我儘 約束の時間が過ぎていることはわかっていた。それでもまだ、アイツは待っているだろうか。待っていてくれるだろうか。強面の見かけに反してなにごとにも誠実なアイツのことだ。現れないオレに愛想を尽かして帰ってしまっているだろうか。ため息をつきながら、それでも、まだ待っているだろうか。
やっと来たか。溜息まじりの声を思い出す。眉を潜めてしかたがねぇなという顔をして、心地良い沁み通る声でオレを呼ぶ。
あの声があの囁きがあの息遣いが忘れられないはずなのに。シナプスの奥をゆらりと不安げに揺れ、ぷかり浮かび現れるのは、宙を切り割く殺傷音と腹を突き刺し厚い肉を抉る重い感触と、硬い骨を砕く音。
なんどでも頭の中を腐食し劣化した残像がフラッシュバックする。鼓膜を突き抜け弾半規管をざわりと撫でる閃光が一緒くたに混ざり合って嘲笑い、アイツの輪郭をかき消していく。
会いたい。そのひとことを伝えるのにひどく迷って伝えたとたんに後悔した。会いたい、会いたい、会いたい。会いたくて会いたくて、とうとうアイツを呼び出した。
通りに面したその店の窓ガラスは少し曇っていて、ためらいがちにのぞいた店内はうすらぼけてよく見えない。重い木枠の扉は痺れる指で触れたとたんに意地悪な魔法が働いて、カランと鈍い音を鳴らす。は、と詰まる呼吸と同時に扉は開かれる。
少し埃の匂いがした。薄暗いオレンジの照明にくらりとする感覚に目がまわる。覆う奇妙な重みが手足を縛る。引き返そう、そう足を浮かべた瞬間に呼び止められた。
「マイキー、」
そのたったひと声で呼吸が奪われる。鉄の楔が手足を縛る。ぐっと力を入れた手も足も囚われて、首を掴まれたようにすいっとからだが浮いてアイツの前に引き寄せられた。
「どうした?座れよ」
くい、と促したのは目の前の席。ひとことでも発してしまえばどくどくと唸る心音はたちまちに悟られる。
「久しぶりだな、マイキー」
無言のまま向かいの席につき視線を交わすことを避けるように深く座ればテーブルの上には手付かずのままのコーヒーがひとつだけ。当たり前のように、あの声がオレを呼ぶ。
それを合図のように、スっとオレの目の前に置かれたのはお子様ランチ。驚いて顔をあげると見知った顔でひとまわりも衰えしおれた姿のマスターが皺に埋もれた目を細めて立っていた。
「こんなの…頼んでねぇよ」
「オレが頼んどいた。久しぶりだろ、こんなのも」
当たり前のように用意されたいつかの日の好物には当たり前のようにお手製の旗がひとつ立てられる。
あぁ、と思う。あぁ、と込み上げる。甘く苦く鈍く深く責め立てる。脳を溶かして腐食する毒が刺す。
旗のないお子様ランチを出す店を選んで入り、当たり前のように無いはずの旗を出せと駄々をこね、当たり前のように用意された旗を目にして喜んだ。自分のために作られた小さな細工に喜んだ。
オマエはどれだけの間、これを懐に入れたまま、もういちど必要になるその時を待っていたのだろうか。しわくちゃになったそれを、頭の隅でようやくに想う。
「オレ、こんなのもう食わねーよ」
「いいじゃねぇか。どうせオレしか見てねぇよ。好きなモン食えばいい」
「オレがまだこんなの、好きだと思ってんの」
「好きだろーがよ」
テーブルに片ひじをついた手に軽く頭をのせて、ナナメの視線を投げかける。ヒヒヒ、と白い歯を見せてからかうようにして笑う。ケンチンが、笑う。
その男が睨みを利かせればそこいらが背筋を震わせて声を詰まらせ顔を強張らせた。ドスの効いた低い声がひとつふたつ命じれば、たいていのヤツが震え従った。番犬と揶揄する声ももろともせずに離れずに傍らに居た男。オマエに命を預けると言った男の体温が遠くなったのはいつのころからなのか、もうわからない。
カチャリと軽い音をたて皿の端にスプーンを這わす。「…食うけど」とぼそり答えて上目遣いに盗み見た顔には見知らぬ影を忍ばせて、それでも変わらず笑ってみせる。変わらずオレの食べる様子に笑ってみせる。
あいの言葉はなかった。けれどあいするならば、あいされるならば、オマエがいいと。オマエがいればいいと、そう口にすることができなかった。
最期まで、言葉にすることができなかった。
「オマエは好きなモン食って好きなようにして、好きなように生きればいい」
目に言葉に声に。薄く向こうの煤けた姿に。僅かに残るオマエの切れ切れの輪郭がようやくに繋がって、もうこの世にはいない、オマエのありったけが愛しているのだと告げてくる。
「ケンチン、ケンチン、ケンチンーー」
テーブルで握る手に指を重ねてもそこには温もりはない。ごつりとした硬い拳の感触を覚えている。重ねたてのひらには確かに骨ばった拳が感じられるのに。なんどもなんどもあるはずの感触を確かめるように撫でれば硬い感触が手のひらを跳ね返す。確かにそこに、目の前にいるはずなのに。
「…冷たいよ…、ケンチン、冷たい」
寒い季節はニガテだと言った男の手は冬の季節よりももっと、正気を投げつけるようにひやりとした正体を知らしめる。
「こんなんじゃ触れることもできねぇな」
ごめんな。
そう薄く目を細めた顔にじくりと焦がす。
頭ひとつ大きなからだを屈めて交わす特別な視線を覚えている。両の手を首に回せば覆いかぶさるようにして腰を抱いて抱き寄せて、寄せた頬の感触を覚えている。
視線を交わすために背を屈ませる男の懐に潜り込んだのは、あのひやりとした体温に、灼けて爛れて焦れてうずく衝動をうずめ、いっそひとつの肉の塊に成り果てたいと願ったから。
どうしようもなくオマエへと沸き上がる残虐を鎮めることのできるのは、オマエの腹のなかだけだった。
それを知って。
それを知っているから、オマエはーー
「駄目だよケンチン」
オレはオマエを離さない。オマエが傍にあればいい。魂がオレの傍にあればいい。例えその身を失い浮遊する意識だけになったオマエでも、オレはオマエを放さない。
ヒトとして器を失ったのなったのならオレを思う気配のままオレの傍らに居続けろ。あの世なんかへ行かせはしない。死して尚、オレを鎮めるためにオレの傍らに在り続けろ。
オマエはオレのために在り、オレのために死して尚、オレのためにだけ居続けろ。
オレは、オマエしか、いらない。