The Fall 人生にはいたるところに落とし穴がある。オークション落ちするギャンブラーなどは分かりやすい例だ。落とし穴はこれ見よがしに掘られている場合もあれば、ほんの小さなくぼみのように見えて、油断しているとあっという間に転落してしまうこともあり、避けられるものも、避けられないものもある。
避けられないと悟った時には、できるだけ傷を少なくする機転が必要だ。落ち方や、そのタイミング、這い上がる準備など。落ちないに越したことはないが、どうしようもなく落っこちてしまった場合でも、備えてさえいれば致命傷にはならない。人よりだいぶ落とし穴の多い人生を、オレは今までそうやって生き延びてきた。
だからきっとこの落とし穴も、そうしてやり過ごせるはずなのだ。
「獅子神」
オレより少し低い位置から、感情の薄い灰桜混じりの瞳がこちらを見上げていた。肉の薄い瞼の下で、大きな眼球が微動だにせずオレを見つめている。
「なんだよ。コーヒーか?」
「いらん」
相も変わらず嵐のように真経津がやってきたのは今朝のことだった。ついですぐに叶、それから夜も更けた頃に当然のような顔をして仕事上がりの村雨がオレの家を訪れた。一体オレの家をなんだと思ってるんだと詰め寄りたくなったが、これがうちではなく真経津の家であることもしばしばあったし、なんならオレもそうやって出かけて行ったことが何度もあるので、結局集まった連中に軽食だの飲み物だのを出してもてなしてしまった。こうだから真経津も叶も調子に乗ってどんどん遠慮がなくなっていくんだろう。村雨は単に面白がっているだけのような気もするが。
幼稚園児のような二人は人のソファに転がって散々ゲームで遊び倒し、持ち込んだ菓子を食い散らかして二十分ほど前に帰って行った。村雨も合わせて帰るのかと思ったが、彼はオレが座っているダイニングテーブルの斜め向かいに行儀良く腰掛けたまま、動く様子はなかった。
こいつはいつまでいるんだろう、泊まるつもりなのかな、客間のシーツはいつ変えただろうかと考え始めたところで、村雨はふとオレを見て口を開いたのだった。
村雨の手元のカップは空だったが、まあ確かにこの時間にコーヒーを重ねるのも体に良くはないだろう。じゃあなんだよ、と首を傾げると、村雨はじっとオレを見つめて言った。
「あなた、私に言いたいことはないか」
「はあ? ……ああ、ストリップロインじゃなくてテンダーロインにしろってやつか? そうは言ってもお前、いつもいつも当日じゃそんないい肉入ってねえよ、肉屋でも。食いてえなら自分で外商にでも電話しとけ」
「違う」
村雨はむっとしたように僅かに眉間に皺を寄せた。薄い唇がきゅっとすぼんで、頑是無い子供のような顔になる。賭場での彼は率直に言って化け物そのもののような男だが、オレたちと過ごしている時はこうやって素直に感情を面に出すことも多い。わざとやっているんだとは思うが。オレは時々、擬態したエイリアンか、人間の真似をする怪異のようだなと思うことがある。感情が表情に表れてしまうのではないのだろう。表した方がコミュニケーションが円滑に進むと学習したから、こうやって人間のフォーマットで出力しているのだ。
それがこの男なりの、周囲の人間への歩み寄りだとすれば、不満げな表情も可愛らしく思えた。
「肉の話ではないし、ギャンブルの話でもない」
「……腹なら開かせねえぞ。必要な時以外は」
「それも違うが、その必要ができたら絶対に私に連絡しろ。有象無象に執刀させるな。梅野にも言っておけ」
「ええ……」
いきなり目をかっ開かれるととてもこわい。なにせ村雨礼二なので。
しかし夕食のことでも、ギャンブルのことでも、趣味(・・)のことでもないとすると、一体なんだろうか。それも、村雨がオレに言いたいことではなくて、「オレが村雨に言いたいこと」を問われているのだ。正直、ひとつも思いつかない。
「じゃあなんだよ、他になんかあるか?」
「ある」
「なんでオレのことをお前が断言するんだよ」
すると村雨は小首を傾げた。
「自覚がないのか?」
「だから何が」
「……そうか。あなたのことだ、絶対に挙動不審になると思っていたが、そもそも自覚していないなら表出するものもない。なるほどな。想定外のパターンだ。あなたの鈍さを甘く見ていた」
「なんでオレは罵倒されてるんですかね」
段々うんざりしてきて、オレはため息をついて椅子の背にもたれ、天井を見上げた。あ、照明の埃払わなきゃ。明日やろ。
「獅子神」
不意に間近から声をかけられ、腿に重みを感じて、ぎょっとして首を戻すと、目の前に村雨の顔があった。青白い肌、クマの染み付いた切れ長の目、大きな眼窩に沿う細い眉。通った華奢な鼻筋の下で、僅かに荒れた薄い唇がすうと開いた。
「、……え」
何が起こっているのか分からなかった。
ひんやりとした柔らかいものがオレの唇に触れていた。焦点の合わないほど近くに灰桜の瞳がある。短く色の薄い睫毛が陰を落としている。冷たい大きなレンズがオレの頬に押し当てられ、すぐに温くなる。
——なんだ。何が起こっている。
上唇を食むように挟み、小さな吐息を残してそれは去った。
「な、……」
ふふ、と色の悪い唇が笑みを作った。レンズの汚れを指先で拭いながら、村雨がオレの腿に乗り上げたまま笑った。
「あなた、私に執着しているな? こういう、そう、こういう欲望をもって」
細い、骨張った指がオレの耳に触れる。
「もうずっとあんな風に見ているのに何も言わないから水を向けてやったつもりだったが、まさか自覚がないとはな。ふふ。実に面白い」
執着。欲望。——オレが? 村雨に?
村雨はすっとオレの腿から降りると、そのままコートハンガーからジャケットを取って、笑みの名残を頬に残したままオレを振り返った。
「なかなか愉快だったぞ、獅子神。ではまた」
ぱたん、とリビングのドアが閉じ、やがて玄関の扉が重い音を立てた。
オレはぽかんと村雨を見送り、すぐに真っ赤になり、それから真っ青になった。
執着。
欲望。
村雨礼二に。オレの人生で初めて得られた友人の一人に。オレの目を開かせ、ハーフライフを生き延びる手助けをしてくれた男に。
——それは、それは別の名前で呼ばれるものだ。
そして、決してそこにあってはいけないものだ。
眩暈がした。テーブルに額を押し付けて呻く。絶望が嘔気になって込み上げる。
なんでだ。どうしてだ。どうしてオレはそんな。村雨の勘違いじゃないのか。いやあの男が間違えることなどない。オレは村雨に、村雨を、——…。
「うそだ」
嘘じゃない。分かってしまった。指摘されて、名前がついて、理解してしまった。それはそこにあった。気づかなかっただけで、気づきたくなかっただけで、村雨の言う通り、そこにあったのだ。
オレは村雨に恋をしている。
醜い、どうしようもない、なんの価値もない恋を。
汚物のような恋を。
テーブルの上にぼたぼたと涙が滴った。いっそ死んでしまいたいと思った。村雨にそんな目を向ける前に、それを村雨に悟られる前に、死んでしまっていられたら良かったと思った。
時間を巻き戻したい。こんな間違いを犯す前に戻って、なんとかしてその感情を取り除いてしまいたい。村雨にこんな、こんなにも醜い感情を見せてしまう前に、取り出して擦り潰して埋めてしまいたい。
村雨にこんなもの見せたくなかった。
村雨をこんなもので汚したくなかった。
村雨のともだちでいたかった。
夜が明けるまでのたうち回って、それから、忘れよう、と思った。
人間の感情はあやふやで、不確かで、捻じ曲げることができるものだと、捻じ曲げられてきたオレは知っている。
だからこれも捻じ曲げてしまえばいい。捻じ曲げて、丸めて、箱に入れてどこか深くに押し込めて忘れてしまえばいい。
村雨に知られてしまったけれど、村雨はオレの感情なんか気にしないだろう。今日はオレの感情と行動が一致していなかったからつついてみただけで、本来興味なんかないはずだ。あの口づけだって、オレを揺さぶる手段にすぎない。オレがきちんとこの感情を消してしまえば、あれも全部、なかったことになる。
蓋をして、見えないところにやってしまえば、オレはまだ、村雨の、あいつらのともだちでいられる。
いつも通り小言を言って、メシを食わせて、ギャンブルの腕を揶揄われて、だらだら笑って過ごすことができる。
変わらないでいられる。
人生にはいたるところに落とし穴があると、オレは知っていたはずだった。
これ見よがしのものも、ほんの小さなくぼみも、避けられるものも、避けられないものも。
オレはこれまで、落とし穴を避けて、這い上がって、そうしてなんとか生き延びてきた。
だからきっとこの落とし穴も、そうしてやり過ごせるはずなのだ。
きっと。