スポットライトの下、ろくろを回せ放っておけない人という風に分類される人間というのは、世の中にいかほどの割合で存在しているのだろうか。少なくとも自分は含まれていないのだろう。よく言えば面倒のかからない人、悪く言えば個人主義。そう言ったように自分が見られていることを、志筑はこの二十数年の人生でぼんやりとではあるが理解している。放っておけない人、というのはつまるところ、魅力的な人間ということだ。どこか危うくて、目を離しておけない。絶対的な何かを持つ、大衆ではない人間。
「……」
スポットライトが当たるなら、きっと彼だと思った。自分の、この退屈な人生の中で光に照らされているのは間違いなく彼だった。初めて会ったとき、美術部のくせにキャンパスに向かわないで一心不乱に何かの図面を描いていた彼を見て、志筑はそう確信したのだ。真摯な横顔が、今でも手に取るように思い出せるのはきっと、あの日から未だ舞台照明は彼だけを馬鹿真面目に追い続けているから。自分に向かない視線が好きだ。他の何も映さないでいる、きれいな瞳が。
「佐野さん」
ごはん、できましたよー、なんて試すように問うてみる。木製の床に胡坐をかいて、ぺたぺたと小刻みに筆を動かしては美しい色を白い陶器に載せていく様子は、まるで自分の人生のようだと思った。彼によって、色が付けられていく。少しずつ、少しずつ世界が鮮やかになっていく。返事はまだない。それでいいのだと思った。もう少し、否、永遠にこのままで。
(俺だけに留めておくのはちょっと勿体ないですけど)
この美しい青年が言うことには、この世界には自分と彼だけでいいのだという。志筑にはそれがいまいち理解できない。こんなに素晴らしいものを持った彼が、自分相手にしかその裁量を発揮しようとしないのは、惜しいと思った。作品は世に出ても、彼のこの高潔な精神を知る人間は決して多くない。この時間も、この横顔も、志筑にだけ。
「……あれ、しゅーさん?」
いつからいたん、と精神と共に浮上した顔が自分を見つめる。ふふ、と思わず漏れた笑みを誤魔化すようにして「ついさっき」と答えた。本当は、お世辞にもついさっきとは言えない時間なのだけれど、そんなことは些末な問題だった。
「それ、何の柄ですか?」
「これ? あーえっと、あれ。青海波」
「せーがいは」
「漢字わかってないでしょ」
青に海に波って書くの、確か。床をなぞって教えてくれる彼に、志筑は「はえー」とわかったのかわかっていないのかあやふやな声を出してみせた。青海波、完璧なバランスで描かれた海は、きっと、美しい青を以て、誰かの食卓を彩るのだろう。青海波はねぇ、と佐野は起伏の読めない声で話を続ける。日の差し込む穏やかな工房で彼の語りを聞くこの時間が、大切で愛おしかった。
「せーがいは、英会話と韻踏めますね」
「ほんとだ。……ベニヤ板も踏める」
「あはは、関連性がまるでないわ」
在宅での仕事生活に、同居人がついてきたのはいつだっただろうか。元より仲の良かった一つ下の友人が、恋人に姿を変えて家に引きずり込んできたのは今となってはもう昔の話である。生来生活能力がない気のあった彼を放っておけずにしばしば面倒を見ていたら、気づけばそうなっていた。いや、もちろんそれなりに形式ばった会話もしたはずなのだけれど。少なくとも自分にとって、関係性の名称だなんてさして重要ではなかったのだろう。おかげで記憶野に残っているのは、いつだって自分を見ていない彼の姿ばかりだ。
「しゅーさん仕事どうなん」
「あえー……まあ、ぼちぼち」
プログラミング関係の仕事をしている男と、職人、それも和食器職人の男が一つ屋根の下住んでいるというのも、はたから見れば結構おかしな話なのだと思う。人の目を気にするような性格では二人ともないけれども、単純に説明が面倒くさくていつも困っていた。前に住んでたアパートが取り壊されたんで、そのまま彼の工房に転がり込んでます、大体その説明で全部済ましているおかげで、志筑はいまだに独り身の人間味のない男として、同業者に扱われることも多い。いつもニコニコしてるからいよいよロボットみたいだよ、と佐野に指摘されたことも少なくなかった。
「何時でも養ってあげるから、早くダメになってよ」
「残念でしたぁ。俺はまだまだ働きまあす」
「その言い方腹立つわー」
くすくす笑いながら役目を終えた食器を下げるべく立ち上がる佐野に、志筑は何気なくついて歩く。どしたん。いやー、心配で。俺のこと何だと思ってんの。続いていく軽口の応酬を引き延ばしながら、シンクに二人して並んだ。今日こそびしゃびしゃにならずに洗うから見とけ、と人差し指を向けてくる佐野に、志筑はわざとらしく距離をとって笑う。ここ数日間成功したことないくせに、どこからその自信がわいてくるのか。呆れながらも止めようとは思わなかった。布巾を手にして、皿を拭いていくポーズをとると、彼もいくらかぎこちなさの残る手つきでスポンジを構える。百均で買った林檎に顔のついたスポンジだからか、ひどく間抜けに見えた。
「リンゴさん、そろそろ買い替え時ですね」
「あー、確かに。俺次はミカンがいいな」
「まだそのシリーズ買うんすか……」
使いにくいんですよ、と不平を垂れれば「えー」と頬を膨らませる。変なとこ子供っぽいなあ、と微笑ましく思いながら「佐野さんだってこの前リンゴさんの目玉におもっきし箸ぶっさしてたでしょ」と追撃すれば、それは、とごにょごにょと言い訳を始めた。別にスポンジなんて顔ついてようがオレンジだろうが全部同じだろうに。物の人間性を大事にする彼は、一つ一つの小物に意思を感じたいらしい。わからんなあ、と内心思いつつも、それを尊重したくて「しゃーないっすね」と譲ることにした。
「その代わり今日はちゃんと濡れ鼠にならんでくださいよ」
「わかってるって! もう余裕よ」
「えー……ほんとですか?」
順調に回されてくる食器類を付近で撫ぜながら、胡乱な目を向けてしまう。頭の中に浮かんだ押すなよ、と連呼するおじさんを必死に振り払った。いや、さすがにね。佐野のことを信じようと茶碗に手をかけたところで、「あ」と声が漏れる。扇形が連なったようなそれは、先刻彼が話していたものだ。
「せーがいは」
「あ、そうそう。よく覚えてたね」
「さすがにさっき話してたことくらい覚えてますよ」
やっぱ綺麗だなーと志筑の手元を見つめながら呟く彼は、やっぱりこう言った食器が好きなのだろうなあ、と思う。綺麗だとは、まあ思わんでもない。けれどもそれは志筑にとって、佐野なしでは考えられなかったことだ。食器は食器。そりゃあ無地よりは何か色があったほうがいいけれど、所詮は料理が主役なのであって皿はあくまでそれを支える存在でしかない、と思っていた。例えばこの大海の模様一つとっても意味があるだなんて、知りえなかったのだ。彼が自分の精神の奥底に根付いてきてしまったことに気が付いて、思わず笑ってしまう。
「何を笑うことがあるん」
「いや、ちょっとね。別に何でもないですよ」
「そう言われると気になるのわかってて言ってるでしょ」
言ってや、と戯れるようにして志筑の肩を掴んで揺さぶる。別に、と曖昧に首を横に振って誤魔化さんとしていると、耳に届く環境音がわずかに変わったような気がした。あれ、これはもしかしてまずいのでは。若干の緊張を以て佐野の手元に目をやれば、案の定そこには気持ちよく羽を伸ばしている水の姿がそこにあった。うわあ、と悲鳴をあげれば佐野も気が付いたのか、大袈裟にのけぞる。さらに水が飛散した。
「……コアンダ効果って、言うらしいっすよ」
「……次は頑張ります」
あからさまにしょげた様子の佐野に志筑は笑いを堪えながら「はい」と答える。ぽんこつやわあ、と茶化して見せれば、ごめんて、と顔を真っ赤にして怒鳴られた。
「ちなみにコアンダってなんなん」
「えー……発見した人の名前じゃないすか。ミランダカーに似てるし」
「美人モデルと一緒にしていいもんじゃないでしょ」
「しゅーさん、牛乳もうない」
「おわ、ほんまや……早くないすか?」
「なんか使ったっけ」
冷蔵庫を開けて二人して中を覗き込む。ぎゅうにゅう、ぎゅうにゅう、と譫言のように呟きながら脳みその中を引っ掻き回せば、白くてとろみのついたそれが脳裏をかすめた。あ、と思わず声が漏れる。同じように記憶を取り戻した佐野と「シチューだ」と顔を見合わせて答え合わせをすると刹那、ピピピと冷蔵庫が文句を言った。ごめんごめん、と冷蔵庫に慌てて謝る佐野をなんだか可笑しく思いながら、どうしましょ、とわかりきった問いを佐野に投げかける。
「どうするって……そんなの買い出し行くしかないでしょ」
「ですよねー……時間、大丈夫ですか? 俺一人でもいいですけど」
「ん、いける」
「じゃあ車出しますね」
鍵どこ置いたっけな、と鼻歌を歌いながら可能性のある場所をいくつか見て回る。二か所目にしてあっさりと見つかったそれを粗雑にポケットに突っ込んで彼を振り返った。行きの運転は志筑が、帰りの運転は佐野が。しばらくの生活で自然と身についた、二人の決まり事だ。こんな山奥誰も来ないだろうけれど、一応戸締りをして、運転席に乗り込む。当たり前と言わんばかりの顔をして隣に座っている彼は、いつ見たって変わらない。
「スーパー遠いとこういう時めんどいわー」
「まー時間はかかりますね。でもいいじゃないっすか、田舎暮らしって感じで」
「いやまあそうだけど……不便よ、やっぱり」
いきなりアイス食べたくなっても、片道三十分てなるとさあ。子供らしい言い分で唇を尖らせていると、いよいよ中学生みたいだと思った。一個下のくせにいつまで経っても若々しく、悪く言えば幼い。そこが良さだと思っているのは自分くらいなのだろうなあ、と不要な感情を抱いて笑えば、彼はさらに不満げに「なにわろとんねん」と低い声を出した。何笑てるんでしょうね。志筑にも正直よくわからない。
「俺は好き、ですよ。……不便な暮らし」
「……さいですか」
「あはは、今ちょっとドキッとしたでしょ」
「そーいうさあ! ほんっと、そういうとこあるのよな!」
わざとらしく好きを強調して見せれば、途端に表情を変えてくる。ちょろいなあ、と若干馬鹿にしつつも、ほんの少し嬉しかった。直接的な言葉に弱くて、素直じゃなくて、かわいい。綺麗だなあ、とその精神を珍重しては心にしまう。なんとなく口に出すのは悔しかった。二人ともいつまでたっても精神が子供だから、照れたり好きだと言ったほうが負けだと思っている節がある。そんなしょうもない小競り合いが、どこまでもくだらなくて好きだった。今のところ自分は勝ち続きだと志筑は思っている。
「しゅーさんのそういうとこ嫌い」
「えー、俺は自分のこと好きですけどね」
「知ってる。……俺も好きだよ」
珍しく自分から負けに来た彼がなんとなく面白くなくて「自分のことが?」と意地悪にも問い返す。すぐ茶化す、とぷんすこ怒る声が心地いい。
「しゅーさん、今日ビール半額らしい」
「……俺最近太ってきたんですけど、半額ならしゃーないっすね」
「おじさんへの道の一歩が今踏み出されたよ」
「そういうことは言うもんじゃないですよ」
大量に買い込んだ物資を段ボールに粗雑にぶち込んで、車に乗せる。冷たいものはこっち、と大口を開けたクーラーボックスにアイスを投げ入れれば、ぬっと手が伸びてきて悪びれもせずに犯行を完遂するのが見えた。
「悪いやつやあ」
「おだまり」
へらへら笑って窘めんとする自分の口にあっさりと甘ったるい味が広がる。チョコ珈琲味のそれを無言で吸い込めば、ざらついた氷のかけらが舌先から喉奥へと伝って体を冷やしていった。これで共犯よ、と同じようにして半透明の容器を吸い込んでいる姿には「共犯ならなんも言えんなあ」と言うしかない。こんなことしてるからすぐにアイスなくなるんだよなあ、とわずかに残った理性も、アイスと共に溶けて消えていった。
「どうします? もう帰る?」
「んー……せっかくここまで降りてきたしなあ」
「そんな野生動物みたいな」
まだ帰りたくなさそうな佐野の様子を見て、とりあえず志筑は車のカギを改めて閉じなおす。何もないと言えば何もないのだが、まあ彼の言う通り、せっかくの週一の買い物である。ゴミ箱を探すついでに動き始めた足を、このまま止めてしまうのは何だかもったいないような気がした。散歩でもしますか、と口実にもならない口実を述べて彼の手を取る。老人か、と笑いながらもまんざらでもなさそうな表情が嬉しかった。何もない田舎道を歩く。初夏というにふさわしい、清々しい天気と温度だった。
「田んぼ、すっかり緑になっちゃった」
「あーたしかに。草、って感じっすね」
「稲を草呼ばわりするの情緒なさすぎじゃない」
「あんなん草でしょ。土から生えとったら全部草です」
「土、草、うーん……いや、えー……?」
さては小学生時代に田植えしなかったな、と呆れたように指摘してくる佐野に、志筑は己の幼少期を思い返す。まあ確かに覚えはない。けれどもたとえ人生に田植えの工程を挟んでいたとしても、自分は田んぼに植わっている稲を草としか認識しなかったような気もした。そんな変わりますかね、と当惑を隠さずに問うてみれば、変わる変わると深い頷きが返ってくる。
「可愛く見えるよ。自分たちが植えたのじゃなくても、なんか愛着湧く」
「ふうん……そういうもんすかねえ」
一度子供ができると全ての子供が可愛く見えると笑っていた母親を思い出す。そんなに違うものだろうか、体験というのは。よくわからんと思いつつも、それほどまでに変わるというなら一度くらい、とも思う。自分の価値観ががらりと崩れるのを恐れなくなったのは、きっと隣の男のせいだ。
「っていうかしゅーさんの子供の頃ってなんか全然想像つかんわ」
「普通のガキですよ。かわいー子供です」
「えー、絶対クソガキでしょ」
「ちゃうわあ。佐野さんのほうがクソガキだったでしょ」
違う地域で生まれ、違う人生を歩んできた二人だ。志筑は佐野の幼少期のことを話の上でしか知らないし、逆もまた然りだった。彼が感じたという田の泥濘も、稲の成長の喜びも、蛙の鳴き声も、志筑は彼の言葉の中でしか感じることができない。もし近くに生まれていたら、もし同じ年に生まれていたら。田風景の中にそんな想像を見ようとしてみても、なぜだかいまいちうまく描けなかった。今の完成されてしまった佐野を見ている自分には、そこまでの過程がわからない。
「今度アルバムとか見せてくださいよ」
「いいよ。多分実家にあるわ……一緒に取りに行く?」
「え……えっ!」
あ、今負けた。直感的にそう思った。ジッカ、と片言でコメントする姿に、彼はけらけらと笑っている。何笑とんねん。今度は志筑が怒る番だった。
「俺は全然しゅーさんのこと親に紹介できるよ」
「……それは、どういう」
「さあ? まあ行くとしても夏かな」
それまでにせいぜい覚悟決めときなよ。挑発的ににんまりとほほ笑んでいる佐野の顔には、でかでかと「勝った」と書かれているような気がした。腹が立ったので背中を黙ってばんと叩いても「ふふ」とご機嫌な笑みが漏れるだけなのが悔しい。
「そういやしゅーさんって、家で何て呼ばれてんの」
「えぇ……普通にアキミツとか、あきくんとか……」
「ふーん、しゅーさんじゃないんだ」
「あれ、もしかして俺の名前、音読みが正しいと思ってます!? 秋に参ると書いてアキミツなんすけど……!」
陶器市、とゴシック体の踊るのぼりを見つけるや否や、二人して大袈裟に反応してしまった。佐野はともかく、自分はそれらの良し悪しもわからないくせに、と自嘲しつつも、あからさまに頬を紅潮させて物色している彼を見るとなんだかどうでもよくなってくる。綺麗な食器の数々、今の自分なら慈しむことができるだろうか。なんとなしに佐野の手元を真似して、一つ持ち上げてみれば小憎たらしい笑みを浮かべた猫のイラストが微笑んでいた。茶碗なら確かにこういうのもあるよな、と苦笑してじっとその先に思いを巡らせてみる。意味もなく、佐野の顔が浮かんでは消えた。彼は猫によく似ている。
(……そっか。食器って、生活の象徴なのか)
小さな子供が視界の片隅で、小さなサイズの茶碗を高々と掲げて母親に強請っている。根負けした母親がそれを買い与えるのも時間の問題だろう。そのさらに向こうでは若い夫婦がかごいっぱいに大皿やら小皿を買い込んでいて、今は箸をとっては手に馴染むものを探していた。皿を買う、家に帰る、食卓に並べる。当たり前の、それも毎日行うことなのだけれど、だからこそ、そこに特別をもたらすというのはきっと、意味のないことではない。生活の象徴、幸せの象徴。それを、彼は作っているのだと思うと、なんだか柄にもなく「いいな」と思えてしまった。猫が笑う茶碗に少しだけ微笑みかけてから、ことりとそれを置く。
「あれ、いいの。猫めっちゃ見てたじゃん」
「えぇ、俺、そんな見てました?」
「見てた見てた」
そりゃあもうじーっと。そう茶化しながら自分の真似をする彼は、どれほどの時間こちらを見ていたのだろうか。文字通り四六時中一緒にいるのだから、佐野の瞳に自分が映っていることだなんて慣れてしまっているはずなのに、改めてそれを意識するとなんだか居心地が悪い。俺のことじゃなくて商品見てくださいよ。そう誤魔化すように窘めれば「いや見てたけどさあ」と当惑したような反論が飛んでくる。
「いっつも大体俺のことニコニコしながら眺めてるしゅーさんが、今日はなんかめっちゃ見てたから」
「そりゃ俺だって茶碗見る日くらいありますよ」
「いやまあそうなんだろうけどさあ。なんか、嬉しいのと悔しいので複雑だわ」
「あはは、なんやそれ」
嬉しいのと悔しいの、そんなごちゃごちゃした感情を俺なんかに向けて、俺ばっかに向けて、どうするんですか。あほやなあ。口には出さないままにそんなことを考えた。彼はいつだってほとんどの感情リソースを自分か、薄く白い陶器に向けている。買い物かごに何枚か決め打たれた薄皿を放り込んでいく彼の姿を、隣でじっと見つめた。ねえ佐野さん、どうしてそれを選んだんですか。……どうして、俺を選んだんですか。そんなことをたまに、聞いてみたくなるのだ。
「……猫、ほんとにいいの? 気に入ってたでしょ」
「いいんですよ。俺が気に入ったの猫じゃないし」
じゃあなんなん。もっともな質問を投げかける彼に答えは返さない。きちんと言葉にするのは、いまではないような気がした。
「いつも思うんですけど、自分でも作れるのになんか皿買おうとしますよね」
「俺が作ったいい皿は新鮮味ないし反省点見えるけど、他人の作った良い皿は純粋に楽しめるから欲しくなるのよ」
「そういうもんなんすか……?」
「しゅーさん、美術部入ったってくれへん!?」
ぱちりと手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げる姿を見たのは、もう今から五年以上も前になるのか。何かと構ってくれていた先輩というのもあってその場で断ることも気が引け、とりあえず見学だけ、と軽い気持ちで美術室に足を運んだのが間違いだった。一年生の少年が一人だけいるのだという。頼んできた彼含め三年が二学期で引退し、部員が最年少一人になってしまったのだと。もともと関西の田舎にある学校だから、決して生徒数自体が多いとは言えず、最低限二人いれば部活動はできる。その最低ラインを守るために白羽の矢が立ったのが自分というわけか。そう冷静に分析したところで年下の少年相手に二人きりで話せる気もせず、どこか重い気は抜けずに志筑の肺を支配していた。はずだった。
「……」
何一つ重なるところのない相手のはずだった。その情熱についていけずに弓道部を辞めたところで、間違いなく美術部に入るような選択肢はどこにもなかったのだ。学年も違う、生まれも育ちも違う。価値観だなんて、本当に一つだって一致していないような気がした。彼は親元を出て陶芸に身をささげるために、こんな奥地の学校へ通っているのだという。修行をしている工房に近いから、その一点で。理解できないと思った。そんな、人生のすべての選択をただ一つに依存して選択するだなんて、適当に生きてきた自分には、到底。
「へえー、陶芸。皿を作るんだ」
「……今ちょっとバカにしたでしょ」
「いや馬鹿にはしてないですけど……よーわからんなと思って」
食器って要は、食事のための存在でそれ以上でもそれ以下でもないじゃないですか。なんとなしに零した感想に、食って掛かられたのは別に不快ではなかった。何かに一生懸命になるということが理解できなかったから、そういった姿勢が苦手だったはずなのに、どこか嬉しかったのだ。彼にスポットライトが当たるのを見た瞬間、何かが変わるのだと思った。自分を否定してくれることを期待していたのだと信じていた。
「……俺、佐野さんと出会えてよかったなって思います」
作り変えられていく。彼の手によって、まるでろくろで回されていくように心の定まっていなかった部分が形作られていく。彼の作業風景を隣で眺めている今この時も、きっと。作業に没頭している彼はきっとこの独白を聞いていない。それでいい。自分を映していない彼の瞳も、自分は好きだから。
「今日俺、この食器で家庭が作られるんだなって、思ったんです。佐野さんが生み出したお皿の上にご飯をのっけて、何度も何度も箸と言葉を進めて、そのたびに相手を好きになる」
「……」
「それを支えてる佐野さんのこと、かっこいいって思います。……好きです」
ばっと顔をあげてそのまま動かなくなる。じっと自分のことを見つめる瞳。自分だけを映す瞳も、ほんとは嫌いじゃないのだ。これは敗北宣言だと志筑は一人笑う。聞かれてしまったから、負けを認めるしかない。恥ずかしいとかそういうのじゃなく、悔しい。悔しいのに、心地よい。
「しゅーさん、ちょっと」
「あはは、ダメじゃないっすか。ちゃんと茶碗、見とかなきゃ」
「……見てるよ」
ずっと、どっちも見てたよ、好きだから。恥ずかしげもなくそんな言葉を口にする彼に、なんだかすべてがどうでもよくなった。実家、ちゃんと連れていってくださいね。プロポーズじみた言葉だって、今なら言えているはずだ。
「そういやこの図案、今やってるお茶碗のやつですよね。何の柄です?」
「……猫」
「えっこのぬらりひょんみたいなやつがですか……?」
随分と冷めた目をする男だと思った。自身の先輩に紹介されてやってきたという彼は、まあ有り体にいえばへらへらとした軽薄そうな人間で、いけ好かないとまでいかなくてもなんとなく、合わないのだろうなと直感的に感じ取っていたのだ。
「食器って要は食事のための存在で、それ以上でもそれ以下でもないじゃないですか」
困ったようにそう眉を下げて答える彼を見て、ああこいつは、と思った。別にそんなことを言われたのは初めてじゃなかったのだ。そういう心無いことを言う人間がいたとしても、自分だけが信じていればいい、自分だけがわかっていればいい。そう思っていたはずなのに、なぜだか彼の言葉は癇に障った。まるで、その瞬間彼にスポットライトが当たったかのように、彼の輪郭がはっきりと自分の瞳に飛び込んできたのである。今まで陶芸だけだった世界に、彼が現れた。彼の世界を、変えたいと思った。
「ずっと、俺の世界にはしゅーさんと陶器しかなかったよ」
彼が卒業した時も、彼を家に引き込んで強引に同居を始めたときも、いつだって見ていたのはその二つだけだ。結果は自分の一人勝ち。彼の世界をここまで変えてみせたのだから、間違いなく完勝だ。優勝賞品である男はつけっぱなしのテレビを向きながらも、うとうとと意識をどこかに逃がしている。大好き、と囁きかけて見せれば真っ赤になった耳が、聞いてませんと言わんばかりに塞がれた。