ねこのひみつボクの弟の一松は時折耳が四つになる。
頭の上に二つ、ひょこりと三角の耳が生えて、おまけに尻尾がするりと伸びる。
黒猫の耳と尻尾。
これが出るときは多分、ボクの前だけなんだと思う。
なんでそう思うかっていうと、一松に猫の耳が生えたことをトド松と喋ったら、トド松はそのことを全く知らなかったから。
「え…?一松にいちゃんに猫の耳?」
「そう。時々生えてるんだ。トド松は見たことない?」
「カラ松にいちゃん、ボクのことからかってるの?人間に猫の耳なんて生えるわけないでしょ。そもそもどこに需要があるの?女子高校生ならまだしも男子高校生だよ?生物学的にありえないこと言わないでよ」
「えっ、あ、えっと」
「もー、いくらボクでもそんな小学生みたいな嘘には騙されないからね!」
トド松の妙に冷淡としたツッコミに垣間見てはいけないものを見てしまった気がすることは置いておいて。ボクはとある可能性にドキドキした。
じゃあ、一松の猫化(正確には顔や手足は人間のままだから半猫化だけど)の秘密は、ボクしか知らないんじゃないかって。
もしかしたら、兄弟みんなに聞いてみたらそんなことはないのかもしれない。トド松は知らなくても、おそ松や、十四松は知っているのかもしれない。
でも、もしそれがボクの前だけだったら?
ドキドキが止まらなかった。一松の秘密を知って、なんでこんなにも胸が高鳴るんだろう。
最初見たときは、ボクも見間違いだと思った。
学校の昼休み、ふたりきりで階段でご飯を食べているときだった。
なんの話をしていたか忘れたけど、一松が笑ったらその耳は唐突に現れた。
それから同じような状況で三回、見ることに成功している。
思うに、なにか法則があるんだと思う。ボクなりの推理で、一松の猫化……もとい、半猫化の条件を書き出していこうと思う。
条件その一、一松が笑うこと。
しかもその笑いはちょっとした笑いじゃなくてもっと激しい、いわゆる爆笑だ。
一松の笑いのツボを的確に突かないといけない。でもこれは案外簡単。だいたい兄弟のどうしようもない日常ネタで笑ってくれる。
条件その二、お腹が空いてないこと。……かなあ。
一松がお昼ごはんを食べる前は猫耳が出てこない。
お腹がいっぱいになって、穏やかで、いつもより表情がやわらかくなって……ああ、リラックス、っていうんだ。
お腹が空いていないこと、と書いた上に横線を引いて、リラックスしていること、と書き直した。横文字のほうがなんかカッコイイもんね。
条件その三は……悩んだけれど、やっぱり、ふたりきりでいること、だと思う。
条件その一とその二が満たされることはよくある。例えば兄弟揃って夕食を食べた後なんかそうだ。
でも、他の兄弟がいる前では一松は半猫化していない……と、思う。少なくともトド松は知らなかった。
一松に直接聞けたら早いけど、ボクとふたりきりでリラックスして笑いのツボにはいったとき猫耳が出るよね?なんてなんだか言えない。
もしかしたら一松自身、気付いてないことなのかもしれないし。もしそうだったら、ボクが秘密を守ってあげないと。だってボクしか知らないことなんだから。
条件その三、ふたりでいること。
大学ノートにそう書き込んだ。
次の日の昼。ボクたちは購買のパンを買って食べていた。母さんのお手製弁当は美味しいけれど、足りない。お昼休みになる前にもう食べ終わってしまった。
それは一松も同じで、ボクと同じように購買で買ったパンを食べていた。今日は出遅れてしまったから、人気の惣菜パンは早々になくなってコッペパンになっていたけど。
「やっぱりコッペパンだと物足りないなぁ。焼きそばパンとか、ソーセージ入ったやつじゃないと」
「そうだね」
しまった。もしかして一松はお腹いっぱいになってないんじゃないだろうか。
それじゃあ、条件その二が達成できないじゃないか。
自分のコッペパンを見つめる。一松の半猫化のことを考えながら食べていたからなのか、食べるペースが遅くてまだ半分残っている。このパンを、一松にあげたら良いんじゃないだろうか。
ごくりと喉が鳴った。ボクだってお腹が空いているのだ。一松の言う通り、コッペパンじゃ焼きそばパンやソーセージパンと満足感が全く違うのだ。そのコッペパンすら分け与えるなんて。これからの時間割を考える。昼休みのあとは何だっけ。体育だ。……ダメだ、そんなの絶対お腹すくじゃないか。
じっと見る。全部は絶対無理だ。半分の、半分だったら。いや、一口だけだったら。
「あははは!」
一松が笑った。
「そ、んな、無理しなくていーよ、ハハッ」
「えっ、えっ、なに」
「あはは、はー……、なにじゃないよ、ずーっとパン見つめちゃってさ。おれに分けようとしたんでしょ?でも、自分も食べたいからすげぇ悩んじゃって。ぜーんぶ顔に出ちゃってるしさ」
顔から火が出そうだった。恥ずかしい。全部一松には筒抜けだったんだ。ボクの百面相が一松の笑いのツボにはいったらしい。一度収まったけれど、また段々肩を震わせている。
ごめん、と零しながら笑いが込み上げてくるようで、抑えきれずに吹き出してしまっている。
「もー、そんな笑うなよっ」
「ご、ごめんって……ぷっくく……」
「ボクだってお腹空いてるのに、一松にあげようって真剣に考えてたんだよ!?」
「わかってるって。あは、はあ。笑ってごめんって。……カラ松、ありがとう」
一松が笑った。面白くて笑っているんじゃなくて、優しい笑みだった。
「そ、んな……全然……ボクは……」
ゴニョゴニョと言い淀む。うまく言葉が出てこなかった。心臓がまたドキドキしている。あれ。なんでこんなに。秘密を知った時みたいに胸が高鳴っていた。
あれはワクワクに近いような踊るような気持ちだったけれど、これは、胸が詰まるような。
一松の顔を直視できない。なんでだろう。顔を俯ける。
視界にうつったものに意識をそらせようとする。階段の妙にほこりっぽい床。二人の青色の上靴。黒色のしゅるりと長い尻尾。
「シッポだ!」
「えっ」
一松の顔を見る。頭の上に黒い三角耳が二つ。
「猫耳だっ!」
「えっ、うそ、」
バッと一松が頭に手をあげる。猫耳に触れて、バツの悪そうな顔をした。しゅっと、猫耳が引っ込む。
「ご、ごめん……」
「え、何で謝るの?」
「……だってさ。気持ち悪くない?男がさ、猫耳生えるとか」
「そ、そんなこと」
「いやいやいや、マジでナイから……はあ。なるべく見せないように頑張ってたんだけど。気が緩むとでちゃうみたいで」
「気が緩む……って?」
条件その二かなあ。リラックスって書いたけど、気が緩むってそういうことなのかな。条件その一の一松が笑うこと、っていうのも。なんだ、三つも条件いらなかったじゃないか。
「今みたいに笑っちゃったりとか、お腹いっぱいで眠くなったりとか。あとは……」
「あとは?」
一松がボクの顔をちろりと見た。そしてスッと逸らした。視線だけ外している。
「いや、このくらいかな」
「そっかあ。あれ、でも、みんなでご飯食べたあととか、そういう時は猫耳生えてないよ?」
「だって家じゃ気が抜けないでしょ。誰がいたずらしかけてくるか、なんてわかったもんじゃないし」
「確かに……」
ボクの考察は間違っていた。気が緩んだら半猫化する。条件なんて大層なものじゃなかったし、三つも必要なかった。なんだか気落ちする。
色々考えて、多少は正解もあったけど。全部正解であってほしかった気持ちがあった。
「びっくりした?」
黙っていたボクのことを不審に思ったのか、一松が心配そうな声をだした。
「ちょ、ちょっとね」
「やっぱり」
一松が暗い声を出した。実は前からもちょくちょく猫耳が出ていたよ、なんて言ったらもっと落ち込んでしまいそうだ。
「で、でも、全然、気持ち悪くなんてないよ」
「え。……ほんとに?」
「本当!嘘じゃないよ。それに猫って、なんか、一松っぽいし……」
「おれ、猫っぽいの?」
「う、うん!ボクも猫派っていうか。可愛いよね、猫」
特に犬派だ猫派だとこだわりはない。ないけど、とりあえず猫を持ち上げておいて損はないだろう。
「その、可愛い猫耳が、可愛さの欠片もない男子高校生に生えることが問題なんですけどね……」
あ、逆に落ち込ませてしまった。一松の背が丸まって、がっくりと肩を落とす。ははは、と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「い、一松だって可愛いよ!?」
ガッと肩を掴む。項垂れた背をしゃんと伸ばして、光が消えそうな瞳を見る。変なことなんてない。気持ち悪さなんてない。秘密を知って、ドキドキはしたけれど嫌悪感なんて一切なかった。そんなことで一松を落ち込ませちゃいけない。一松の秘密はボクが守るから。
「……ぷ、は、はは、あははは」
一松が笑った。自嘲じゃなく、楽しそうに、弾む声で。
「あはは、なに言ってんの」
「ボクは真剣に……っ!」
「わかってる。……わかってるって。だから、笑えんの。弟にかわいいとか真剣に言えるの、お前くらいなもんだって」
はぁ、と落ち着かせるように息を吐いた。もういいよ、と肩に置いた手を優しくはずされる。勢いよく掴んでしまったけど、一松痛くなかったかな。
一松が今度はにんまりと笑った。
「ね、そのコッペパンおれにくれるんでしょ?」
「ええっ」
「うそうそ。冗談だって。早く食べちゃいなよ。そろそろ昼休み終わっちゃうよ」
「もーっ、一松!」
からかってきた一松に声をとがらせる。でも一松が言ったことは本当で、気付けはあと五分で予鈴がなる時間だった。
早く教室に戻らないと。コッペパンは二口で口に突っ込む。もごもごとしている間に立ち上がって、パンの包装をいれたビニール袋をガサガサとまとめていく。
「カラ松」
一松が名前を呼んだ。ボクより先に階段を降りていた。数段下にいる一松がニッと笑う。その頭には黒い三角耳が二つ。
「ありがと」
そう言って一松は先に行ってしまった。追いかけた背中には、黒い尻尾は揺れていなかった。
————それから、一松の半猫化を見る機会はなくなってしまった。
二人でお弁当を食べることはなくなったし、家で言葉すらうまく交わせなかった。
そうして有耶無耶なまま時は流れて、いつのまにか一松の秘密は兄弟どころか周囲に知れ渡っていた。
それでも確かに、あのときの秘密はボクだけのものだった。