ヤドカリは海の夢を見るか 冬ヤドカリはその体が大きくなって窮屈になるごとに、その宿を変えるのだと言う。ずっと背負い続けたそれをあっさりと捨て、次へと乗りうつる姿はあまりにも執着がなく見える。家だなんてまさしく執着の象徴だ。片瀬はそれを、ずっと思い続けてきた。家は、変わらないものなのだ。人はそこに安堵を覚えて落ち着くのだろうが、自分はそうは感じない。変わらないものは、繋ぎ留められているのだ。それを執着と言わずして、何というのだろう。執着されるのは怖い。……するのは、もっと怖い。
「聞いて介山センパイ。今日はエリカがこのサークルに入って半年記念だよ」
「サークルじゃなくて同好会ですよ」
「細かいことはいいの。最長記録っていうのが大事なんだから」
「おめでとうございます」
ぱちぱちとおざなりに手を叩く音が響く小さな部屋。家よりかははるかに軽くて狭いその部屋には、三人の人間といくつかの水槽が身を寄せ合っている。ヤドカリ同好会。酔狂だと揶揄されそうなそれは、せっかく大学生だからと平山が無理やりに立ち上げたもので、ついこの前、それこそ六か月前にもう一人の会員を迎えてゆるりと運営されていた。毎日ヤドカリの世話をしつつ、暇なときにこの部屋に集って適宜緩く駄弁るだけの同好会である。ちなみに端から新入会員は募集していない。
「天下のサークルクラッシャーがこんなしみったれた同好会一つ壊せないでどうするんです」
「ひっどい! エリカだって壊したくて壊してるわけじゃないよ。勝手に崩壊するんだもん」
「そもそもは飯綱が面白がって気があるようなこと言って回ってるからじゃん」
ひっそりと買いだめされているお菓子の山から一つ適当にとって、テーブルの上へ広げる。紙皿は楽でいい。すぐに捨てられて、大切にせずに済むからだ。残る二人が嬉々として感謝を告げながら我先にと手を伸ばし始める。丁寧にネイルが施されたそれと、細くて骨ばっているそれとは、同じような白さをもってしても誤魔化しきれないほどに異なっていた。ネイル変えてるな、と気づきながらも片瀬は面倒なので触れないでおく。平山は多分、そもそも気づいていなかった。
「エリカは気があるとは一言も言ってないもーん。あ、このチョコ美味しい」
「前々から思ってたんですけど、なんでそんな面倒くさいことするんです? 人間関係が潤滑に行くようにも振舞えるんですよね」
「自分の思った通りに人が動くのって面白いじゃん」
「将棋でもやっとけばどうです」
そう言いながら平山は評価されたチョコレートをもさもさと咀嚼する。それに倣って片瀬も一つ手に取って口に放り込んだ。美味いけどこれ、下手したらもうシーズン切れじゃないの。その辺りに放り出していた箱の裏を確認すると、おそらく一か月ほど前に買ったものらしい。もうきっと店頭には並んでいないだろう。良くて割引されて箱に纏められているに違いない。美味しいなら期限切れだろうと割引されてようとなんだっていいよ、と投げやりに言う姿は、はっきり言って彼女の肩書がもたらす印象とは程遠かった。
「いいんですか、デパ地下常連洋菓子店のご令嬢がそんなこと言って」
飯綱絵梨花。平山が口にした通りの境遇の彼女は、いずれその苗字を冠した会社を継がされるのだと言う。一般家庭生まれの片瀬にはよくわからない世界だ。実際目の前にいるのは、普通のというと語弊があるが、概ねただの女の子なのである。変わっていると言うなら、それこそ平山だってそうなのだし、優秀なのだろうが接してしまえばいまいちこう、圧に欠けるのだ。ここに居着く前とはずいぶんと印象が違う。最も容姿によってかかるバイアスが片瀬や平山にはかかり辛いと言うのもあるのだろうが。
「そりゃあずっとご令嬢のままでいれるわけないし」
帝王学を叩きこまれたはずの頭は、ある日気が付いたのだという。人間は完璧にはなれない。できるのは完璧に見せかけることだけなのだと。それからというもの彼女はずっと他人を騙すことに腐心しているらしい。どのように振舞えばどのように人は動くのか。それを延々と見極めんとするのは、疲れるけれども楽しいのだと。数々のクラッシュされてきたサークルもその糧の一つなのだろう。あまりにも報われない。片瀬はひそかに今まで犠牲になってきた人々に同情した。しかし一方で、自分がしていることも大して変わらないのだとも思う。
「我々の前ではご令嬢やらなくてもいいってことですか」
「そりゃそうだよ。そういう場所としてここ選んだんだし」
普通に活動してみたかったんだもん。そう言うと飯綱はおもむろに席を立つ。壁沿いの水槽を覗き込むと、鼻歌を歌いながら霧吹きを数度プッシュした。お前もエリカみたいな美少女に世話されたほうが嬉しいよね。そんな声かけに平山が胡乱な目をしながら、ヤドカリは目が悪いんで私たちの顔なんてろくに見えちゃいませんよと茶々を入れる。目悪いんだ、と感心する片瀬に、平山は嬉しそうに人差し指を立てて語り始めた。
「ヤドカリの目は昆虫と同じなんですよ。複眼」
「フクガン……目がいっぱいあるってことか。一気に可愛くなくなるじゃん」
「まあ蜘蛛とかよりマシだと思ってください。ちなみに光とかはちゃんと感知できてる……らしいですよ」
「飯綱も光ったら認識されるんじゃない」
「先にカラスに認知されそうでやだよ」
これ以上変に人間に噂になるのもやだしね、と露骨に嫌そうに顔を歪めた。今更ですよ、と平山は冷たく言い放つ。飯綱は良くも悪くも目立つのだ。その恩恵を存分に受けて、この空間もまた奇特な目で見られるようになって久しかった。平山はそれが不服なのだろう。だからと言って非難したり追い出したりするほどに非情というわけでもないが、一言くらい刺してやりたい気持ちはあるのかもしれない。片瀬は冷たい彼の態度に苦笑しながら、元々お前も大概だけどね、と間に入った。
「教授相手に食いついて話題になってたじゃん」
「そんな昔のことは忘れました」
「都合いいあたまぁ」
「やかましい」
片瀬さんもどうして飯綱さんの肩持つんです、と不満を隠そうともしない態度に片瀬は曖昧に笑う。本当のことなど一つだって言えそうになかった。飯綱をこの場にやってくるように誘導したのが自分なのだとも、その目的が彼に早く恋人を作ってほしいからだとも。
血縁というのは不定だ。どれほど肩書を変えても、名を変えても、そのしがらみというのは肉体を捨てることがない限り決して無くならない。否、肉体を変えたところで消えないのかもしれない。それはまさしく重い、片瀬が嫌う執着の一つだった。子供なんてまさしくそうだろう。他人であったはずの二人の血を無理やりに混ぜて、それを介して血縁を作るのだ。子は鎹だなんていうのは妙に的を射ていて、それでいて嫌な言葉だと片瀬は常々思っている。子供を作った以上、いくら三行半を突き付けたところで、決して消えない繋がりは残るのだ。目に見える執着の形。それを先祖代々受け継いできていると思うと、なんだか自分も他人も嫌におぞましく見えるのだからひどい。そして、その感覚が一般的ではないこともまた、よく知っているだけにやるせなかった。家庭を成すことは尊いことなのだ。片瀬はそれを否定しない。それが当たり前の幸せであると、何なら一番信じているのかもしれない。かつての家制度に基づく凝り固まった観念に囚われ続けているのもまた、執着の一つなのだろう。逃れられない洗脳なのだと思った。それに気が付いていながら、その考えを改められない自分もまた、愚かだと思った。
「活動をしようよ」
突発的に少女が提案してきたのは海へ行くことだった。せっかくだからサークル活動らしいことがしたいと駄々をこねる彼女に、最初は渋っていた平山も圧倒されてしまったのだ。片瀬としても、かなり意外な流れだった。てっきり、さしてヤドカリそのものには関心がないのだとばかり思っていたのだ。考えてみれば、片瀬は飯綱のことを何も知らない。彼女を選んだのは、偏にその奇天烈さからだった。面白い人間のほうが、平山の気を引けると思っただけだ。それ以外のことはあまり考えなかった。知ろうと思えばいくらでも知れただろうけれど。
(別に、俺がこの子とどうこうなるわけでもないし)
人間なんてよく知れば知るほどに嫌になる。だから片瀬は自分のことを深堀されるのを厭うし、他人を詮索するのも嫌いだった。最も平山も飯綱もぺらぺらと自分やら他人やらの話をしてくれるので、あまりその意識は功を奏さないのだが。基本的に饒舌な二人は特に抵抗もなく自分を見せる。範囲の違いはあれど、いいと思った相手には基本的に包み隠さないのだ。片瀬のような人間はそれを羨ましいと思わずにはいられなかった。
「まあ散歩程度の距離だし、たまにはいいんじゃない、海」
「えっなんでそんな二人とも渋々なの。エリカが来る前からここ、ヤドカリ同好会だよね。ヤドカリのこと好きなんじゃないの」
「片瀬さん、言われてますよ」
「いや……まあ好きだけど」
「ちなみにどこら辺が好きなの」
「えー……」
ほら、かわいいじゃん、ヤドカリ。咄嗟に出たコメントは余りにも中身が無く、途端に平山も飯綱も呆れた顔をした。じゃあ逆に他にどんな理由があるんだよ、と思わず噛みついてしまう。その理由は他でもない自分が抱えている感想なのだが、それを正直に話すことはできそうにもなかった。バカげている。ヤドカリの生態一つに己の願望を映し出して見ているるだなんて、とても言えない。もっとこう、ないんですか文学的な理由が。眼鏡を押し上げながら尋ねる平山に「わー介山センパイ、インテリっぽーい」と歓声に見せかけた揶揄いの声が上がる。瞬間、露骨に嫌そうな顔をするものだから思わず笑ってしまった。
「エリカはあるよ。ヤドカリが好きな理由」
部屋の隅から網と虫籠を引っ張り出しながら飯綱は言った。
「家を背負って生きてるのってさ、かっこいいじゃん」
「まあヤドカリは家を何度も乗り換えますけどね」
「そういうことは知ってても言わないものなんだよ」
真顔で平山のコメントを一蹴する。そしてドアノブに手をかけてから一度だけ振り返って「センパイ達も早く用意しなよ。エリカ先行ってるから」とスキップでもしそうな勢いで駆け出して行った。用意と言っても、特にこれといってすることなどないのだが。開いた間をもたせるようにして平山と目を合わせると、彼もまた当惑したような顔をしてこちらを見ていた。嵐のように去っていきましたね、と扉の方へ視線を流しながら呟く平山に、いつもそんなもんだけどと苦笑した。
「追う? 嵐」
「放っておくわけにもいかんでしょう」
「だよなー」
「……それに」
片瀬さんだって、見たいんじゃないんですか、ヤドカリ。どこか期待したような目だと思った。何となくいたたまれない気持ちになって、咄嗟に目を逸らす。まあ、と罅の入った声が喉から絞られた。ヤドカリは好きだ。けれども、それは彼に話せるほどにまともな理由じゃない。振り切るようにして「行こうか」と声をかける前に、目の前の男の口が惑うようにして開くのを、片瀬は嫌に緊張しながら見ていた。
「片瀬さんってなんか……ヤドカリに似てますよね」
「えっ」
「まあいいや。では私もお先に失礼します」
お得意の真面目に走っているのだかいないのだかわからない速度でぱたぱたと出て行く。飯綱を嵐と形容するなら、今のは爆弾だと思った。空気ごとその場に縫い付けられたように場が滞って、ついでに思考も遅くなる。今の、何。ようやく動いた舌が誰に向けてでもなく出力したのは、そんな間抜けな一言だった。たった三人だけの同好会で一人ひとり別々に行動していることの馬鹿馬鹿しさも相まっているはずなのに、一つも笑えない。すうと一つ息を吸って、片瀬は足に酸素を巡らす。取り合えず早く後に続かなければ。あの二人では海をどうしてしまうかわからないのだ。
浜辺についたころには驚くほどに足取りが重くなっていた。気が進まないと言うのはほとほと恐ろしいものだと片瀬は溜息をつく。白く色づいたそれは海風にさらわれて散り散りになっては消えた。冬の海は冷える。雪こそ降らないが冷気は着実に積もっていて、体温をじわじわと奪っていく。この寒さではいくら寒さに強いホンヤドカリだとしても動いちゃいないだろう。人気のない砂の上を人影目指して進む。なぜだか一つしかないそれは、長い髪を靡かせて岩場にしゃがんでいた。
「飯綱」
「あ、片瀬センパァイ」
遅かったね、とくすくす笑う彼女に介山はと尋ねる。流れのままに指さされた先にあったのはかなり離れたところにあるコンビニエンスストアだった。なんだってそんなところに。思わずそう零すと飯綱は眼鏡を押し上げるような動作をして、唇を尖らせた。平山の物まねだろうか。微妙に似ている。
「寒いんでなんかどっかで暖かいもの買ってきますね、って」
「計画性皆無か」
「コンビニにも気づいてなかったからエリカが教えてあげたんだよ」
片瀬センパイがちゃんと面倒見ないから、と可笑しそうに目を細める。見透かされているなと直感的に解った。飯綱は興味深げに片瀬の顔を見て、それからふいと足元へ視線を下ろす。つられて藤壺がびっしりと張り付いたそこを見てしまって、片瀬は思いがけずダメージを追った。食べれるらしいよ、と他人事のようなコメントにうんざりとする。彼女は平山とはまた違った扱いづらさがあるのだ。
「……俺は、ヤドカリに似てるんだって」
「介山センパイが言ったの?」
「そう。わかる、意味」
「わかんなぁい」
投げやりに手を掲げて、そのまま倒れ込むようにして後ろ手をついた。自然と上向きになる視線をそのまま泳がせて、飯綱は「ヤドカリね、ヤドカリ」と口ずさむ。それで何がわかると言うのか、疑問に思いつつも片瀬は何も言わなかった。また同じ方向を見ると言うのも極まりが悪く、黒い海原を見下ろす。気が遠くなりそうなほどに、ずっと向こうから波が絶えずやってきていた。気持ちが悪い。延々同じことばかりが続いている。その規模もそうだし、それが繰り返される時間にもうんざりとした。悠久の時をただ伸縮し続ける、海の気分はきっと酷いものなのだろうと思う。その点人間は気楽なものなのかもしれない。そんな気楽な生物であるはずの片瀬は、それでも今既にたかだか二十年程の生にすでに嫌気がさしているのだから、よっぽど贅沢なのだろう。もうあと数十年すれば何も感じなくなるのに、いつだってくだらないことでばかり立ち止まっている。
「片瀬センパイはさぁ」
ソプラノが耳を打つ。少し前までは聞くことのなかった音だ。それでももう耳に馴染んでしまっていた。これ以上慣れなければいいと思う。飯綱は言葉を捏ねるようにして指先を遊ばせると、もう一度同じことを言った。なんなの、と仕方なく相槌を打つ。
「すぐに引っ込むでしょ」
「……どこに?」
「殻に」
ヤドカリの話かと数秒して気づいた。変な顔をしている片瀬のことを一切気にせずに、飯綱は魔法をかけるようにして人差し指をくるくる回しながら話し続ける。普通の顔して歩いてるくせに、ちょっと触れられそうになったら殻にこもって逃げちゃうの。それが介山センパイ、嫌だったんじゃない。波の音の合間に話すにはあんまりにも似つかわしくない話だと思った。全部流して飲み込んでくれたらいいのに、それもこの距離ではうまくいかない。
「そんな風に見えてる、俺」
「まあね。エリカはそれこそ仕方ないと思うけどさぁ。でも介山センパイは可哀そうだよ」
「……可哀そう」
「だって高校から一緒にいるんでしょ?」
しかもわざわざ追いかけて来たって聞いたよ。膝に顎を乗せて、確認するように流し目をする。それでも何も言わない片瀬に、飯綱はただただ呆れたように溜息をついて「贅沢だなぁ」と呟いた。そうやって、追い縋ってまで慕ってくれるのって、すごいことだよ。それでも大事にしてあげないの。エリカは試すように問う。大事にしてるつもりだよ、という発言は、自分でも言い訳じみていると思った。
「介山センパイを押し付ける役を、エリカに振ったんでしょ」
「押し付けるとか……!」
「違うの? まあ、別にそれを非難するつもりはないけど」
飯綱はそこでいったん言葉を切って、長い睫を伏せるようにして瞳に帳を下ろす。それからわざとらしく「えい」と声をあげて立ち上がると、微笑んで片瀬を見下ろした。綺麗に手入れされた茶色の髪が、薄暗い海の空気に飲まれずにさらさらと靡いている。海原を慈しむように一瞥するその視線は、決して片瀬には持ちえないものだ。羨ましい、と素直に思った。
「エリカは、先輩たちと三人でいるの、すごい楽しいよ。……だから」
一際大きい波の音が弾けた。大きくしぶきが上がって、片瀬の肌を濡らす。我に返ったころには、言葉の続きどころか飯綱の姿すらそこにはなかった。慌てて振り返ると、砂浜の上に見慣れた二人の姿がある。やはり、二人でも十分絵になると思った。自分は男女の幸福に夢を見ている。その夢に、囚われている。大波の前の、飯綱の言葉が嫌に耳奥に残っていた。
「片瀬センパーイ!」
ぶんぶんと大きく手がこちら側に向かって振られている。それに呼応するようにして、平山の手もゆるりと自分を呼んでいた。ぐっと足に力を込めて立ち上がる。あれだけ好んでいたはずのヤドカリが自分の形容詞へと変わったこと。それがひどく疎ましいことのような気がし始めていた。