雪の日 集会のない夜は暇だ。しかも今日の予報は「夕方から雪」。予定のない放課後をどうするか、決まらないまま万次郎と堅は下駄箱までにたどり着いてしまった。カコンと軽い音をたてて万次郎は下駄箱から靴を取り出した。
「ほんとに降ってきやがった」
一足先に玄関先に出た堅の背中に万次郎は駆け寄った。空に向かって睨みを利かす堅の隣に並んでふわりと落ちてくる白い粉雪と眉を寄せる堅を見比べて、つい口元が緩む。
寒さに肩を窄める堅の隣で「ケンチン、見ろよー」と万次郎は粉雪が舞う空に向かって緩く白い息を吐く。ふたりで並んで見上げた空に白い息がふわりと浮かんで消える。ふわりふわりと白い結晶が舞う空を難しい顔をして睨む堅をこっそりと覗く。
どんな時でも背筋をピッとして胸を張って堂々として、自分より頭ひとつぶん空に近いところにいる堅が、こんな時はほんの少しだけ万次郎に弱気を漏らす。万次郎とふたりきりの時にだけ、ほんの少しだけ、漏らす。
寒さに耐えるようにぐっと腹に力を込めて肩をいからせる堅はブルゾンを羽織っただけの軽装で、対して万次郎は冬の装備の上に首元にはマフラーをしっかりと巻き付けている。
「だからこれ返すって」
「いいからしとけ」
万次郎の首元に巻かれているマフラーは堅のものだ。廊下を通り抜ける冷たい空気にくしゃんと跳ねた万次郎に堅は自分のマフラーを巻き付けた。
「寒いの苦手なくせに」
首に巻いたマフラーに埋もれて漏らした万次郎のひとことは、しっかりと堅に聞こえている。
「なんか言ったか」
「べっつにー?」
じろりと睨む目に、へへ、とマフラーを引き上げればふわと覆う匂いがくすぐったい。
寒いのは嫌いじゃない。人より少し寒がりの堅は人より少し万次郎に甘い。冬の寒さにつけこんで距離を詰める万次郎に堅のガードは一層緩められて尚更甘い。それをしっかりと意識して万次郎は自信ありげに手を差出した。
「手、つめたい」
「あ?なんだよ」
「つ・め・た・い」
言ってぎゅと指をつなげば堅の指先こそ凍ったように冷えている。
「おまっ、ガキじゃねぇんだから手とか冗談、」
「誰もいねぇし、いたとしても誰もヒトんことなんて気にしねぇだろ。それにオレまだガキだしー」
「オマエ、ホント、都合のいいときばっかガキぶんなよ」
「ケンチンの手、冷てー」
万次郎に握られた指はまるでそこが急所だとでも言うように、あっという間に万次郎の体温にほだされて、じわりとしびれるように温まる。抗うことのできない温かさに、堅は仕方ねぇなとそっと握り返してくる。
堅の素直な反応に、お、と上目遣いに見上げれば、堅は万次郎の視線から逃れるようにそっぽを向いた。そのくせつないだ指を絡ませぐいっと引き寄せて、そのままブルゾンのポケットの中に突っ込んだ。
狭いポケットの中、堅はしっかりと万次郎の手を握る。ふいと明後日のほうを向く堅の耳が薄く染まって見えるのは果たして寒さのせいなのか。万次郎の機嫌をひどくくすぐって、緩くほぐしてとろかせる。じいと見つめる万次郎から視線をそらしたまま、「寒いからだぞ」と念を押す。
「肉まんでも買うか」
「オレどら焼きがいー」
「それじゃ意味ねぇだろ」
「じゃぁ、あんまん」
少しだけ不満げな万次郎の代案に、堅はやっぱりなという顔をする。
「ホント、そういうの好きな。毎日おんなじようなもんばっか飽きたりしねぇの」
「…飽きる?」
「おんなじもんばっかで、もう要らねーってなんねぇのかってこと」
そんなこと、考えたことなかった。
好きだから毎日、毎日毎日、好きばかりを繰り返す。好きで、好きで、大好きで。好きがどこまでも増えていって終わりがあるなんて考えてもみなかった。
どれだけ一緒に過ごしても飽きることも足りることもない。ずっともっと、一緒を分け合う時間が欲しくなる。それがいつかもういらない、なんてことになってしまうのーー?好きで好きで、大好きなのに、それはいつか終わってしまうのーー?
こんな誰よりもそばにいて、それでもどうしてまだ、と思うのか。どうして足りないと思うのか。
マグマのように渦を巻いて蜷局を巻いて孕む熱が堅にだけ向かう。抑えても沈めても煮だつ熱量をどうしたらいいのか、どうしてしまいたいものか。抱えきれない感情がいっそ全部伝わってしまったら。
仄暗くぬらりと濡れる黒い目が堅へと向かう。いっそ。そう唇から漏れる。
「ーーケンチン、」
漏れ出たその声音の浅ましさにぎくりとして万次郎は思わずそれを飲み込んだ。俯く万次郎を訝る堅に、万次郎の疼きは冷や水を浴びてしずしずと鎮まっていく。
伝わらないほうがいい。伝わらなければ堅にとってはほんの一瞬、些細なことで終わる。なにもなかったように、消える。ふいにポケットの中の万次郎の指先の力は抜けて、絡めた指さきは解けて緩んでいく。
なのに万次郎の沈みを察知したように、堅はポケットの中の指先を逃すまいとぎゅうっと握る。
「どうしたよ?」
少しだけ鼓膜に重く甘たるい万次郎の好きな堅の声。万次郎のためだけの音。離れようとする指をつかむ堅の長い指先は、しっかりと意志をもって万次郎を繋ぐ。
「どうかしたかよ?」
堅の長い指はしっかりとぎゅうっと万次郎の指を絡ませ繋ぐ。しっかりと。ほどけてしまわないように。繋いだ指の力強さに万次郎は思わず堅を見返した。
「…そんな顔、すんな」
狭いポケットの中で逃すまいとした指は繋いだままだ。
「オレ以外にそんな顔、絶対すんな」
「ケンチン?」
「そんな顔、オレだけにしとけ」
そう言って堅は長い指を絡めて握る。離れてしまわないように。放つ熱を逃してしまわないように。言葉にもならない“それ“を逃してしまわないように。
眉を寄せて唇を尖らせたその顔に、万次郎の腹の底には甘い痺れが滲み出る。堅自身にもわからないだろうその感情の欠片に密かに腹の底をじゅくりとさせる。
いっそ、と思う。
(疼いて痺れて熱くなるその意味が、いっそ伝わってしまえばいい)
万次郎は絡めた指が離れないようにと身を寄せる。小さくうつむき、絡める指に囚われたまま万次郎はもう逃げない。狭いポケットのなか伝わる温かさを分け合った。絡めた指に互いに分け合って、温かいと思う。
白い雪の下にはふたりだけ。身を寄せるふたりを守るように雪が舞う。誰も見ていないから、こんな寒い雪の日なのだから。見守るようにふたりに雪が降りてくる。
「…へへ」
すりっと頬を寄せる万次郎の頭上にはキラとちいさな雪が舞う。ちょいちょいと払うくすぐったい気配に万次郎は堅にむけて小さく笑う。少し上を向いた小さな鼻を赤くして薄く吐息を漏らす顔に堅はゆっくりと顔を傾けて屈む。
触れた唇が冷たくて、とても。とても恋しいと、思った。