あさ 見上げた夜はもう自分の知るそれとは異なって見えた。見知ったはずの風景も、ほんの少し足が遠のいた間にここはもうお前の街ではないのだと様変わりする。確かにもうこの街には用はない。アイツがこの街から消えたと同時にこの場所の意味は、もう消え去った。
深夜であればこの街の空には上へ上へと向かう細長いビルが蛍光色のネオンを競う。赤、ピンク、橙、青、緑、紫、白。並ぶネオンの中でひとつだけ、なんどもなんども足を運び、過ごした日々が頭の隅でもやりと霞む。追いやるように目を細めれば、最後の抵抗なのだと瞼のなかまで残像が追いかけてくる。
空が暗夜から薄あかりへと変わり始めるころにはあれほどに競いあったネオンもひとつふたつと灯りを消して、あたりは飾り気のない姿を現していく。ひとの気配が薄れるこの時間になると男の店も賑やかさが一掃されて静かなものだ。そのタイミングに合わせて男は決まってビルの裏階段から外に出る。目覚まし代わりの一服と朝食代わりの缶コーヒーを買うためだ。咥えタバコで非常階段にもたれるその姿に、その習慣は相変わらずなのだと、男が今も変わらず暮らしているのだと、思う。男が変わらずにいることに、消えることのないアイツのくぐもりが和らげばいい。
こんな人の気配も喧噪も薄れたこの時間なら、人の目も噂も取り払ってただの一言を交わすことも難しくはないはずなのに。そう口にすれば、オマエの方こそ、そうアイツは言うだろう。
削げた頬と煙を吐く仕草、長い足を組んでもたれる姿。そのひとつひとつは似て非なるものであるはずが、その姿にアイツの姿が思い重なるのはなぜなのか。アイツはその男を育ての親なのだと口にした。父とは言えず家族とは言えず、別れを告げることも、無く。
疎遠になって久しぶりに見るその姿は記憶よりも少しばかり小さく見えた。ちくり。呵責を狙い差す銀の針は薄く覆う狂気に守られ跳ね返される。行き先を失い払い落とされた針先は足元に落ちる。踏みつぶしてしまえば粉々になって吹き溜まりへと吹き飛んでいく。感傷はもう届かない。
伊達を売りにする男がその僅かな間に萎れたように、ならば大きな屋敷にひとり残された年寄りは。
胸に濁る感傷に瞼を閉じてその面影を消し去った。棄てたのだ。アイツも、自分も。たったひとつ以外はすべて。たったひとつだけを選び、すべてを棄てる。
「久しぶりだなぁ小僧」
よう、と正道は短くなった煙草を軽くかざす。ビルの4階から身を乗り出して柱の陰に潜む万次郎をまっすぐに見下した。
「随分険しい顔してんじゃねぇか」
万次郎へ向けて細めた目じりに疲れが滲む。そんな悩まし気な目つきまで似通っていた。
「こっからでもちゃんとオマエの顔ぐらい見えてるぜ。オレは目はいいほうだ。見知った顔ぐらい見分けはつく」
指に挟んだ煙草を手元のケースで打ち消して、パチンとしまう。万次郎が現れたことで正道の頭の中にあって消し去ることができないでいた疑いはたちまち確信へと変わる。もう煙ごときでは紛らわせない。
「言えよ、マイキー。あれは、ーーニセモノだったのか」
堅の死は突然だった。天気はどうだ、飲みかけのペットボトルは捨てた、そんなたわいもない会話をしたばかりの翌日に突然に告げられた。駆けつけた時には冷たい寝台の上に横たわり顔には白い布切れがかかっていた。あっという間に正道の背丈を追い越して、あっという間に手に収まる小さな箱に詰められて。随分とせわしないゴッコ遊びだったなと拭いきれない憐みを無理やりに煙の向こうに追いやった。
なのに。違和感が消え去らない。手の中に納まる箱には情の欠片も沸いてこない。軽いのだ。収められた魂の残骸も込み上げる感情も。どこか嘘ぶいてふわふわとして実感が伴わない。堅の死がどうしても正道には腑に落ちない。
「アイツはオマエのとこにいるんだろ、マイキー」
正道は階段の手すりに前かがみに腕を組む。古い手すりはぎしりと軋む。正道の挑む目に答えを返す代わりに万次郎はニヤリと唇の端をあげる。例えば今突風が突き上げたなら、あの古い手すりを吹き飛して崩れ落ちてしまうのに。そしたらアイツは刺さり抜けないちいさな棘にうずくことはない。
明けていく朝はビルとビルの隙間の暗闇さえ奪いマイキーをしらじらと染める。薄明りに照らされて明ける朝の中、飴玉のような瞳だけがてらりと浮かぶ。
「ケンチンはあげないよ」
気まぐれに拾った子供は事件に巻き込まれあっけなくこの世を去った。身よりのない亡骸を弔い過ぎ去る日々に、共に暮らした記憶は当たり前のように無力に薄らいでいく。過ぎる日常に消化され顔も名前も忘れられてしまえばいい。堅が正道に残したのは龍宮寺堅の三文芝居のような生涯だった。
けれど万次郎はそれを許さない。例え薄っぺらいニセモノの紛いものであったとしても堅の生きた欠片を自分以外に分け与えることは許せない。堅は全部、万次郎ひとりのものだ。万次郎だけのものだ。正道に分け与えた安らかに終えた偽りの堅の生涯も残らず全部奪い取るために、万次郎は正道の前に現れた。
「ケンチンはアンタの元には帰らない。ケンチンはオレのもんだから」
例えニセモノだとしても堅の最期を渡さない。堅の情も命も全部が全部自分のものだ。なにひとつ渡さない。だから返してもらうよ。
堅が正道のために残した優しい偽りの死は渡さない。
問い詰める目を向ける正道に、万次郎は酷く残酷に満足げに微笑んだ。
正道の元に残された堅の欠片を奪えばもうここには用はない。見下ろす視線に万次郎は背を向ける。
「マイキー!」
呼び止める正道に万次郎は振り返ることはない。
「ケン坊を、頼む」
しゃがれた正道の声は散らばる記憶の残骸をつついて鳴く、烏の声だ。ギャアと洩らした甲高い鳴き声は耳に慣れてしまえば疎ましい雑音でしかない。男の元に届けられた堅の死を奪ってしまえばもうこの街には意味はない。
◇
厳重なセキュリティの施された高層ビルの最上階。星にさえ手の届く場所が万次郎の住処だ。素足で踏みしめてもペタペタと生活音をたてることはない。
万次郎にはたびたび誰にも知られないままひとり姿を消すことがあった。行き先も告げずひとりきりで雑踏に紛れて過ごし、いつの間にか帰ってくる。けれどそれも過去のことだ。万次郎が人知れずに姿を消す理由、それを手に入れたから。
それが今日の日に限って万次郎の姿がどこにも見つからない。連絡もつかず姿の見えない万次郎を探してひと悶着が置きかけたところに万次郎が帰宅した。足早にフロアを抜けて奥へと急ぐ万次郎に詰め寄ったのはチームの参謀と呼ばれる男だった。
「探したぞマイキー」
眉を寄せて声を潜める一に捕まれば面倒だ。
「どこへ行こうがオレの自由だ。干渉は許さねぇ」
「アンタがどこでなにをしていようが興味はない。ただしアンタの留守中のくだらないもめごとに巻き込まれるのはごめんだ」
「なにをした」
万次郎はピクリと反応すると答えを待つよりも先にフロアの最奥の部屋へと走り出す。たどり着いた扉を力任せに開く。開け放たれて扉の向こうでは突然に表れた万次郎に目を見開いて驚く春千夜とーーベッドから起き上がる堅がいた。
万次郎の形相に春千夜は起き上がる堅に振り上げたこぶしを瞬時におろし、乗り上げたベッドから飛び降りた。
「ケンチン…!」
万次郎は堅に飛びついた。飛びついてぎゅう、と抱きしめると堅は支えきれずにぐらりと揺れる。思わず片手をベッドについて、飛びついてきたマイキーを抱きとめる。堅は思わず小さな痛みを口にする。
「ごめっ…、ケンチン」
「大丈夫だ。もう痛みはもうほとんどない」
少しやつれた堅の額にはうっすらと汗がにじむ。
「熱?痛むのか?」
言って触れた堅の腹には何重にも包帯が巻かれたままだ。
「春千夜。命じたはずだ。なにをしていた」
明らかに怒りを含んだ低い声に春千夜はあからさまな不満を隠さない。眉を潜めて抗議する。
「オレは命令通り医者も呼んだ。それをコイツが勝手に追い返して薬も水も飲まねぇだけだ」
見ればサイドテーブルには出しっぱなしの錠剤と手の付けられないままの水差しが並んでいる。春千夜の言葉には嘘はない。万次郎は子供に言って聞かすようなまなざしで堅に向き合った。
「ケンチン、頼む。おとなしく…今は養生を優先にしてくれ」
「自分のからだのことは自分がいちばんわかってる。腹の傷はもう問題ねぇし、オマエの目の届かないところで一滴の水も口にする気はねぇ」
「オレらがつまんねぇ薬でも盛るとでも思ってんのか、あぁ?」
「黙れ」
威嚇する春千夜を制するのは万次郎だ。それが益々春千夜は気にいらない。
「誰のおかげで命拾いしたのかわかってんのか、テメェ。後先考えなしに、のこのこしゃしゃり出てきやがって、あげく生身で銃弾なんか打ち込まれやがって馬鹿野郎がよ。マイキーが手を回さなかったら今頃オマエはとっくにあの世行きだ」
「下がれ」
「どのツラ下げて偉そうにふんぞり返ってんだ。なんとか言いやがれクソ野郎っ」
「春千夜、下がれ」
一方的にいきり立つ春千夜に万次郎の叱責が響く。万次郎の傍らで、堅は春千夜に向けて眉ひとつも動かさない。鎮かなままだ。
「うるせぇよ三途」
「あぁ?」
「オレはオマエらと徒党を組むつもりはねぇ。オレはマイキーを選んだだけだ」
「腹に鉛くらった死にぞこないが、番犬気どりか。起き上がるのがやっとのくせして、吠えることしかできねぇ役立たずが、」
嫌悪を露わに吐き捨てる春千夜にどうしたって堅の感情は動かない。
「番犬にもなれねぇヤツに言われる筋はねぇな」
ふ、と口元に余裕の笑みすら浮かべてみせる。
「テメェ…」
とびかかる勢いの春千夜に今度こそ万次郎は有無を許さない。
「消えろ春千夜――邪魔だ」
万次郎は絶対だ。チッと不満を投げ捨てて、春千夜は沸き立つ感情そのままに扉に向かい開け放ったままの扉をばたんと大きな音をたて閉じた。
扉を閉じてしまえば世界にはふたりきり。万次郎の危い鋭利さは消える。
「熱でてんの、腹の傷、うずくんじゃねぇの」
万次郎はいたわるように堅の腹部に触れた。
「疼くぐらいの痛みは残ったほうがいい。痛みがあるくらいのほうがーーオマエを近くに感じられる」
「なに、それ」
「タケミっちが動きだしてんだろ、聞こえてた」
「…うん、」
堅はできるだけそっと、俯いた万次郎の頬に触れた。ふれた頬の感触は手のひらにしっくりと収まった。万次郎は自分の頬を包む大きな手に触れる。ごつんとした皮の厚い骨ばった手はいちど暴力を手放した。子供のころからの夢を叶え真っ当に生きた男をもういちどこちら側に引き戻したのは万次郎の執着だ。
仲間のために銃弾に倒れ死にかけた男を汚い金とコネとを総動員して、道理さえ曲げさせて無理やりに命を繋いで生き返らせた。
真っ白な顔をして眠るように穏やかな顔をして、死にゆく男を静かに眠りにつかせてやることもできたのに。
たったひとつの命を懸けた男をもういちど抱き寄せてしまえば、もう手離すことはできなかった。悪魔の取引でも構わない。魂を売り渡してでもこの男だけは失うことを赦さない。何時間も生死の渕を行き来して危い境界をさ迷って、消え去る魂の端を血まみれの手で繰り寄せ沈む命を引き上げた。
朦朧と白い靄のかかる世界から閉じた瞳をこじ開けられて、再び引き戻されたうつつの世界には、万次郎がいた。万次郎が堅の目覚めを待っていた。
そうして堅はすべてを捨てた。過去も憂いも矜持も全部。万次郎を選び、万次郎以外の全部を、棄てた。
「そんな顔、すんな」
「そんなって、オレどんな顔してんの」
「わかんねぇか?」
「自分の顔、わかるわけねーじゃん」
く、と小さな笑みが浮かべば堅の胸の内はじわりと滲む。
もっと、もっと。もっと。ささやかな笑みも密やかな執着も、もっと焦がれて浮かされるほどに、ただひとつが恋しいと思う。恋しくて愛おしくて。万次郎以外すべてのものに背を向けた。
「教えてやる、」
堅は熱に焦れたふりをして、小さく笑う唇に吸いついて蜜の舌を味わった。