、雑渡は苦笑した。どこからかたばこを取り出して、手慣れた動作で火を付ける。二人の間を取り持つように、紫煙が揺れた。
    「つまらない話だから省くけど——まあ、才能、みたいなものがあったのかもしれないね。次第に表から引っ込んで、影で働くようになったんだ。だから、“清掃員”という情報もあながち間違いじゃないんだよ」
     どこから漏れるんだろうねぇ。困ったように笑う雑渡に、伊作の胸はギュッと掴まれた。
     いわゆる筋もの。そう聞いても、伊作は不思議と衝撃も嫌悪も感じなかった。確かに少し驚きはしたが、今までの短い付き合いの中でも、雑渡がヤワな人生を送ってきた男では決してないだろうことはわかっていた。
     何気ないたたずまい、時折見せる鋭利なまなざし、隙のない身のこなし。モデルルームかと思うくらい殺風景な玄関やリビングも、もしかしたら“清掃員”時代の名残なのかもしれない。
    「そこから、どうして作家に?」当然の流れで伊作は尋ねた。
    「月並みな話さ。ちょっとしたことから本を読むようになって——ちょっとしたことで、自分でも書いてみて。最初は全く書けなかったな。てにをはの使い方さえ危うくて、中学生が書いた方がまだうまい、そんな代物だった」
     まだ全ては話せない、だけど少しずつ聞いてほしい。自らの過去をえぐるように話す雑渡からは、もはや壁など一ミリも感じられなかった。
    「それでも、一文字一文字言葉を重ねるたびに、空っぽだった自分が満たされていくのを感じた。ミステリを選んだのは——それが一番好きなジャンルだからだというのもあったんだけど——トリックを考えつく時に、いかに気付かれないように人を屠るか、って、“清掃員”時代の経験が生かされたんだよね。このご時世、銃やら刃物やらで正面からカチ込んで終わりにはなかなかできないんだよ、あの業界も」
     今思うと、内情を知っている分任侠モノとかバイオレンス作家になった方が売れたのかもしれないね。困ったように笑って、雑渡は何本目かもわからないたばこに火をつけた。
    静かに聞いていた伊作も、思い出したように湯飲みに手を伸ばす。知らぬ間に唇がカラカラに乾いていた。
    「雑渡先生は今は、その——組織、とは」
    「はは、すっぱりと手を切ったから安心して。ああそうだ、尊奈門がいるからすっぱりというわけではないな。彼は家政夫兼、わたしのお目付役といったところだ」
     そういうわりに、尊奈門は雑渡を慕っていた気がするが。首を傾げながら、伊作は気になっていたことを口にした。
    「尊奈門さんが監視役だとしても、そういう組織とか団体って、なかなか抜けられないものじゃないんですか」
    「そうだね。……うん、それなりの犠牲は払ったから」
     雑渡はたばこの灰を軽く落としてから、煌々と火の灯るそれをゆっくりと顔に近づけた。
     ぐるり包帯が巻かれた左半分に、ほのかに影が落ちる。
    「事実は小説より奇なりとはいうけど——なかなか得難い経験だったよ。ふふ」
     伊作の持つあらゆる想像力を持ってしても思い描けない闇の世界。薄暗い過去を思い浮かべているのだろう雑渡の表情には苦悶も煩悶もなく、むしろ恍惚とすらしている。
     初めて伊作の背筋にぞわり、冷たいものが這った。
     雑渡は静かにたばこを灰皿に押し付け、何事もなかったように続けた。
    「まあ、そんなわけで私は今、売れない作家としてここにいるわけだ。幸か不幸か、金は困らない程度にあったから、デビューと同時にこの家を購入してしまってね。まさに背水の陣というわけさ」
     長い話を終えた雑渡は、深い息を吐いた。

     誰にでも話せる内容ではない。正直言って、重い話だ。そんな生い立ちを聞いた伊作は複雑な心境だった。編集者として信頼してくれるのはうれしい。心を開いてくれるのはうれしい。特別扱いはなおのことうれしい。
     でも、どうして自分に——。

    (ぼくはまだ、雑渡先生に正面から向き合っていないのに)

    「すまないね、こんな話。長い上につまらなかったろう」
     無意識に俯いていた伊作は、ハッとして顔を上げた。
    「いえ、そんな」
    「くどくどと話した理由の一つ目は、わたしの作品の登場人物に生き生きとしたキャラがいないのは、こんなバックボーンに関係があるんじゃないかと思ったから」
     淡々と、男は続ける。雑渡が他人事のように話せば話すほど、伊作の胸はかきむしられるようだった。
    「二つ目は、伊作くんには——何でかな、わたしのこと、全部知って欲しいと思ったんだ」
     綺麗なきみの耳には、まだ入れたくないことも多いけど。そうして雑渡はニッコリと笑った。まるで少年のような無邪気さに、伊作の目は思わず惹きつけられた。
    「雑渡先生」
    「わたしはね、初めて変わりたいと思ったんだよ。今まで誰も信じられなかった。誰にも期待できなかった。恥ずかしながら、あの組織を抜けてからも、ずっと。でも、きみに出会ってしまった」
     雑渡は正面から伊作を見据えた。
    「今さらきみみたいに生きられるとは思わない。だけど、きみと一緒にいれば——きみとともに作品が作ることができれば、わたしも少しは変われるんじゃないかと思うんだ。そうすれば、血の通った人間が書けるんじゃないかと、そう思うんだ」
    「雑渡先生、そんな」
    「大丈夫。負担に思わないで、これ以上きみに何かをしてもらいたいんじゃない。さっきも言ったが、わたしはきみに出会って、初めて自分が書きたいと思う人間のイメージを持てたんだ。これで何の迷いもなく、三作目に取り掛かれる。万一作家としての最後の作品になったとしても悔いのない、それでいて世間的にも売れる作品に仕上げてみせる」
     だから、その時は。

     真摯な眼差し。決して大きくないのに、力強く響く声。
     もうその全てから、伊作は目をそらすことができない。

    「その時は、私のことを一人の男としてみてくれないだろうか。作家の——“雑渡先生”としてではなく、ただの、雑渡昆奈門として」



    「——い、おい、善法寺」
     聞き慣れたダミ声で我に返った。デスクに向かっていた体ごと振り向くと、すぐ後ろに怪訝そうな表情の編集長が立っていた。
    「どうした。赤ペンにじんでんぞ」
    「わっ」
     慌てて右手を動かす。伊作愛用の手帳の上に、水性ペンの真っ赤なシミが広がっていた。
    「ゲラは汚すんじゃねぇぞ〜」
     言い放って自席に向かう編集長を目だけで追いかけて、伊作は何度目かわからないため息をついた。

     昨日、雑渡に愛の告白とも取れる言葉を告げられてから。
     あの後、どうやって帰ったか伊作は覚えていない。

     これでまた雑渡先生の作風が広がりますね、読み手に愛される主人公を作り出せたらきっと売れますよ、ぼくがお役に立てたのであれば編集としてこんなにうれしいことはありません、プロットができましたらお送りいただけますか——咄嗟にそんな、毒にも薬にもならないような言葉を返してしまった。
     雑渡は否定も肯定もせず、穏やかに「突然すまなかったね」と言った。それから、「いつまでも待つから、ゆっくり考えてくれればいい」とも。
     混乱した頭ではその言葉に甘えるしかなく、それからももにゃもにゃと役に立たない言葉を連ねて、うやむやのうちに書斎を飛び出した。ような、気がする。そのあたりからまったく覚えていない。

    (ぼくはまだ——足を踏み入れる勇気がない)

     雑渡はあんなにも、心を開いて見せてくれたというのに。
     心の柔らかいところを、血に染まった手のひらで、引きずり出すように見せてくれたというのに。
     手帳に浮かぶ赤いシミを見つめながら、伊作はいつまでも逡巡する。

     それから一カ月もしないうちに、雑渡からプロットが送られてきた。主人公の造形を大幅に変えたため、周囲のキャラクターたちも微妙に調整が入ったが、もともと決めていた大まかな流れやトリックはそのまま使われており、スムーズにまとまっている。
     編集長からの一発OKを受け、伊作は返信を打つためにメーラーを立ち上げた。
     あの書斎でのやり取り以降、なんとはなしにメールが主な伝達手段として定着していた。伊作から雑渡の家に出かけることはなくなったし、雑渡も伊作を呼び寄せることはしない。
     顔を合わせずに済むことにホッとするかたわら、それが少しだけ、寂しいと思う気持ちもあって。
    (何を言っているんだ、都合のいい。ぐずぐずして、なんの返事もしていないくせに)
     頭を振ってキーボードを叩き始める。

    --------------------------------------------------------------
    雑渡先生
    お世話になっております、草原社文芸編集部の善法寺です。
    先日はプロットをありがとうございました。
    早速拝見しまして、まったく問題ございません。
    編集長もぼくもとても楽しみにしております。こちらでおすすめください。
    --------------------------------------------------------------
     あくまで編集者としての一方的な業務的連絡。雑渡からの返信はすぐにきた。
    --------------------------------------------------------------
    伊作くん
    ありがとう。原稿ができたらまた連絡します。
    --------------------------------------------------------------
     宛名が「善法寺さま」に戻っていないことだけ確認して、伊作は深く息をついた。少なくともまだ、雑渡は伊作を見限ってはいないようだ。


     夏が過ぎ、秋がきた。
     秋が過ぎ、冬がきた。

     伊作の迷いなどお構いなく、季節は飛ぶように過ぎた。雑渡は筆が乗っているようで、ほぼ連絡をよこさず執筆に専念している。時折、思い出したように簡潔な進捗報告メールが届いて、伊作もそれに無難な返しをするのみだった。
     伊作は伊作で新たな作家を三人担当することになり、てんてこ舞いになっていた。雑渡とのやり取りを見守っていた編集長が、問題なしと判断し、伊作もそれを受け入れたのだ。偶然か編集長の計らいか幸いいずれの作家も年が近く、手がかからない常識人ばかりで、伊作は多忙の中にも充実感を見出していた。
     少しずつ、少しずつ、編集としての自信と、経験値を上げる日々。
     雑渡からの告白を忘れたわけでも、うやむやにしようとしたわけでもないが、すぐに答えを出さなくても良い、雑渡先生ならわかってくれる、そう、自分を甘やかす気持ちはどこかにあった。
     だから、いざ完成原稿が届いたとき、伊作はどうしたらいいかわからなくなってしまった。

    --------------------------------------------------------------
    伊作くん
    無沙汰していてすまない。息災かな。
    ようやく出来た。誰よりもまず、君に読んでほしい。
    --------------------------------------------------------------

     青天の霹靂。窓から槍。
     夕暮れ近い社内は、これからの時間が勝負とばかりに活気に満ちている。かたやデスクで企画書を作成していた伊作は、一瞬フリーズしたあとですべての作業を中断した。
     震える指で添付ファイルを開く。出力する間も惜しまれて、データ上で目を走らせた。
     一行目に書かれていたのは「夏翳の君」。数カ月前、二人で決めたタイトルだった。二行目に書かれていた「雑渡昆奈門」の署名に密かに頭を下げてから、伊作は物語の世界へ没入していった。

     主人公の善光寺伊織は、誰からも愛される好青年。しかし、なぜか人に優しくすればするほど、自分に不幸が降りかかる体質の持ち主だった。闇の世界で生きる青年・雑賀——それはまるで、伊作がよく知る誰かのようだった——は、とある事件がきっかけで伊織と知り合い、不運体質を利用した連続殺人事件を計画する。
     過去の2作よりもサスペンス色の強いミステリだが、伊織と雑賀の奇妙な絆が作品世界に深みを持たせている。伊織の生き生きとした表情、老若男女を分け隔てなく扱い、親切にすればするほど自らがババを引くとわかっていても厄介ごとに飛び込んでいくお節介な性格、どこまでも献身的な姿を頭の中で描きながら、伊作はかつて、雑渡と二人三脚でプロットを作っていた頃を思い出していた。
     艶やかな木々の緑、強い日差しを受けて長く伸びる影、麦茶の中で軽やかに鳴る氷。そして、ベランダでたばこをくゆらせながら、伊作に向かって手を振る雑渡。
     たった数カ月前が、はるか昔に感じられる。

     伊作は他の業務をすべて後回しにして、夢中で画面を追った。スクロールする指がもどかしい。「善法寺さん、あと戸締りお願いしますね」。誰かの声が聞こえたところで、ようやく伊作は深い時間になっていることに気づいた。社内泊を覚悟して画面に集中し直す。

     中盤から、物語は雑賀を主軸に動き出す。伊織の善意につけ込んで、密かに計画を実行していく雑賀。連日報道される不可解な殺人事件は、次第に伊織の関係者まで巻き込んでいく。そして伊織は偶然の出来事から、自分が知らぬ間に犯罪の片棒を担いでいることに気づき絶望する。雑賀の狙い通り、計画は完全犯罪一歩手前まで進行するが、伊織の純粋さが雑賀を破滅へと導く。そして——。

     すべて読み終えた瞬間、一筋の涙が伊作の頬を伝った。
     作中で善のシンボルとして描かれている伊織は、その身を犠牲にして、雑賀の心の闇を取り払う。対して悪そのものの雑賀は、伊織を失った悲しみを背負い、いっときは改心しようとするが、結局は孤独なままで生き続ける選択をする。
     大まかな流れは前もって知っていたとはいえ、そのラストは、胸をかきむしりたくなるほどに切ないものだった。雑渡が魂を削って書いた、執念そのものがこの「夏翳の君」なのだと、痛いくらいに伝わってきた。
     伊作は静かに涙をこぼし続けた。ただしそれは、結末から受けた感動からではなかった。

     あまりにも純真な主人公。これがぼくだと?

    (雑渡さんはぼくを買いかぶりすぎている)
     甘やかしすぎている。良く見すぎている。どうしてあの人はこんなにも、優しいのだろう。
     罪悪感に押しつぶされそうになり、伊作は誰もいない社内で一人、いつまでもうなだれていた。



     およそ一週間後。空一面を分厚い雲が覆い、その年初めての雪が降るだの降らないだのと、人々がざわめいていた夕方のこと。
     草原社の応接室には、不穏な空気が流れていた。
    「伊作くんに。善法寺くんにお会いしたいと申し上げているのですが」
    「すみませんねぇ雑渡センセ。あいつも別の作家の面倒で手一杯のようで。アポなく来ていただいたところで、そりゃあ会えませんわな」
     冷めきった茶の乗ったテーブルを挟んで対峙するのは、不機嫌さを隠さない雑渡と、柳に風の編集長。
     雑渡はよそゆきのスーツからタバコを取り出しかけ、黄ばんだ「禁煙」の紙を見て元に戻し、ソファに勢いよく沈みこんだ。ヤクザさながらの乱暴な仕草に、年季の入ったソファが情けない音を立てた。
    「だから何度も何度も電話を入れたでしょう。取り合わなかったのはそっちだ。こっちだって、何もこんな冷え込む日に押しかけたくはなかったさ」
    「そんなことおっしゃられても」
    「いいから伊作くんを出してよ。ウソなんでしょう? 急にメール一通で“担当を降ります”なんて、言われたところで信じるわけないじゃない」
    「……ウソじゃないですよ」
     静かにつぶやいて、編集長は一度立ち上がって部屋を出て、すぐに戻ってきた。その手には使い込まれた灰皿。二人の間に置いてからソファに座りなおし、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。まずそうに煙を吸い込む。
    「ホントに。ウソじゃないんです」右手に持っていたライターを雑渡に投げた。
    「善法寺から、何も聞いていませんか」
     ライターをキャッチする雑渡の前で、編集長は「禁煙」の張り紙に思い切り煙を吹き付けた。毒気を抜かれた雑渡は、黙ったまま自分のタバコを取り出す。しばしの沈黙の中で、煙だけが自由だ。
     先に口を開いたのは編集長だった。
    「あいつ、いいやつでしょ。真面目で、熱心で、健気で」
     かわいい部下を心底誇りに思っている。雑渡は迷うことなく肯定した。
    「ええ、とても。とても、助けられました」
    「うん。だから昔——って言っても2年も経ってないけど——それがアダになっちゃって」
     遠い目をした編集長が、灰皿にタバコの灰を落とした。
    「善法寺をつけるって連絡入れたとき、編集者としての経験は少ないって言いましたよね。実際、雑渡センセで二人目なんです、あいつが担当ついたの。一人目は……まあ、名前は出さないでおきますけど、どうにか売り出したいってカンジの若手で。賞とってデビューして、何作か出してるけどなんでか売れない、そんな作家でした」
    「……驚いたな、まるでよく知る誰かのようだ」
     ははは。乾いた笑いとともに、編集長はタバコを灰皿でもみ消した。すかさず新たな一本を取り出す。雑渡は無言でライターの火を近づけた。
    「ああ、すみませんねぇ作家先生に。そう——あの作家と雑渡センセはよく似てる。申し訳ないが、実はあいつを担当にしたのは、そこに狙いがあったんです。あいつは自信をなくしていた。簡単に言やトラウマになっていた」
    「というと?」
    「最初の作家がね、自傷したんです。善法寺がきっかけで」
     雑渡は絶句した。応接室に静寂が立ち込めた。奇しくもそれは、伊作が雑渡の生い立ちを聞いた時の静けさとよく似ていた。
    「……もちろん、あいつが悪いわけじゃないですよ。ただなんていうか、あいつは優しすぎた。真面目すぎた、熱心すぎた、健気すぎた。それこそ、今の比じゃないくらいに。ああ、これは別に、最初の作家を贔屓してるって話じゃないんで、悪く思わないでくださいよ」
     顔には出していないつもりだったが、ムッとしていたようだ。雑渡は意識して深い呼吸を繰り返した。
     遠い目をしたまま、伊作の上司は語り続ける。
    「なんていうんですかね。それで作家の方が、勘違いしちゃって。まあねぇ、典型的なモテない男でしたから、慣れてなかったんでしょうね。しかもデビューしたはいいものの、あがいてもあがいても未来は見えない。そんな時に優しく支えられて励まされて、舞い上がっちまったんでしょうね。好きだのなんだのもないまま、あいつの気持ちも確かめないまま、なし崩し的に善法寺を自分の……そうだな、所有物だと勘違いしてしまった」
     雑渡は黙ったまま話を聞いていた。伊作はどれだけ男を惑わす天才なのかと、嫉妬の混じった目線は、話を聞くうちに虚ろになって宙に消えていった。まるで自分の心理をトレースしたような話に、途中からは共感し、同情すら覚えていた。
     それが最後の言葉で完全にひっくり返った。
    「聞き捨てならないな。所有物とは?」
    「本人がいないところで話すのもナンですがね。最初はまだマシだったんです。打ち合わせのときに、対面じゃなく隣の席を選んでぴったり密着して座ったり、メシ作らせて手ずから食べさせるようごねたり、ペンやらマグカップやら、伊作の私物を持ち込ませた上で自分が使ったり、終電間際に呼びつけて無理やり泊まらせたり——これがマシって、俺もだいぶやられてんすかね」
    「よくもまぁポンポン出てきますね。全てれっきとしたハラスメントでしょう。会社は何をやってたんです」
    「……言い訳する訳じゃあないが、善法寺も善法寺で、不運だったというか、間が悪かったんです。初めての担当作家で、どこまで対応すればいいかわからなかった。だから、それが当然だと思い込んで黙ってニコニコ従っていた。ただ、書きたいものを存分に書いて欲しい一念で、無茶な希望にも応え続けてしまったんです。——俺が気づいた時にはもう、その作家は、あいつがいないと精神が崩壊する寸前のところまでいっちまってた」
     眉間に皺を寄せて、男は吐き出すように続けた。
    「最終的には24時間、365日、朝から晩まで常に自分の傍らにいることを強要した。この頃にはさすがにヤバイとわかってたんで、俺は猛抗議したんです。善法寺にはあいつと会うのを徹底的に禁じたし、家に帰らせるのも危険だったから、しばらく社内で寝泊りさせたりして。すごかったですよ、鬼のような電話メールに、執拗な嫌がらせ。会社には何回も乗り込まれました。今のあなたみたいにね」
     雑渡は変なところで納得していた。急に押しかけてもビクともしない編集長に苛立っていたのだが、まさか経験済みだったとは。
     裏の世界とはまた種類の異なる地獄もあるものだと、雑渡は妙なところで感心した。
    「何度も何度も説明したけど、聞いちゃくれませんでした。らちが明かないので、善法寺を担当から外すと伝えた。その数時間後でしたよ、ヤツが手首を切ったのは」
     あの時の善法寺は見てられなかったなぁ。ポツリと言う。
    「病院からの電話をとっちまったのが善法寺だった。どこまでも不運なやつですよ、真っ青になってガタガタ震えて。泣くこともできずに、じっと俺を見つめるんです。不憫でしたわ」
     雑渡の目がほんの少し細められた。もはやその作家に対する同情など微塵も残っていない。あるのは純粋な怒り。自分の大切な伊作を困らせ、傷つけ、あろうことか消えない傷を残したその男への怒り。
     何も言わない雑渡を気にしながらも、編集長は最後まで話しきった。
    「ほんとに、よく辞めなかったと思ってます。だから、それからしばらく落ち着くまで、コピー取りやら資料集めやらやらせてたんです。んで、頃合いを見計らってつけたのが雑渡先生ってわけ」
     黙り込んでいる雑渡の態度を勘違いしたのか、編集長は「その作家、一命はとりとめてるんで安心してください。まあ、今どこでどうやって生きてるのか、さっぱりわかりゃしないけど」と見当違いのフォローをした。
    (その男が生きていようがいまいが、そんなことはどうだっていい)
     雑渡は思った。
     なんなら、今からでも探し出して天罰を下したい。自分ひとりで探し出せないなら、尊奈門を介してかつてのツテをたどったっていい。それぐらい、腸が煮えくり返っていた。
     物騒なことを考えながらも雑渡はふと、先日脱稿した「夏翳の君」を思い出した。

     雑渡は伊作を、この世の善そのものだと思っていたし、そのイメージは話を聞いた今でも変わっていない。
     だから、その想いを作中の“善光寺伊織”に託した。地べたを這って生きてきたような雑渡——雑賀——とは正反対の、汚れなき無垢な存在だと、思ったままに書き連ねた。
     しかし。
    「それじゃあ」
     ある可能性に思い至って、雑渡は絞り出すように声を出した。
    「それじゃあ、わたしがやったことは」

    「夏翳の君」では、全き善である善光寺伊織が、自らの生を投げ打って雑賀を正義へと導く。それは伊作の存在によって救済された、雑渡自身の魂の昇華だった。書くことで、伊作へ感謝と、自分の恋慕の情を伝えたかった。
     伊作はそれを読んだ。そして、自分の担当を外れた。

    「わたしは、伊作くんの傷をほじくり返し、トラウマの扉を開いただけだったのでしょうか」

     夜の森を思わせる声だった。応接室に再び静寂が満ちた。
     今ならわかる。なんと重荷だったろう。過去をいやというほど思い出して、でも雑渡のことを無碍にできるほど非情じゃなくて、だからこそ辛かったことだろう。
     誰よりも優しくて、思いやりのある伊作だから、なおさら。

    -----------------------------------------------------------7/30(金)更新分ココマデ
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    genko_gorilla

    MAIKING雑伊で現パロ(作家と編集)。
    長文や会話練習、体力づくりを目的に、毎週更新→ある程度まとまったら整えて支部にアップを予定しています。毎金曜目安。秋までに書ききりたい。ファイト自分。

    ・支部にアップする際に大幅加筆・修正の可能性があります
    ・誤字脱字因果関係の齟齬もその段階で直しますので見逃してください
    ・週刊漫画誌のネーム連載とか許せない方には向いてないです
    ・これは雑伊なのか?
    タイトル未定(作家と編集)★8/22追記 Pixivにて完成版を掲載しました!★
    みなさんからのリアクション(絵文字)を消すのが忍びないので、
    こちらのポイピク版はこのまま残させてもらいます〜




     編集長に声をかけられたのは、あるうららかな春の昼下がりだった。
    「善法寺、お前そろそろ担当つくか」
     薄汚れた社内の廊下。切れかかった蛍光灯が、ぢりぢりと小さな音を立てている。企画書のコピーとゲラの束を抱え、会議室に走っていた伊作は、すれ違い様の唐突な申し出につんのめりそうになった。
    「担当……ですか?」
    「うん。文芸編集部に入ったからには、やっぱり作家の一人や二人担当してなんぼだろ。お前、今月で二年目に入ったよな?」
    「はい」
    「じゃ、そろそろいいだろ。いい加減雑用だけで給料もらうにも飽きた頃だろうし」
    20414

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