🏦見世物小屋に売られてた幼ししさんと、それを見つけた子さめ先生のはなし。③3.
秋。秋になったらまた会える。秋までに。
村雨はアルビノと、隔世遺伝について自主勉強を費やした。それらは全く別物なのだと、ししがみに、教えなくてもいい、ただいつか聞かれた時に言えるように、根拠を述べてやれるように。
進路を医学に決めた。兄は既に商学部へ進学していたので、次男の決断に家族は大層喜んだ。
盛夏を過ぎ、朝晩に秋の気配を感じるようになった頃。新聞に、花園神社の酉の市の予告が出ているのを見つけ、切り抜いてスクラップブックに貼った。
朝、顔を洗う水が冷たいと感じるようになった頃。ししがみは相変わらず小屋では水浴びをしているのだろうかと心配になった。
話をした時は健康なようだったが、栄養状態に関しては決して十分ではなかった。頼りなかった肩回りや二の腕を思い出す。もし水浴びをしているとしたら、エネルギー不足で睡眠前にすら体温が戻らず、寒い思いをしているかもしれない。
夏に使わなかった小屋の入場銭に少し手持ちを足して、銀座のデパアトで大判のタオルを買った。毛足の長い、ふかふかのもの。色はひよこ色にした。あたたかそうな暖色と、ししがみの髪色に似ていたから。
一の酉、前夜祭。
家庭教師の家から四ツ谷まで走るように移動して、新宿へ到着する。
見世物小屋の営業前に会えれば、タオルを渡せるかもしれないと思っていた。
早足でテント入り口の反対側、雑木林の方へと向かう。しかしあの日ししがみと会えたあの場所には、先客がいた。正確には、前回村雨が腰を下ろしたあたりに杭が打たれ、人が並ぶ用に左右に縄がかけられている。村雨の父より年嵩の、中年から壮年とも言うべき男たちが数人、列を作っている。
目を凝らす。
あの日泥を捏ねていたのと変わらない場所に、ししがみは、いた。
髪が伸びている。肩につくほど。
身長も伸びているようだ、しかし身体は相変わらず薄い。
その薄い肩を、大人の、分厚い、毛むくじゃらの手のひらがむんずと触れる様を、見た。
並んでいる男たちは、春に兄が入場銭を支払った男に、杭の手前で同じように金を渡して、ししがみに近づいて行った。
そして彼が捏ねた泥を両手で掬って、ししがみの両肩を覆う。そのまま、二の腕を往復し、肘下を撫で、手首から指先までしつこいほどの熱心さで、泥を纏わせていく。
一人が終われば、また次の一人が。
同じように金を払い、泥を掬い、今度は背後からししがみの横隔膜のあたりへ両手をつける。そしてそのまま両手を、じりじりと上の方へとずらしていく。
ししがみは嫌がって肩をすくめ、上体を丸める。しかしその動きさえも、まだ泥に汚れていない白い肢体がくねるようで、村雨は目を離せなかった。
夕闇が迫る、もう終わりかけのオレンジ色の光に、肌色が染まる。左右から伸ばされる大人の男の手が何本も、その肌を覆う。薄い胸板にまで泥を撫でつけられ、ほとんど存在感のない、小さな乳頭を執拗に指で捏ねられて、嫌々と首を振る、金色がぱっと舞うように揺れる。
その場に人がいなくなり、ししがみが一人立ち上がってのろのろと小屋へ戻っても、村雨はその場を動けなかった。
紙袋越し、柔らかなタオルをぎゅっと抱きしめて、必死に立つ。
なぜ自分がこんなに、ショックを受けて、足元がぐらぐら揺れているのか、学問に優秀な頭はちっとも答えを導き出さない。
ただ宝物みたいに、半年前にここでししがみと交わした会話を、その時に見た笑顔を、何度も何度も反芻していた。
暮れ六つの鐘が鳴り、辺りが賑わい出す。
見せ物小屋も営業が開始され、村雨は一旦神社の回りをゆっくりと散歩してから、見せ物小屋へと入った。
内部は随分と様変わりしていた。
柵の数が明らかに減っている。しかし、柵だったものが檻となり、檻はそれこそ動物を入れるもののように大きく、鏡台や衝立といった小物が広く置かれてそれぞれの檻が違う世界観を作っている。無造作に柵の隙間を歩かされていた前回よりも、見世物としての空間作りはぐっと良くなっている。
しかしそれらのどれにも目もくれず、水音、水の匂いを求めて足を進めた。
ししがみの檻は、やはり大トリの最後にあった。
髪に泥を塗ることはやめたようだった。最初から灯りの色によって金色から白銀にまで見える髪を、肩に揺らがせて、ししがみは相変わらずゆっくり、ゆっくりと自らの手で身体をの泥を落としていく。
半年前はいとけない子どもの水浴びに見えたものが、指先を蠢かせ喉を反らし、髪を揺らして、伏せ目のままツ……と檻の外の観客を見渡し……まるでショーのようだった。否、金を払って見に来ている以上、これはショーであるべきなのかもしれないが。
すっかり泥の落ちた左腕をすぅらりと伸ばす。
骨格が美しく、すらりと長い腕、真白い肌に、檻の周囲の老若男女問わず感嘆の溜め息を漏らす。
鎖骨を撫で、自らの手で胸板を抱き込むように泥を落としていく。
さっき、知らない大人の男にしつこく弄られていた乳頭は、衆人環視ゆえか水の冷たさゆえか、ピンと勃っていた。見てはいけないもののような気がして、慌てて視線を逸らす。
逸らした先で、ししがみと目が合った。
一瞬だけ口角を上げた彼は、ぱっと瞬きをして、半年前に会った小屋の外の方を見て、また誤魔化すように瞬きをする……大袈裟な瞬きにさえ煌めく睫毛が美しい。
あとで、あの場所でという意味だと、すぐに分かった。
小屋を出て、指定された場所で待った。
今日は前夜祭だったので、祭りの時間も短かったらしい。ほどなくししがみはやって来て、嬉しそうにむらさめ! と呼んだ。
真白い夜着を羽織っていた。髪の毛先はまだ濡れている。
さっきの水浴びをしていた妖艶さも、夕暮れに泥を塗られていた頑是なさも、ない。
ただ半年前に少し会話を交わした時の、ししがみ! と呼び名を教えてくれた時の彼が、そのまま目の前に、いた。
「ほんとに来たのかよ! しかも初日!」
「あ、あぁ。新聞に広告も掲載されていた。小屋は有名になったんだな」
「オーナーが変わったんだよ。前のオーナー、北関東の賭場でカモられちまって、この小屋を担保に最後の大勝負に出て負けたんだと」
スン、と不満げに鼻を鳴らす。大人の事情に、子どもはいつだって無力だ。
「前のオーナーより金儲けが上手いオッサンだよ。
見たろ? なんかさ、小屋の雰囲気も変わって、入場料も倍になった」
「あぁ」
「でも……」
つ、とししがみは目を伏せて、口をもごつかせる。村雨はじっと口を挟まずに待ったが、彼はひとつ、ふたつ瞬きをしても声を出さない。そうしている内に身体が冷えたのだろうししがみがくしゃみを一つするものだから、村雨は慌てて、手の中の紙袋を差し出した。
「あ? なに」
「差し入れだ。この季節に水に触れていたら寒いだろうと思って」
「……オレ何も返せないけど」
「もちろんだ。差し入れとは、応援のつもりで渡すものだ。私も勉強している時、兄貴が茶を淹れてくれたりする」
「……そ、なの」
「この大層な包装紙が邪魔だと言うなら」
バリバリ、と村雨はせっかく綺麗に包んでもらった包装紙を破き出した。いい。別に、いい。ししがみにあげたいのは中身だ。この大仰な見目に遠慮されてしまっては元も子もない。村雨は物事の本質を見誤らない。
「……タオル」
「あなたの髪の色だ」
箱の蓋まで開けてずいと差し出せば、ししがみはおずおずと、中身のタオルに手を伸ばした。
肌が白い。村雨の、日本人特有の青白さとはまた違う。上野の博物館で母と見た、象牙みたいな滑らかな白さ。手首の骨がぽこんと浮いた、手を、タオルの毛足に埋める。
「……あったかい」
「毛足が長いものを選んだので」
「へへ、そっか。……え、いいの」
「あなたに似合う色だ。私の色じゃない」
確かに、と笑って、彼は遠慮なく箱からタオルを取り出した。両手で掬うように持って、頬にくっつける。嬉しそうに口角が上がり、つられて丸く盛り上がった頬に。
「いい匂い」
「そうか」
「いいの。何も、返せねえよオレ、ほんとに」
「構わないと先ほども言った」
小さく噴き出しながら再度伝えれば、つられるようにししがみが双眸を細めた。淡い水色はぎゅっと細められると、その青色が少しだけ濃くなる。キラキラと晴れた日の湖面のように煌めいたのは、涙の膜が張っているからだろう。
きれいだと思った。美しかった。
村雨だけを見る双眸。嬉しそうに持ち上がった頬、金色の髪をひよこ色のタイルが覆って、肩までふんわりと隠す。
「もらう。……ありがと」
心臓が絞られる。なのに爽快感で肺は膨らむ。
誇らしい。うれしい。口角が上がって、顎先も上がる。
今なら、何だって出来る、何にだってなれる気がした。村雨は。
しかし帰宅して思い出した。
夕方に見た光景である。
ししがみは裸に泥を塗られていた。他人の手で塗られているだけだったら、人に頼むようになったのか、で済んだ。しかしししがみの裸を触った男たちは、金を払っていたのだ。しかも不必要なほどべったりと両手のひらを使って、ししがみの肌の上をしつこいほど這わせていた。
不快である。……村雨が。
◆
村雨が花園神社へ寄れるのは、塾の帰りだけだ。
帰宅が遅くなっても、先生に質問して解説してもらっていた、と言えば詮索されない。
だから次の塾を楽しみにしていたら、一緒に向かっていた兄にあっさりと誘われてしまった。
「礼二、今日の帰りさ、酉の市やってるからまた花園神社寄ろうぜ」
「……構わない」
「お! 何なに~、りんご飴気に入った?」
「まぁ……」
下手に断って、現地で見つかってしまったら面倒だ。見世物小屋へ直行できなくなってしまうが、酉の市を少し見て、また小屋を見たいと言えばいい。
小屋はもう粗末な掘っ立て小屋ではなく、真っ白な天幕がかかった派手で豪奢テントに変わっていたので、入ってみたいと切り出しやすかった。
「礼二、前は気分悪くなってなかったか?」
「平気だ。前回とだいぶ様相が違っているので、どう変わったのか興味がある」
「まぁ確かに……」
薄暗い、アングラな雰囲気を醸し出していた簡素な小屋は、入場口に門が建てられ、飾られ、ハリボテのような豪奢さでそこに在った。
中に入っても、生臭い匂いはしない。通路も広く人とぶつかることもない。兄にはどう見えているだろうか、とそっと隣の兄を窺う。兄は足を止めて、ゆっくりと左右を見渡している。
西洋趣味に転じたんだな、と呟いたのは、村雨が檻だと判じたそれが、彼には西洋の鳥籠のように見えたからだと後から聞いた。先日村雨はししがみの檻の前に直行してしまったが、兄と足並みをそろえて鑑賞してみれば、檻の中の見世物は見目麗しい双子の姉妹であったり、南米にしか生息しない大きくて色鮮やかな鳥であったりと、だいぶ趣向が変わっていることに気づく。蛇を喰らう女やら、火を噴く男はもう姿が見えない。
さりげなく兄のルートと外れて、ししがみの檻の前に行った。
今日もゆっくりと、どこか官能的に水浴びをする彼は、村雨を見つけると嬉しそうに下瞼を引き上げた。
「待てよ礼二、どこ行くんだ」
「………」
見世物小屋を出て、じゃあちょっと見たいものがあるから、とそそくさ別行動をしようとしたのに、そうは兄が許さなかった。
「見たいものって、何。オレも行くよ」
「いい。兄貴は兄貴で、あっちを回ってくればいい」
「……なんか変だぞ。隠しごとでもあるのか」
学校の成績は中の上と聞くが、こういった勘はいい兄だ。そしてこうなったら引かない頑固さは、兄弟よく似た素質。ししがみとの約束に遅れてしまう……村雨はため息を吐いて、ともだちと会う約束をしている、と告げる。
喧騒を離れたテントの裏側。
こちらへ走り寄ってくる小柄な影は、仄かに漏れるテントの灯りに兄のシルエットを見つけたのだろう、ぴたりと足を止めた。
「むらさ、め……?」
「あぁ。すまない、今日は兄が一緒で」
「あ……」
ししがみが胸元で何かをぎゅっと握るのが見える。おず、と足を進めてくる途中で、それは頭に被って胸元に垂らしたタオルの両端だと気付いた。ふかふかの、ひよこ色。
「……初めまして。礼二の兄の、一希です」
「は、はじめまして。ししがみけいいち、です」
ケイはけいいちのケイだったのか、と村雨が記憶している向かいで、ししがみは頭を下げた。村雨より背の高い、来年には単科大学への進学を控えている、体格はほぼ大人と変わらない兄を、首をすくめて、見る。
「失礼だけど、最後の檻にいた子だよね?
君が礼二の、ともだち?」
「………」
「どこで知り合ったの?」
ししがみは、ぎゅっとタオルを握りしめたまま、視線を地面に落としてしまう。焦ったのは村雨だった。こんな、冷たい兄の声を、聞いたことはない。
「兄貴。どうしたんだ、一体」
「そのタオルは毛足が長くて、色も鮮やかで、高級なものだね。誰かにもらったの」
「私だ。私が差し入れとして渡した」
兄の腕に手をかける。しかし兄はししがみから視線をそらさない。
「ほかのお客さんからも、こういった高級品の差し入れはあるの?
それともまさか、礼二にだけ強請ってるのか」
控えめに手をかけていた兄の腕を、パンと払った。憤り、拒絶。ようやく視線をししがみから弟へと移した兄の、両手首をぐっと握って、睨みつける。
「失礼だ。兄貴の品位をも下げる。謝罪すべきだ」
「礼二。お前は社会を知らなすぎる。
この子は、あの檻にいたような子たちは、生計の道としてあれをしてる。芸事を磨き、フアンから差し入れを集め、いつか金持ちのパトロンにでも身請けされれば儲けものだ」
「兄貴!」
「生きてる世界が違うんだ。
嗜みは必要だ、だけど溺れるのは看過できない」
ざ、と土を踏みしめる音がして、見ればもうししがみはこちらに背を向けていた。白い夜着から、白いふくらはぎが丸見えになるのも厭わず、走り出す。
追おうとするも、兄の手首を掴んでいた両手を、今度は仕返しのようにぎゅっと握られる。
「ししがみ!」
小さな影は、止まってくれない。
「ししがみ……!」
村雨の好きな金色の髪が、肩を覆うそれらが、走り去る動きに従いぴょこぴょこ揺れる。
村雨が彼のために、彼に似合うと選んだひよこ色のタオルが、闇に紛れて見えなくなるまで、せめて視線を離さなかった。
◆
一の酉の最終日は、家庭教師の講義室出口に兄が待っていた。
二の酉の前夜祭の日は、家庭教師宅を飛び出た玄関先に既に兄がいた。
だから村雨は一計を案じた。自分よりずっと愛嬌のある兄をお気に入りの母方の祖母に、最近兄の元気がなくて心配だ、そういえばおばあちゃんの五目ちらしが食べたいと言っていた……と手紙を出したのである。
「礼二、今日お兄ちゃんおばあちゃんちに呼ばれて夕ご飯まで食べてくるみたいだから、一人で家庭教師行ってくれる?」
「うん。行ってきます」
政治と根回しは、社会生活の礎である。
講義が終わり、礼と同時に飛び出した。
一刻も早くししがみに謝りたい。小屋の開場前にあの場所へ行けば会えるのではないかと走ってみたが、息を切らせて到着した頃には既に、ししがみは金を払った大人たちに囲まれていた。
「………」
テントの影に隠れて、息を整える。
ししがみは眉根を寄せて、背中側から胸元に手を回す大人の腕に縋りついていた。
泥はもう、十分なほど塗られているように見える。なのに大人の両手はししがみのあばら骨の浮いた腹を下から撫で上げ、胸元を弄り回し、ししがみの髪に鼻先を埋めている。
ふ、ふ、と荒くなったししがみの息遣いが聞こえる。薄い上半身が太鼓橋のように反った……その時、旦那そろそろこの辺で、と金の入った箱を持つ男がストップをかけた。
大人たちは落胆の声を上げながらも、準備されていた桶で手を洗って、テントを反対回りに去っていく。ししがみに何か声をかけた男も、金の箱を大事に抱えてその場を立ち去り……今がチャンスじゃないかと村雨は周囲を見回した。
誰もいない。ししがみは一人だ。
村雨は踏み出す。
きちんと謝りたいが七割。
正面から姿を見たいが、一割。
自分のことを見て欲しいが一割。
声を聞きたいが、一割。
「ししがみ!」
びくりと泥まみれの肩が揺れた。
弾かれたように振り向く。しかしもう、村雨を認めた彼は、笑って迎えてはくれなかった。
「む、らさ、め」
「すまない。先日は兄が非道いことを言った」
「……あ。え」
「謝らなければと思っていたのに、来るのが遅くなってしまって」
「み、たのか」
「何を? あぁ、泥を塗られているところをか?
一の酉の前座日に見た。料金を徴収していたようだから、これもあなたの『生計の道』、仕事のうちになったのだろうと理解した」
「………」
「兄はあぁ言ったが、個人的には、職に貴賤はあってはならないと思っている。芸事であろうが、医師であろうが。……あぁ医師というのは私の父の職で、今は私も目指している職という意味で引き合いに出したのだが」
「………」
「だから、あなたはあなたの仕事をしていることに、何ら引け目を感じることはない。
あなたの頑張りに負けぬように、私も」
「ごめん帰って」
聞きたいと願った声は、感情のない平坦さだった。
見詰められたいと夢見た水色の双眸は、ひどく渇いている。
「し……」
「帰って。二度と来ねえで」
生きてる世界が違うんだから。
兄があの日言った文言を、その小さな唇から発して、ししがみは両手をついて立ち上がる。
そして村雨に背を向けた。もう話すことは無いと言わんばかり。
「しし、がみ」
晩秋の、冷たい夜の空気の中を、ししがみは真っ直ぐに歩いて行く。
その足並みに迷いはなかった。たとえこれから大勢の観衆の前で見世物にされるのだとしても、落ち着いた、美しい姿勢で背筋を伸ばして、薄い身体は天蓋を捲りテントへ消えた。
もう来るなと、言われたとて。
小屋が開けば、少し逡巡したが村雨は入場料を支払う列へと並ぶ。
金を入れる木箱を持つのは、ししがみに泥を塗る列でも金を集めていた男だ。村雨の特徴的な眼鏡のせいか、それとも新宿という土地に馴染まない、生まれ育ちの良さが隠せていない雰囲気か……男は金を入れる村雨に、毎度どうもと声をかけた。
会釈だけして、天蓋を捲ってテントへ入る。
手前の檻には目もくれず、ししがみの檻へと歩を進める。
ぱちゃり、と控えめな水音が耳に届く。続いて清潔な水の匂い。
ししがみを、あの日初めて見た時と同じ。
何かに呼ばれるように檻に近づく。視線は呆然と、うつくしい見世物から離せない。
(……あ)
一瞬、目が合った。
細い金属製の、鳥籠のような、檻の中で水を浴びる彼は、木製の柵越しに見た彼とはもはや別人のようだった。
髪が伸びた。宝飾品のような金色が、肩に纏わりつく。悩まし気におとがいを上げれば、髪は背中を伝い、くっきりと浮き出た肩甲骨を滑る。
肌の上で乾燥した泥は、ししかみが少し爪を立てただけでひび割れ、卵の殻のように桶に落ちた。現れた肌に人々の視線が集中するのを分かった上で、背を反らし腰をくねらせ、ぱしゃりぱちゃりと水音を鳴らす。
存分に視線を集めたら、濡れた手のひらを肌に這わせる。
ゆっくり。ゆっくり。
肌が濡れていく様を見せられる。二の腕の産毛すら金色なのだと、この日村雨は初めて知った。
すっかりと泥の落ちた身体は、白く、薄く、あばらが浮いて、肩口に触れる髪は毛先だけ濡れて束になる。
ししがみが動くたび、腰桶の水が動いて水音がする。それが秘め事を思わせる効果を高めているのだと、童貞の村雨はまだ知る余地もない。
前屈み。檻に近寄り、前方の客へのサービスのようにつぅと視線を流す。
そこに村雨がいると知っている、と分からせるように、瞬きをされる。
長い睫毛。左目の涙ぼくろ。観客の誰かがごくりと喉を鳴らし、異様な緊張感が増す。
姿勢を戻し、今度は背を軽く反らした彼は、両手を自身の胸元へあてた。
反らしたことで浮き出たあばら骨を、下から指先で焦らすように撫で上げ……その動きは夕方、彼が泥を塗られる時にされていた動きと似ていると思った……はぁ、と熱い吐息を漏らす。
軽く開かれた唇は紅潮し、真白い前歯、その奥にちらちらと見える舌はそれより赤い。
あばらを撫で上げた指先は、悩まし気に胸元を這っていた。薄い胸板の中央に、小さな乳頭がツンと尖っている。
その周囲を、ゆっくり、白い指先が、這う。
ししがみの息遣いが荒くなり、吐息に声が漏れ始める。
ついに両手は乳頭をきゅうと摘み上げ、アッ、とししがみの高い声が響いた。声は止まない。ア、ぁ、は、と切羽詰まっていく声と比例して、乳頭を弄る手遊びも淫らさを増し、腰が動くに伴ってぱちゃぱちゃと水が鳴る。
もうししがみは、誰のことも見ていなかった。双眸を閉じて、涙で下睫毛を濡らして、はしたなく開いた口から唾液まみれの真っ赤な舌が蠢いている。まるで絡める、咀嚼する何かを探しているような動きだと、村雨は呆然と見る。
ししがみの肩甲骨には、そして二の腕にも、薄っすらと汗が滲んでいた。
こんな、最後までいたことはなかったから、水に浸かるなら寒いのではないか、と考えた己の見当はずれな気遣いが今さら恥ずかしい。
「あっ、あぁ、っく、ゥ、んぁ」
高く、甘い、嬌声を漏らして、ししがみはぱちゃりと上半身を折って動きを止めた。その背に、肩に、ぎゅうっと力が入っているのが分かる。
「ぁ、あ……」
髪が広がる。舌から涎が垂れ落ちる。余韻に感じ入るように睫毛を震わせて、はぁっと荒い呼吸を繰り返した後、ししがみはゆっくりと目を開けた。
村雨が見ていると、知っている方へ顔を向けて。
気がつけば、今日の興行は仕舞いですよと追われるように小屋を出た。
ぼぅっとしたまま町を歩き電車を乗り継ぎ、帰宅する。祖母宅からの土産だと出された五目ちらしを茶碗二杯食べて、風呂に入って就寝して……
翌朝、村雨は人生初めての夢精を経験した。