消毒液の匂いふわふわと意識が浮上したときには、最後に聞こえた類の声は聞こえてこなかった。
左手の甲に感じる違和感と、出来ればもう嗅ぎたくなかった慣れた消毒液の匂い、そして腹から感じる鈍く重い痛み。
不思議なくらい重いまぶたを開ければ、目に入ったのは知らない天井とカーテンレールの暗い部屋だ。
天井の消えた電気を視認できるくらいには入ってくる光は、窓の向こうから射し込んでいるようだ。
首だけを動かして辺りを見渡す。
右側には窓、外は夜のようで、月明かりと街の明かりがこの部屋へ入ってきていた。
左側に首をまた倒せば、次に目に入るのは見知った者たち。
「……き、ぇむ、ね、ね……る……ぃ」
壁際に丸いすを三つ並べて座っているのは順にえむ、咲希、寧々だ。
真ん中の咲希に二人は頭を預けて、二人より背が高い咲希はえむ側に傾いて眠っていた。
そんな三人から少し離れたところ、もう少しオレに近い場所に丸いすを置いて類が船を漕いでいた。
無意識にみんなの名前を呼んで、その声で声が掠れて上手く出ないことに気づく。
そしてその声に気づいた類が顔を上げた。
「……あ。つ、かさくん?」
「る、い」
顔を上げた類の目がいつもより高いところにある。
その目線の差でようやっと気づいた。
オレは恐らくベッドに寝かされていることに。
部屋の形とベッド、カーテンレール、消毒液の匂い、きっとここは病室であることに。
病室は、慣れている。
でも、病室の主はいつも咲希であるのに、その咲希はえむと寧々と眠っている。
そしてベッドに寝かされているのはオレだ。
自分の中の『いつも』と違う光景に混乱していると、掛け布団の下にあった左手を類が掬いあげた。
点滴と繋がっているようで、針の刺さった手の甲に触らないよう、類は優しくオレの手を握り、小さく言った。
「よかった……」
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オレが今現在どうしてこういった状況になっているのか理解出来たのは次の日の朝になってからだった。
明るくなりはじめてからステージ上で起こったことをようやく飲み込めて、もう少し日が高くなったころ眠っていた女子三人が目を覚ました。
えむはわんわん泣きわめくし、寧々はオレを睨みつけ続けるが、絶対にオレの手を離してくれない。
一番堪えたのは咲希だ。
えむのように声をあげたりはぜず、寧々のようにオレに視線で訴えることもない。
ただただ俯いて唇を噛んで、いつもふわふわにカールするツインテールがぐしゃぐしゃになっているのにも、メイクが涙で落ちるのも気にせず、ずっと涙をこぼし続けていた。
その静かに流す涙がなによりも申し訳なくて。
まだ上手く動いてくれない体じゃ、この三人の頭を撫でて慰めてやることもできない。
三人の反応で、どれだけ自分が無茶をやったのかようやく分かった気がした。
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『今日、もう一人連れてそっち行ってもいい?』
寧々から連絡が入ったのはあれから数日後の事だ。
傷は深かったが、ギリギリで内臓が傷つくことはなく、とりあえずオレはベッドで安静にしているほかなかった。
まだ起き上がると痛いので、寝転がったまま返信を打つ。
『寧々とえむと類とあと一人ってことか?』
『いや、えむはお兄さんたちに呼ばれてるって。類は何やったかわかんないけど先生に呼び出されてる。今日はわたしともう一人だけ』
『なにをやったんだアイツは……』
『ただの委員会の話かもだけどね』
『来るのは構わんがそのもう一人はだれなんだ?』
『それは秘密。あと一時間後位に着くようにするから』
そしてきっかり一時間後、コンコン、とドアがノックされた。
どーぞー、と間の抜けた声で返事をすると、そこには予想通り寧々。
「やっほ。ちょっと顔色良くなった?」
「体調はもうほぼいいからな。……で、もう一人は?」
ん、と返事をして、スライド式のドアを寧々がいっぱいまで開ける。
「こんにちは、天馬さん」
「せ、青龍院っ!? ……いっ」
あまりに予想外な登場に、オレは思わず起き上がりかけて、痛みで顔を顰める。
「バカ、まだ無理しないの」
「これは無理したわけじゃないだろ……」
ゆっくりと背中をベッドに預け直す間に、寧々は丸いすを出して青龍院と座わる。
「にしても、珍しい客人だな」
「あら、私が来たらいけなかったかしら」
「そういうわけじゃない。単純に予想出来なかったからな」
品のいいワンピース姿の青龍院は、オレが普通に会話し始めると、ほっ、と張り詰めていた息を吐くように息を緩ませた。
「あなたたちも同じキャストとして……まあ同僚みたいなものだから。安否確認をとろうと思っただけよ。……なんせあの後酷かったんだから」
「酷かった?」
顔を顰めた青龍院に聞き返すと、寧々と青龍院は困ったように顔を見合わせてから言った。
「……これ、あんたが悪いわけじゃないってことを念頭に聞いて欲しいんだけど」
「あなたが刺されたときのショー、その日の最後の回だったでしょう? だから私も騒ぎを聞いてワンダーステージに行ったのよ。そのときのステージが、ね。……血で真っ赤になってたものだから」
ひゅっ、と喉が鳴った。
自分の血でステージを汚してしまったのだ。
「っ、今のステージは……!」
「大丈夫、あなたのお仲間の鳳さんが完璧に処理の手配をして、今はもういつものステージよ。それより、こういう時はステージの心配じゃなくてご自分の心配をするものよ」
青龍院は優しく笑い、起き上がりかけたオレを制すると、ころりと表情を変え、ムッとした顔で指を一本立てた。
「まったく、本当に大変だったんだから。フェニックスワンダーランドの名前も、あなたの名前も載らなかったけど、テーマパークでキャストが刺されたって全国ニュースになってたのよ。これでフェニックスワンダーランドの名前がでて、迷惑がかかったらどうするおつもり?」
青龍院はその後もつらつらと文句のようなものを並べていたが、それは本心から出たものではなく、オレが無事だと分かった反動であることは、寧々もオレも察していた。