Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    リルノベリスト

    @DAm7qs9EQXaV27V

    ↑ログインできなくなりました
    今のアカウントは@lilno_kiruao

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 14

    リルノベリスト

    ☆quiet follow

    MORE MORE JUMP!MORE MORE JUMP!
    ガコン、と取り出し口に缶が落ちる。その場でプルタブを開け、リンゴジュースを疲れた喉に流し込んだ杏はふぅと息を吐いた。稽古や打ち合わせのためにたびたび事務所に来るが、いつ来てもここは汚辱と怒号に満ちている。時々、優しさ。

    「この前のラジオ、あれ失言だったよね。ちゃんと自分で分かってる?」
    「は、はい……ごめんなさい……」

    曲がり角の向こうでは、同じグループの先輩後輩らしき女性たちがそんな会話をしていた。肩を縮めて萎縮する小さな女子の体をこっそりと覗き見て、なおも高圧的に説教する女性に杏までつい肩を強張らせてしまう。

    「あんたももう三年目なんだから、ちゃんと考えて行動してよね」

    ひえー、と肩をすくめ、息をひそめつつ足音を殺してその場を離れる。周りを見ると、きっと自分たちのマネージャーやプロデューサーなどはまだまだ放任主義、または甘い方なのだろう。つい先日のワンマンライブでは「身内ばかりで採算を取ろうなんて二度はないからね」と釘を刺されたばかりだし、ラジオやテレビになど出そうものなら何を言うか分からないとライブイベント以外は規制されているが。

    「あ、おかえり、杏」
    「ジュース買えたんなら一口貰っていい? 私のスポドリなくなっちゃった」
    「あれ、結構残ってなかったっけ?」
    「お姉ちゃんがほぼ飲んでたの気付かなかったんだよ」
    「ご、ごめんなさい……ついさっき今日持ってきてたの豆乳だったなって思い出して気が付いたの……」
    「ぶはっ! 気付かなかったことより何で豆乳持ってきたかの方が気になるんだけど! いーよいーよ、遠慮なく飲んで!」

    しゅんと萎れる雫の肩をバシバシ叩きながら志歩に飲みかけの缶ジュースを手渡す。今のYUME YUME JUMP!はとても居心地が良い。奏は挫けないための支えになってくれるし、雫は経験をもとに守ってくれるし守らせてくれる。そして志歩は進むべきとき、進みたいときにその意志を認めて一緒に走ってくれる。

    あら、と雫が声を上げる。スマホからピロンと大きな通知音が鳴ったからである。ロック画面に浮かぶバナーを見て「マネージャーさんからだわ」と不安を滲ませる声が言った。バナーをタップしようとしてスライドしてしまった雫を「がんばれ」「まずはロック画面からホーム画面に!」と奏と杏とで応援する。メッセージアプリであれば志歩がきちんと配置し直してくれたから分かっている。吹き出しのマークを押し、……何故かすべてのアプリアイコンが震え出した。長押ししちゃったから、と奏が苦笑する。

    「もう、何やってんの……お姉ちゃん、貸して」
    「ご、ごめんなさいしぃちゃん……」
    「あーっ志歩! 雫の成長になんないじゃん!」
    「まぁそりゃ、ずっとこれじゃ困るけど。はい、来月のスケジュール確認だってさ」
    「ありがとう、ごめんなさいね」

    スマホを受け取り、覗き込んだ拍子に髪が横顔を覆った。そんな雫を見つめる志歩の険しい顔をきょとんと意外に思いながら見て、杏は彼女の置いたリンゴジュースを口にした。
    上手くやれている、と思う。だがこのまま事務所で活動を続けることが、YUME YUME JUMP!にとって良いことなのだろうか。ずっと今のように誰かに怒られたり蔑まれたりすることが続いて、雫はそれが嫌で一度辞めようとしたのではないか。志歩と杏はそれをその程度と片付けられる。だが、奏と雫はどうだろう。割り切ることが苦手な二人にとっては、この環境は良くないような気がする。

    「……久しぶりに連絡取ってみよっかなー……」

    とかく、杏にはこの事務所が普通なのかさえ分からない。であれば自分たちよりも、アイドル業界や心構えに詳しい人間と話をする方がいいだろう。可愛い相棒を自慢もしてやりたいし、向こうは向こうで心配だし。元国民的アイドル桐谷遥は、一度アイドルというものに打ちのめされた人間である。最近はお互い忙しくて会っていないが、彼女はもう普通の女子高生になれただろうか。


    ────────────────


    かくして平日の放課後、時間を空けてもらって小学生以来の親友とチェーン店である街中のカフェで待ち合わせをし、杏は約束十分前にその中でチーズケーキを前にフラペチーノを飲んでいた。その対面へ何も言わず座り、何も言わないまま店員を呼んでコーヒーを頼んだのが桐谷遥である。

    「店員さん、コーヒーひとつお願いできる?」
    「あ、はーいっ!」

    変装はしていないが、どんな眼鏡よりマスクより立派な無表情が張り付いている。ありのままの素材だけで凛とした美しい顔立ちを、彼女は弾む声の店員がキッチンへ行くのを見送ってから杏に向けた。

    「アイドルになったのにずいぶん太りそうなもの飲んでるね」
    「久しぶりに親友と会った第一声がそれ?」

    くつくつと喉を鳴らすように笑い、杏は頬杖をついてその顔を見つめた。「飲む?」とフラペチーノを差し出すとすげなく断られる。分かっていたことだから杏はそのまま自分の口にストローを運んだ。

    「食事制限とかまだキッチリやってる感じ? 相変わらず自分に厳しいっていうか」
    「まぁ、ショーキャストだからね。アイドルよりむしろ気を張るよ」
    「ふーん、じゃあもしかしてその顔も緊張してるだけなの?」
    「顔? ああ、表情……それは違うよ。この方がどんな演技にもすぐ入れるんだ」
    「それ日常生活でも要るスキルなの?」
    「私にはね。今は私、誰にでも好かれる人になりたいから。けど、杏にはそういうの別にいらないだろうからこのままでいるだけ」

    ふぅん、と頷いて、それ以上は言わなかった。置物か絵画のような生気も輝きもない無表情、それでなお肌の白さや澄み切った氷のような瞳に目を惹くものがあるというのだからすごいものだと感心や尊敬は覚えている。きっとそれは遥のストイックな習慣を貫徹している日頃の賜物なのだろう。そしてそんな彼女にとっては、アイドルを辞めてなお根強いファンが大勢ショーステージに流れ込んでいるだけではまだまだ理想のキャストとは言えないのだろう。向上心が強いのは良いことだ。
    遥はふっと顔を上げた。四人席の残りふたつの空席を見つめる。

    「今日一緒に呼ぶって言ってた友達は?」
    「まだ来てな~い。はっ、今日暑いし溶けてるかも!?」
    「溶け……? まぁいいけど、そっちはどうなの? 雫効果で良いスタートダッシュは切れてそうだけど」
    「まぁねー、新人にしちゃあありえない数のファンから始まってるし、スタートダッシュはまぁすごい良かったと思うんだけど……」
    「……?」

    カランコロンとベルが鳴る。いらっしゃいませー、と跳ねるほど元気な店員が出迎えに行ったその長い髪の持ち主を見て、杏はあっと声を上げた。

    「奏ー! こっちこっち!!」
    「あ……」
    「杏、お店なのに声が大きいよ」

    ちら、と遥が入り口からとてとて歩いてくる奏の姿を振り返る。気弱そうな子。テーブルに向き直り、店員にカフェラテを頼んでから少し杏に椅子を寄せつつ座った彼女に向かって、遥は控えめながらはにかむように笑ってみせた。ぎょっと杏が口の前にケーキを運んだまま目を見開く。無表情でいたときはその下で気楽に微笑んでいるのが分かったのに、笑うと急に本音が見えなくなった。

    「こんにちは。あなたが杏の言ってた宵崎さん? 桐谷遥です、はじめまして」
    「あ……はい、宵崎奏です。……杏の言ってた友達って、あの桐谷遥だったの……?」
    「あ、知ってくれてるんだね。嬉しいなぁ」

    うふ、と頬に手を当てて微笑む遥に、杏はただただ引いていた。思わず「うわ……」と漏らした声にテーブルの下で乱暴な脚が杏を小突く。どうもイラッとしたらしいが、眩しさに目を細める奏に笑いかける顔は視線を動かしすらしていない。のほほんと微笑むその顔が白々しく、また寒々しく思えて、杏は一割程度の心配を混ぜて呆れの溜息を吐いた。

    「ってか、奏って『あの』ってほど遥のこと知ってたっけ?」
    「え……それは、その……ペンライトの色が……」
    「ペンライト?」
    「あ、いや、えっと……ファンの子からも元々応援してた子だって聞いたことあるし、色々と……こう、縁があって、みたいな……」
    「……そうなんだ。応援してたファンから……」
    「……? 桐谷さん……?」
    「ああ、いや、こっちにまで追ってきてもらえなかったのは残念だと思ってね。でも宵崎さんのファン獲得になったのならよかったよ」

    ぎゅ、とテーブルの下で今度は杏が遥の足を踏んだ。誰からも好かれると言うならそう簡単にボロを出すな、という軽口の代わりと、ファンを「獲得」するというビジネス的な表現がほんの少し気に入らなかったから。遥は奏を見たまま杏の足をぺしんと弾いた。水面下での争いが始まる。
    本人たちはこっそりやっているつもりだが、さすがに肩が動くので奏にはバレている。ちらりとテーブル越しの足元を見て、奏はどうしたらいいのか分からずにいるのを誤魔化すようにキッチンの方へと振り返った。

    「わ、わたしのはともかく、桐谷さんのは遅いね……何頼んだの?」
    「コーヒーだよ。けど確かに……キッチンでうっかりひっくり返したりしたのかも」
    「えー? そんなおっちょこちょいな……」
    「ごめんなさーいっ、お待たせしましたーっ! ドリップコーヒーですっ、ちょっと一回こけてひっくり返しちゃって淹れ直してました!」
    「ホントにそうだった!?」
    「ふふ、大丈夫だよ、ありがとう」
    「あとそちらのお客様のカフェラテも!」
    「あ、ありがとうございます……」
    「ねえ、店員さん」

    踵を返そうとしていた店員がセミロングの茶髪を揺らして振り返る。制服のスカートがふわりと膨らみ、黒いパンプスが慌てたようにたたらを踏んだ。遥は、肘をついた両手をゆるく組んで軽く振り向いている。奏には見えない角度のその顔があまりにも今とは違うものだから、杏は見慣れていたはずの挑戦的な彼女の笑顔にぞっと怖気を走らせてしまった。きょと、とカフェの制服に身を包んだ少女が瞬きをする。

    「私が来たのに、もうはしゃいでくれないの? 普通に店員さんとお客さんとして接されて、寂しいな私」
    「うーん……わたし、アイドル嫌いの遥ちゃんは応援できないので!」

    じっ、と鋭い氷が彼女を刺す。るんと揺れた頭のリボンに向かって、にっこりと影のかかった顔が笑った。そっか、と言った声は至極落ち着いていた。

    「体壊してから気にしてたんだ。元気になったみたいでよかったよ、花里さん」
    「ありがとう! ねえねえ、それよりそっちの二人って今話題沸騰中の『YUME YUME JUMP!』の杏ちゃんと奏ちゃんだよねっ!!」
    「えっ、ま、まぁそうだけど今思いっきりプライベート……てか何か、会ったことがあるような……?」
    「……あ」

    暁山さんの。奏がそう言いかけたとき、みのりの後ろからすぅっと華奢な手が近寄ってきた。

    「みのり~、バイト中なのに堂々とサボりかな~?」
    「きゃっ!? もう、瑞希くん! びっくりしちゃうよー」
    「あはは、ゴメンゴメン。やっほー杏、奏ちゃんも久しぶり! 偶然だね!」
    「瑞希!?」

    口調とは裏腹にきゃらきゃら笑うみのりの両肩に手を添えてひょっこりと顔を覗かせたのは不登校の親友暁山瑞希であった。と、同時に思い出す。この子は少し前のイベント後、瑞希と一緒に楽屋へ来てアイドルになりたいのだと言った子だ。雫に「事務所に紹介してくれませんか」と思いきって告げたときのことが思い出される。あの時、快諾しようとしていた雫に代わって志歩がすげなく断ったあと、アイドルは諦めたのだろうか。志歩は断ったことについて「もう憧れた人も業界にいないのにあんな憧れだけじゃ潰されちゃうでしょ」と吐き捨てるように言っていた。

    それはさておくとしても、杏はやはりみのりに対して怪訝な目を向けた。彼女は今自然に、フリルの重なったカワイイワンピースで着飾った瑞希のことを「瑞希くん」と呼んだのである。もちろん性別にこだわりも固定観念もない瑞希がそれ自体をどう思うとも思えないが、問題はそこではない。
    呆気にとられる杏をよそ目に瑞希は目をキラリと光らせてみのりの肩口から遥を見た。

    「ていうか、元人気アイドルとお忍びデートなんて、杏も大きくなったねえ」
    「あはっ、何も忍んでないけどね! あと私がデートしたいのはこっちの大親友なんで!」
    「あれ、私だけ一人になっちゃった。花里さん取っちゃったら、瑞希、さん?に悪いもんね」
    「あ、ボクは暁山瑞希! 杏とはクラスメイトなんだ。こう見えても会えてテンション上がってるんだよー、よろしくね、遥ちゃん!」

    こう見えても何も、とツッコミを入れる杏と、にこりと人のよさそうに笑う遥。そして真横に顔を出す瑞希へ順に視線を移していって、みのりはきょとんと首を傾げた。

    「でもわたしと瑞希くんじゃデートって言ったら変な意味になっちゃ……」

    もむ、と瑞希の両手がみのりの頬をつまむ。柔いほっぺは見事に伸びた。

    「みーのーりー?」
    「ひゃわぁ~~~……!」
    「それは秘密って言ったじゃーん。もー、女の子のそういうとこきらーい♡」
    「えっ、嫌い……!?」
    「うーそウソ、キライじゃないよ!」

    どうやらバイトが終われば一緒に話をするらしく、瑞希は「ちゃんと仕事しないとね」とみのりからぱっと手を離した。みのりが頬を抑えて参ったように目をぎゅっと瞑っている。

    「あ、そーだ、奏ちゃん甘いもの嫌いだったりするの? カフェラテだけみたいだけど」
    「え? ううん、とりあえず何か注文しなきゃって思っただけだから……」
    「そっか! じゃあみのり、ボクのお会計にショートケーキ一個追加して、それ奏ちゃんに運んであげて」
    「分かった!」
    「え?」

    奏が顔を上げたときには既に、みのりはキッチンへと走り去っていた。走っちゃダメだよー、と言葉ばかりの注意が瑞希から発せられたが、聞いていたやらいないやら。ずいぶん子供っぽいなぁと零したのは遥である。語調こそにこやかに苦笑したように取り繕っていたが、本心で苦笑していた。あの子、あんな子だっただろうか。

    「あ、暁山さん」
    「ん? あーケーキ? いやまぁお礼だよお礼、安すぎるしまた今度ファンとして貢がせてもらうけど」
    「お礼……?」
    「あの子、みのりのこと、助けるのに協力してくれたでしょ? 心に届く音楽はボクらだけじゃ作れなかったからさ」

    どこか男と女の狭間を漂うような爽やかな笑顔を浮かべて隅の席へと戻っていく瑞希の背を、杏はぽかんと口を開けて見ていた。

    「どうしたの杏、ピエロみたいな間抜け面して」
    「遥の方がその口の悪さどうしたの!? ビックリした……。いや、奏、瑞希となんかあったの?」

    奏は少し言い淀んだが、安心した風な雰囲気で「繊細な話だから、秘密」とつぶやくように言った。そっかとうなずいた杏が驚いていたのは、親友同士の交流の話ではない。
    瑞希が性別をネタにして笑ったことである。女の子のそういうとこ、と言ったのは口を滑らせたみのりを噂好きの女子に見立ててのジョークだろう。杏の知る瑞希はそういった男女へのレッテルが嫌いだった。いつの間にあんな気軽に扱えるようになったのだろう。

    遥といい瑞希といい、少し見ないうちに人がどんどん変わっていく。少し目を離した隙に死んだ人さえいる杏にとって、それは不安になり得た。……ふっと目をそらした杏のそれに気付いてか否か、奏はそっと遥の顔色を窺った。可愛らしい少女の、月明かりのように輝く微笑みが返される。少し、照れた。

    「えっと、桐谷さん、花里さんの言ってた『アイドル嫌い』って……?」

    ふ、と遥がかすかに唇を開いた。繕ったかわいい女の子としての顔の隙間に垣間見えた本心は、さして悪いものではないようだ。杏はほっと肩の力を抜いた。

    「嘘でも勘違いでもないよ。私、『アイドルの私』が嫌いなんだ。そういえば杏にも言ってはなかったっけ。気になるなら話すけど」
    「教えて! 正直そっち系のリアルな話、ちゃんと知っときたいんだよね」
    「……へえ? そういうことならそっちの話もちゃんと聞かせてね。私がアイドルを嫌いになるのと、希望にあふれる現役アイドルがアイドルを嫌いになるのとじゃ話が違うからね」

    できることがあるなら協力したいな。人がよさそうに、照れくさそうに、頬をその白く細い指先で掻いて言う彼女に、奏はすっかり信用を寄せて温かいカフェラテを口に運んでいた。そんなあたたかそうな笑顔のまま自分が嫌いだと言い切れてしまうことへの違和感になど気が付かないまま。


    ────────────────


    疎外感すご、とつぶやいたのは絵名だった。ライブが終わって帰り支度を始めるや否や楽屋に飛び込んできた雫に愛莉が悲鳴を上げながらベンチに倒れこみ、「お姉ちゃん」と咎めつつ顔を出した志歩に咲希が悲鳴のような歓声を上げながら抱き着いていった。体裁上「仲良しな幼馴染」なのでしっかり笑顔を浮かべる一歌も近寄っていったので、ロッカーの傍にぽつんと取り残されたのは絵名だけである。

    「あ、アンタ……チアデ辞めた日以来だけど、よくそんなノリで会いに来れるわね……重いから離れなさい、もう」
    「……あの時のこと、まだ怒ってる?」
    「一言の謝罪もなく許された気になってる今のアンタには怒ってるわよ」
    「あの時は八つ当たりしてごめんなさい」
    「わたしもアンタに理想を押し付けて悪かったわね」

    あっさりと言ってのけた愛莉の顔をじっと見つめて、やがて雫はえへへと嬉しそうに笑った。実際、嬉しかった。ハイ終わりとでも言わんばかりだが、もう過ぎ去った日のことについてさらりと言葉が出る程度には、自分との仲違いを気にしてくれていたのだろうか。そう思うとつい、喜んでしまう。愛莉には訝しげに「何よ」と言われたけれど、ごまかすようにもう一度笑った。愛莉はそれを見ると不機嫌そうに眉を寄せ、ため息を吐いた。

    「あら……」

    また何か、怒らせてしまった。せっかく真っ直ぐに彼女と向き合えるようになったと思ったのに。どうにか会話ができないものかと控え室内に視線を走らせ、ふと一歌がさっさと会話を切り上げてロッカーを開けたのが見えた。それに耳打ちする茶髪の少女は、そういえば初対面である。

    「一歌ちゃん、久しぶりね。そちらは確かさっきのライブでドラムをやってた……東雲、絵名さん、だったかしら?」
    「え? ええ、そうですけど……愛莉から聞いたことはあったけど、ホントにアイドルが目の前にいるなんて夢みたいね」
    「ちょっと絵名、わたしだってアンタと出会ったときにはアイドルだったんだけど?」
    「愛莉はだってなんか、最初から愛莉って感じだもん」
    「もう、何よそれ」
    「……あら? 一歌ちゃん?」

    雫はそうっと彼女の肩辺りに向かって声をかけた。自分は一歌にも挨拶をしたつもりだが、すぐに絵名に注意を向けてしまったせいなのか、彼女は一度もこちらを振り返らなかった。

    パタン、とギターケースが閉まる。閉めてからようやく、一歌はふっと首だけ傾けて振り向いた。

    「ああ、はい。お久しぶりです、雫先輩」

    数年前の最後に見たときとは、まるで別人の顔つきだった。蛍光灯の光すら映す余地もない鋭い瞳だけが無表情に伴い、すぐに向こうを向いてしまう。あら、と明るく零したのはほとんど建前だった。凍り付いた胸の内は誤魔化しようがない。志歩もそれを見てぽかんと呆気に取られていた。ちらりとフォローを入れるだろうと咲希を見るも、彼女は何を考えているのかただそれをじっと眺めているばかりである。

    「あーっごめんね日野森さん! 一歌ってばいつもこんなんだから気にしないで!」
    「……そう、なの……?」

    一歌のこちらを見ない頭をじっと見つめる。そんな彼女は知らない。いつもって、いつからなの。

    みんな知らないうちに変わっていく。どんなに仲が良くたって、少し目を離せば、いいや、しっかり見ていたとしてもどうか。事実、きちんと可愛がっていた妹はしぶしぶ着ていたアイドル衣装に誇りを持つようになっている。

    (それがどれだけ、怖いことか……)

    いつしか志歩や杏、奏がアイドルに希望を見出してくれたように、いつか彼女たちが想いを違えることだってあるかもしれないのだ。いつ、かつて仲の良かったCheerful*Daysのように手のひらを返されるか。もしも今のメンバーにまで嫌われたら、今度こそアイドルを嫌いになってしまう。人を醜く変えてしまう欲望の権化、圧倒的悪。……そんな発想が出てくる時点で、もう。

    どうしてアイドルをやり続けているのか。その答えが目の前にあるからこそ苦しかった。

    「……愛莉ちゃん」
    「ん?」
    「これから暇? 久しぶりにあなたとお茶でもしたいの。アイドル同士というか……私の可愛いお友達の話もしたいし、しぃちゃんも一緒に」

    愛莉は不機嫌を露わに眉をひそめた。こちらの話が聞きたいとは言わないのだな、と思って。あの頃よりも大人びて、愁いを帯びて、美しい女になった。美しさを増すということは、愛莉にとって不信感を増すことと同義である。ユメジャンの動向はあらかた見守っているが、ずいぶんと身勝手になった。

    「しほちゃん今からどっか遊びに行くの? アタシも行きたーい!」
    「あー、うん。なんか奏たちがちょうど咲希のバイト先にいるみたいだし、そっち行こうかなって」
    「えー、他の人もいるの? じゃあいいや」
    「咲希……」

    慣れた様子で呆れた志歩は「お姉ちゃんたちもそっち行く?」と声をかけてきた。今はなんだか誘われるだけで嬉しくて、愛莉が嫌でなければぜひ行きたいと答える。つつがなく、そう決まった。


    ────────────────


    久しぶりに会った愛莉は存外よく喋ってくれた。バンドのことも話してくれて、それがどこまでの開示だったのかは雫や志歩には分からないけれど、少なくとも隠されているとは感じなかった。だからそれなりにこちらのことも話したし、笑うべきところで笑うこともできた。自分は不器用だから時折おかしなタイミングでおかしな反応をしてしまうのだと雫は知っていた。不器用だから人の気持ちを考えるのが難しいことも。

    ──センターのことも、ずっと思っていたわ。指名されたときから、私じゃ力不足だって……。

    もう二度と、友達を失いたくはない。あの時のような失言は慎まなくてはいけないのに。
    慎まなくてはいけないのに、先日のビビッドストリートでの一件でも自分は感情のままに動き仲間を傷付けてしまった。自分こそが業界で働いてきた者として大人であらねばならないのに、何もかもが上手くいかない。

    「それにしても、奇遇なこともあるものね。ちょうどあのカフェそろそろ行かなきゃと思ってたのよね」
    「え?」
    「知り合いがバイトしてるの。ちょっと色々あったから様子を見に行きたくて」
    「え、それこそ奇遇ですね。私もまったく同じ理由で行こうとしてたんです」
    「えっ、そうなの?」
    「はい、クラスメイトなんですが……」
    「花里みのり?」
    「そう! そうです、すごい偶然ですね」

    平気そうに笑う下で、妹と友達が自分の知らない共通の話題で盛り上がろうとすることに焦っている。そして、誤魔化すように足早になった先で見つけた窓越しの光景に、胸の内が凍り付いた。

    「あれ、杏と奏、と……」
    「うわっ、ちょっと、あれ桐谷遥じゃないの。何で杏ちゃんたちと一緒にいるのよ……」

    どうして、どうして? 何でと訊きたいのは雫の方だ。どうして仲間であるはずの杏と奏が、自分の知らないうちに元トップアイドルと休日を過ごしているというのだろう。一体、何の話をしている?

    ──ちょっと顔が良いからってさ。
    ──私たちのこと見下してるよね。

    純朴な彼女たちなら、陰口なんて叩かないと思いたい。思いたいけど。

    構わず歩いていく二人に歩幅を合わせて店へ入っていく。腹の底がぐるぐるして、吐きそうだ。せめて胃の不快感だけでも落ち着けようと冷たい麦茶を頼もうと決めた。

    「いらっしゃいま……わあっ! し、雫ちゃ……」
    「みーのーり! でっかい声で呼ばないの! てかアンタ仕事中でしょ!」
    「あっ、桃井先輩! えへへ、失礼しました! 三名様、お席にご案内します!」
    「ああ、席なんだけど、あそこの子たちとくっつけてもらえるかしら?」
    「はーい!」

    あっ、と杏が気付けば遥がこちらを振り返る。以前テレビで共演して以来だが、その笑顔の頼もしさはその時から何一つ変わってはいないらしい。アイドルは辞めたらしいが、今は何をしているのだろう。久しぶりだね、と親しげに声をかけてくる彼女を避けるかのように雫は奏の隣に席を置き、反対側の隣に志歩を置いた。それが意外だったのか、遥は一秒か二秒、雫の目を逸らした顔をじっと見つめた。そうしてすぐ、ふっと元通りの会話に戻っていった。

    「今、ちょうどユメジャンの話を聞いてたところなんだ。雫、かなり大変な目に遭ってるみたいだね」
    「ええ、まぁ少し……」
    「あ、日野森さん……どっちも日野森さんか。志歩さんとははじめましてだったね。私、桐谷遥っていいます。一応元アイドル……って言っても、もう違うから何も偉そうなこと言えないけどね」
    「呼び捨てでいいよ、お姉ちゃんが呼び捨てで私にさん付けってのも変な話だし……桐谷さんのことはもちろん色々噂は聞いてるし、研究のために過去の映像も見させてもらってる」
    「そうなの? 参考になってるなら嬉しいよ。私のことも名前で呼び捨ててよ、私だけ仲良しなつもりみたいで恥ずかしいじゃん?」
    「まあ、それは一理あるかもね。分かった」

    にこりと笑い、細くなった瞳がそのまま滑って雫を見た。何をそんなに怖がっているのやら。けれども遥はただ連綿と微笑み続けていた。愛莉も志歩も、そこに佇む不自然なまでの静けさには気が付いていた。特に愛莉は、遥が咲希のような親しげな喋り方をしないと知っているから。しかし、ふたりの受ける印象は両極端だった。志歩は遥のそれを距離の詰め方が激しいとは思わなかったし、むしろ好意的にさえ受け止めていた。相手の言葉を受け止めて同じように返す、そのあり方は信用できる。

    「遥はさ、今はフェニランでショーやってるんだけど、すごいんだよ、さっき話聞いてたけどフェニランの宣伝大使に選ばれてるんだって!」
    「まぁ……! すごいのね、まだこちらを辞めてそんなに経っていないのに……」
    「といっても、うちの座長は断りたがってるんだけどね。だからまだ決まってないよ」
    「え? 何でよ、そんなに実力があるのに」
    「他人の力を借り過ぎた功績だからね。ぜひともフェニックスステージにって言ってるんだけど、そっちはそっちで私たちに譲ってくるし……まぁ、うちのピエロが……ああ、志歩はクラスメイトだから知ってるね。こはねがぜひやりたいって言ってるから結局やることになる気はしてるけど……」
    「えっ、こはね!?」

    反応したのは志歩ではない、杏である。遥がきょとんと目を丸くする。

    「こはねって、小豆沢こはね? うわ、そういえばフェニランでショーやってるって言ってた……!」
    「……何で杏がこはねのこと知ってるの?」

    小首を傾げた美しい笑顔の隙間に垣間見える氷のような暗い視線に気が付いた愛莉はひっそり溜息を吐いた。やっぱり信用できない笑顔だった。同じものを正面から受けて、当然それに気が付いてもいる杏はかえって揶揄うように笑った。

    「え~、なに遥、嫉妬ですか~?」
    「どうして知ってるのって聞いただけなんだけどな」
    「ふふん! だってこはねは私のファン一号だからね!」
    「……ふうん、杏の……」
    「こはねちゃんの名前が聞こえた気がした!!」
    「うわ、びっくりした。みのり、ちゃんと仕事して」
    「ご注文はお決まりでしょうかお客様!」

    志歩のツッコミも素早いみのりの応答も慣れたものである。まだアイドルにも関わっていなかった頃にこはねとともに仲良くなったみのりはこういう風ではなかったような気がするが、いつからか彼女は考えなしに動くようになり、またまさしく打てば響くという言葉に相応しい素直さを手に入れていた。
    それぞれの注文を聞くと、みのりは店員としての「かしこまりました!」に続けてもうすぐ終わる時間だから自分の分も持ってくると言ってキッチンへ去った。愛莉と志歩、遥、そして奏が何とも言えない気持ちで通じ合うように顔を見合わせ、やがて愛莉が隅の席で動画を見ている瑞希のもとへ行き、どうやらみのりがこちらの席に混ざるつもりらしいことを伝えた。

    「はぁ!? もう、また勝手に失礼なことして!」
    「いや、わたしたちは別に、迷惑に思うような子もいないだろうしいいのよ。けど瑞希はそのために遊びに来てたんでしょ?」
    「あーまあ、ボクはいいんだ。どっちかっていうとお目付け役だし。じゃあボク隣の席行くよ、なんか言ったら引っ張ってくからさ」
    「あら、そう」

    社交辞令を真に受けたのか、それとも面倒事を押し付けているのか。何にせよ愛莉は少しだけ瑞希に失望した。本当は、瑞希はただ多人数のアイドルとの交流ならば良くも悪くもみのりの子供返りに刺激を与えてくれるかもしれないと考えただけではあるが。しかし愛莉にとっても別段大きなことではない。その程度の失望や落胆ならば毎日どこかで味わっている。人を信用しないとは、誰かに毎日減点を食らわすこと。

    みのりはすぐに制服から着替えた状態で飲み物と軽食を運んできた。自分の席が用意されているのを見ると驚いたような素振りを見せた。そのつもりだったのではないのかと志歩が怪訝に見るも、そのうちにみのりはさっさと笑顔を取り戻してるんるん楽しそうに座っていた。

    「ね、ね、こはねちゃんって杏ちゃんのファンなの?」
    「そだよー、私らの一番最初のリリイベん時も一番に握手しに来てくれたんだ!」
    「そうだったんだ……! でも分かるかも! 杏ちゃんの歌とかダンスって、力強いけど振り回されそうじゃなくて優しい雰囲気もあって、引っ張ってくれそうな感じだからこはねちゃん好きそう!」
    「えー? そ、そうかなー?」

    アイスティーにガムシロップとミルクを三つずつ入れながらみのりは無邪気に笑っていた。遥の穏やかな視線が少なからず意図を孕みながらその顔を見つめていた。ふぅん。アイドルの追っかけ自体は続けてるんだ。なんだか少し嫉妬しちゃうな。……表面上の笑顔は何一つ揺らぎもしないけれど。

    「花里さん、それじゃあ、雫はどう?」

    遥の何気なさそうな一言に雫が微かに顔を強張らせる。わざとなんだろうなぁ、と杏は白けた苦笑を漏らした。そして同時に悪意は何もないのだろうと悟る。
    ファンからの声を恐れる雫に向けて、そんなことを露も知らないみのりはきょとりと目を丸くし、雫本人に向けて輝かしい目を向けた。それにさえ、つい臆してしまう。雫は悟られないようそっと視線を逸らした。

    「雫ちゃんはね、チアデの時と今で違う顔が見られて一粒で二度美味しい!って感じ!」
    「あら……そう?」
    「チアデではミステリアスお姉さんに引っ張ってもらえるって感じで、今はファンが支えてあげなきゃーって感じでね、わたしは今の方が応援したくなるから好き!」
    「まあ……そうなの、嬉しいわ」
    「あっ!! でもでも、もちろん奏ちゃんも志歩ちゃんも外せないよね! 特に志歩ちゃんはステージ上で楽器を弾くアイドルってレアな特性持ってるし、クールに見えてファンサもしてくれるってギャップもあって注目の的だよ!」
    「へえ、そうだったんだ。じゃ、これからも頑張らないとね」
    「奏は? 奏は?」
    「ちょ、ちょっと杏、別に催促しなくても……」
    「もっちろん奏ちゃんも応援しがいあるよ!! 儚い系フェイスにウィスパーボイス! でもでもやっぱり何よりも、奏ちゃんは作曲だよねっ! 人の悩みのひとつひとつに向き合ってくれてる感じがする!」
    「あ、ありがとう……わたし、ファンサとか下手だけど、曲では応えられるから、これからも応援してね」
    「はわわっ……!! 直接その照れ顔が拝めるだけでお金払う価値ありだよ! いくら!?」
    「えっ……!? ぜ、ぜろ円です……?」
    「お得ー!」

    みのりと杏が一緒になってはしゃいでいる。圧されて目を回している奏を見かねて、志歩が「ファストフード店じゃないんだから」と茶化しついでに両者の首根っこを掴んで御した。やるわね、と愛莉が感心して呟く。その視線はココアを口にしつつすぐに遥へと向かった。彼女はただひたすら黙って笑顔の隙間からみのりをじっと見つめていた。

    「アンタ、何、みのりの推しだってことにこだわりでもあったわけ?」
    「あはは、そんなことないって。花里さんが今ちゃんと楽しいならそれ以上のことはないよ」

    自分の名前が聞こえたことに反応したみのりがわちゃわちゃ固まる杏たちの間を縫って彼女に視線を投げた。

    「遥ちゃん、何で嘘吐くの?」

    瞬間、空気が凍り付いた。愛莉は何故わざわざ言うのかと溜息を吐きたい気持ちだったし、杏と奏は彼女の事情を聞いた後だから彼女にとって「嘘つき」がどれだけ酷い言葉が知っている。雫だけが、ただみのりと遥の無垢そうな顔を見比べて困ったように首を傾げていた。
    ガタリと隣の席で瑞希が立ち上がる。それを片手をあげて制したのは、他でもない遥であった。

    事情は知らないながら、人前で突っ込んだことを言ったみのりに何と言うべきか顔をしかめていた志歩は、テーブルの向かいから遥の顔を見た。その堂々とした凛々しい笑顔を。

    「嘘、吐いてるように見えた?」
    「うん。よく分かんないけど、嘘っぽかった!」
    「そう、だったら言い方が薄っぺらかったんだろうね。大丈夫、嘘なんて吐かないし吐いてないよ。だって私、スターなんだから!」

    外に萌え盛る若葉の色、それと同じ志歩の瞳がきらりと光った。あたかも言葉通りのような遥の煌めきを映したかのように。胸を張り、その胸に指先を添える彼女の姿に、後方から差すライトと太陽のようなステージを見た。
    ぱちくりと目を瞬かせるみのりたちに、彼女はなおも芯の強い声で続けてみせた。

    「私こそ真実、私こそ希望。ハピネススマイル×ワンダーランズは欺瞞を絶対に許さない、正義の味方だからね」

    先程の優しげな穏やかさなど何のその、まさに怪人でも現れようものなら前線で戦ってくれそうな強かさに、志歩は自然と呟いていた。テーブルの下で雫がそっと手を握ってくるのを追いやるのも忘れていた。

    「かっ……こいい……」
    「……? 杏、何でそんな微妙そうな顔してるの……?」
    「いやー、はは……」

    以前、そのユニットに入っているこはねがビビッドストリートに来たことがあるが、その時に話した彼女はむしろ「嘘こそ至高」と言っていたはずである。同ユニット内でも考え方の違いはあるのだろうから突っ込んだことは言わないが、それにしたってずいぶん自信満々だ。
    その根拠のない自信を、根拠も希望もあるように見せているからこそ志歩や雫には響いたのだ。「嘘っぽい……」と口に出るすんでで思った愛莉も、ふたりのキラキラした顔を見てそれだけは感心した。そういえば、アイドルってあんな目をしているものだったわね。なんだか懐かしくなって、口に含んだココアを味わって飲んだ。みのりがじぃっと遥の顔を見つめ、ふと白けたような平べったい目をして口を開いた。

    「えー、嘘っぽい」
    「はーいみのり! ボクとあっちの席行くよ!」
    「えーっ!? 何で!? やだ! まだ志歩ちゃんたちとお話するんだもん!」
    「ワガママ言わないの! シュークリーム奢ってあげるから!」
    「んんん魅力的だけど……だってだって、遥ちゃんもまだわたしとお話したいよね!?」
    「はは、すごいね」
    「うわーっもうゴメンね遥ちゃん! 一応この子供っぷりにも理由はあるんだよー……!」

    首を振って意地になるみのりとその腕を引っ張る瑞希と、見比べながら遥は笑顔の下でさっと辺りを見回した。さすがに二人とも声が大きい。まだ元トップアイドルのイメージが抜けない自分と、元人気アイドルの愛莉、現役アイドル四人、さすがに一度注目が集まれば店に迷惑をかけてしまう結果となりかねない。実際初めて会ったときに猛烈にファンアピールされて以来彼女に執着している節があるのは否めないし、だからこそ迷惑だなどと思うはずもない。いいよ、と声をかけようとした遥の前に、がたりと立ち上がった者がいた。杏から話を聞く限り、どうやらYUME YUME JUMP!のリーダーらしい、志歩である。虚を突かれて咄嗟に光をシャットダウンしてしまった瞳が無感情そうに彼女を見上げた。

    「みのりがそこまで言うなら、これ飲み終わったら一緒に外でランニングでもしない? お喋りもほどほどになるし、暁山さんも距離感気にせず隣にいられるでしょ」
    「えっ、トレーニングに付き合っちゃっていいの!? 行きたい!」
    「えー、だいぶ悪い気がするけど……」
    「そっちでの穂波の話も聞きたいからさ、我儘に付き合ってよ」
    「ら、ランニング……きっと一番最初に脱落するのはわたしだね……」
    「あら、宵崎さんは体力に自信ないの? それはそれは、鍛えがいがあるわねぇ。わたしもご一緒してもいいかしら?」
    「ええ、もちろん! 愛莉ちゃんと一緒に運動できるなんていつぶりかしら!」
    「に、逃げたい……」
    「あはは! じゃあまあ、遥は当然、私と競争だよね?」
    「へえ、ショーに全身全霊の私に挑んじゃうんだ。雲泥の差だと思うけど?」

    そうと決まれば一様に飲み物を素早く飲み干し始め、とうに食べ終えていた杏はともかくケーキを頼んでいた奏と雫と瑞希はそれもぱくぱく食べ進めた。結果的に人数が多いため、遥と杏、みのりと瑞希と志歩……とグループに分かれてそれぞれのコースを走ることとなっていた。

    「あ、そういえば雫ちゃん! 気になってたんだけどね!」
    「あら、なぁに、みのりちゃん」
    「……私も気になってたんだけど、みのりにとってはお姉ちゃんって先輩だよね?」
    「えっ? あっ、ホントだ!」
    「あら、いいのよそんなこと」
    「わーい! それでねそれでね!」

    それぞれの代金分を集めて瑞希と奏が代表してレジへ行っている間、先に店の外へ出て深呼吸していた面々は顔を見合わせて苦笑した。雫がそれでいいならいいのだけれど。

    「さっき杏ちゃんと遥ちゃんの会話がちょっとだけ聞こえちゃったんだけど、雫ちゃん、キャラ作るの嫌なんだってホント?」
    「あ……」

    途端に雫の顔が曇ってしまう。遥と杏がこっそりお互いを肘でつつきだした。杏の声が大きいから。遥だって止めなかったじゃん。志歩が「みのり」と声をかけたことへと振り返り、みのりは慌てたように両手を振った。

    「あ、わたしはあれだよ! 急にキャラ変わってもどんな一面でも神からの施しって思うタイプだし! さっきも言ったけど今の雫ちゃんの方が好きだから!」
    「え、じゃあ私のことは……」
    「遥、今は黙ってなって」
    「それにそれに、杏ちゃんも奏ちゃんもマネージャーさんとウーンってなってそうだったし……」

    愛莉が肩を掴む。あんまり部外者が首を突っ込むものではないと。しかしみのりは少しだけ不満そうに頬を膨らませて、いとも簡単に言ってのけたのである。

    「嫌ならやめればいいんじゃないの?」

    全員が、息を呑んだ。殊アイドル業界の厳しさをよく知っている雫と愛莉は信じられないものを見るようにみのりの顔をまじまじと見つめた。しかし遥だけは、表情を薄らがせてじっと考え込んだ。彼女がどの「やめる」を指して言ったのかは分からない。しかし、ひとつの選択肢はその中にあると思ったのだ。

    「やめるって……」
    「だってだって、嫌なことずーっと頑張ってたって嫌なままでしょ? わたしだって可能性もないのに頑張り続けるの嫌だからアイドル目指すのやめたんだよ、やめたらすっごくいつもが楽しくなったの!」
    「……そうなの。ねえ、みのりちゃんはそれで、自分が違う人間になってしまったように思わなかったの?」
    「え?」

    雫の真面目な顔を見て、みのりはさも驚いたように固まった。それからふらふら腰を捻って考え込み、店から出てきた瑞希の腕を取って、驚く瑞希をよそににぱっと笑った。

    「だって、瑞希くんと寧々ちゃんと穂波ちゃんはどんなわたしでもいいよって言ってくれたんだもん!」
    「え? なになに、何の話?」
    「瑞希くんはわたしのこと好きでしょー?」
    「みのりにだけは言いづらいんだけどなー……はいはい、好きだよ大好き」

    くるりと回って嬉しそうに笑うみのりを、雫はひどく羨ましく思いながら見つめていた。あの子、初めて会ったときは何十回落ちても必ずアイドルになると言っていたのに。

    「瑞希さぁ、変わったよね。学校来ないの?」
    「えー? まぁ杏がボクに構ってくれるなら行ってもいいけどー?」
    「あはは、何それ! そんな構ってちゃんじゃないくせによく言うー」
    「ま、寧々もいるし、類も、あーあと司先輩もか。だったらまぁ、昼休み前後くらいは行ってもいいかなぁ」
    「マジで? 友達パワーすごっ」

    賑やかになりつつ公園にでもと駐車場を出ようとする全員の背中をどこか遠いもののように眺め、雫はふと眩しさを堪えるかのように目を細めた。

    「……ねえ、愛莉ちゃん、遥ちゃん、みのりちゃん」

    雫の隣にいて、自分も歩き出そうとしていた志歩はふと止まった。呼ばれた三人が振り返り、次いで他の面々も不思議そうに雫の方へと振り向いた。
    志歩は訝しげに彼女の横顔を見つめ、やがてはっと目を見開いた。思いつめたような、焦がれるようなその横顔。愛莉や遥はともかく、みのりも含めて呼び止めたことで、彼女の言おうとしていることが分かってしまった。しかし、止めなかった。それは正しいことだと志歩も思ったから。

    「……雫? 何よ?」
    「あのね、三人に……愛莉ちゃんたちに一度、私たちのセカイへ来てほしいの」
    「……え」
    「えっ!? 雫ちゃんたちも……!?」

    さっと瑞希がみのりの口を塞ぐ。もがもが言ってやがて諦めて黙ったみのりを、遥がぽろりと取り落とした表情の下から現れたまっさらな顔で横目に見ていた。以前、ワンダーステージでショー作りを手伝ってもらった際、寧々と司が「わたしたちのカイトさん」なるものを口にしたことがあったから、みのりと瑞希が頭に思い浮かべていることはなんとなく分かる。
    杏と奏は顔を見合わせた。雫がいきなり言いだした意味ももちろん、彼女たちをセカイへ招いていいものかも分からない。しかしセカイにおける本来の持ち主は愛莉たちなのだ。元は部外者だった自分たちが口を出す権利もない。志歩と同じく、黙っていた。

    「雫、アンタ……」
    「あ……ええと、セカイっていう不思議な場所があるの。私もあんまり分かってないのだけれど、みんなに希望を届けたいっていう想いが形になったものらしくって、元々は私とあなたたち三人が想いの持ち主だってミクちゃんたちが……あ、えっと、そこには初音ミクちゃんたちがいてね、みんなに一度会えたらリンちゃんやレンくんも喜んでくれると思うから……!」
    「お姉ちゃん、慌てない。落ち着いて」
    「……ふふ。いきなりそんなこと言ったら、頭がおかしいと思われちゃうんじゃないかな?」

    遥がくすりと笑う。前髪や睫毛の影が落ちた瞳は僅かに仄暗く、揶揄う色に愛莉や雫が顔を強張らせた。

    「悪いけど、私はお断りするよ。そこはもう雫たちアイドルの場所なんでしょ? 初対面のミクたちに今更お別れの挨拶にだけ行ったって寂しがらせるだけだと思うよ」
    「……はぁ。わたしもパス。興味ないわ」
    「もごもごー!」
    「あーゴメンね雫ちゃん! うちの子そういうの断ってるんだよねー!」
    「……そう」

    どうしてだろう。雫は三者三様にそう言われて、心の底で安心したのだ。ひどく、ひどく安堵して、独りぼっちになったかのように泣きたくなった。けれどもそれを全部隠して、彼女は何でもないように微笑んだ。おかしなことを言ってごめんなさい、いいのよ。
    隣にいた杏にだけは、瑞希の呟きが聞こえてきた。「そこまでの刺激は求めてない……」と、それを言ったのは大人しくなったみのりを見ながらの刺々しさである。棘は、不本意そうだった。

    すべてに気付かないふりをして、愛莉はへらりと笑う雫を連れ、奏にも優しく笑いかけてついてくるよう促した。彼女が誘いを断ったのは、本気でもうアイドルに戻るつもりがないから。それと、自分がセカイを持っている事実をなかったことにするためである。だってそれじゃあ、一人だけセカイを持たない絵名の想いが軽いみたいじゃないか。あんなに必死で、泥まみれになってでも這いずる覚悟を持つ彼女が。だから聞かなかったことにする。何もなかった。自分のセカイは、あの教室だけだ。

    「そうそう、雫。それに宵崎さんも」
    「ん、何……?」
    「正直、そっちの界隈で嫌なことが積み重なるのは分かるわ。仕事の都合を考えると辞めたいけど、好きなものは好きだから辞めたくない、なんて気持ちもね」
    「そうね。愛莉ちゃんは、分かるわよね」
    「これは、わたしからのアドバイス。アドバイスなんて百通りも千通りもあるんだから別に気に留めなくたっていいわ」

    自然と足が早まっていく。気付けば愛莉は走り出しており、雫も奏も長い髪を流水のように靡かせて彼女の隣を小気味良いテンポで走っていった。風を受けても前に進めるということに奏は驚いていた。いつの間にか自分もよっぽど体力がついていたのだ。今は隣を行く彼女らの強い足取りが、自分のそれまでもを錯覚させてくれた。

    「気に食わない奴は蹴落としなさい。気に入った人はめいっぱい可愛がりなさい。でも全部バレないように、自分こそが一番気に入られるように良い顔してなさい」
    「……それじゃあまるで、いじめね」
    「そうよ。いじめっ子みたいな気持ちでいるのがいいの。嘘吐くのは、身を守るための手段なんだから」
    「それって……自分が弱いって思ってるなら、なおさら、強がった方がいいってこと……?」
    「あら、飲み込みがいいわね! って、もうへろへろじゃないの!」
    「はぁ……はぁ……ご、ごめん……」

    車通りの多い街中へと出たばかりの道端で、奏の予想以上の体力のなさに愛莉は思わず吹き出して笑ってしまった。速度を落とし、普通の歩く速さで進んでいく。

    「ま、要はそういうこと。理想があるなら、自分の心の平穏のために、何をしてでもそれを目指すべきなのよ。自分と、自分を好きでいてくれる人のことだけ考えてね。それで後から嫌がってた奴まで『やっぱり良いかも?』とか思ってくれたら儲けものでしょ」
    「そっか。そのために良い人のふりをするんだね」
    「ええ。って、よりによって純粋な子ツートップにこんなこと言うのも、唆してるみたいで嫌なんだけどね」
    「純粋……に、見えてるなら嬉しいよ」

    傷付きやすくて、繊細で、大きな罪と、希望と、それをいつまた失うかという恐れを抱えている。心の傷の滲んだ儚い笑い方に愛莉は改めて彼女の顔を見て、そうして二人、通じ合ったものがあって笑い合った。なんとなく、互いの言葉の底を見ることができたような気がした。

    「……分からない……」

    そんな二人の後ろで、胸を押さえた雫がぽつりと呟いた。振り向けば、苦しそうに顔を歪めた彼女が俯いている。その口元でさえも彼女は高潔だった。

    「私、アイドルだった愛莉ちゃんを信じてる。でも今の愛莉ちゃんは分からない! どうしてそうなの……? だってそれは、そんなの全然、アイドルとして正しくないじゃない……」
    「そう? アイドルの姿勢なんて千差万別だと思うけどね。けど、わたしが言ってるのはアイドルとしてのアドバイスじゃないわ」
    「え……?」
    「そのもっと前、人としての姿勢よ」

    建物の隙間から、夕日が差し込んだ。長い髪を揺らして振り向いた彼女のそれを浴びた横顔が、雫の網膜に焼き付いて離れなくなった。

    ──どんなわたしでもいいよって言ってくれたんだもん!!

    みのりが傷付いても諦めても笑えていられるのは、そういうことだったのだ。愛莉の言うことはきっと間違っていない。それはきっと幸せに生きていくための有益な方法なのだろう。

    「……そっか」

    ほんの少しだけ、参考にするね。雫は胸の中に彼女の言葉を落として、微かに笑って彼女たちを追い越した。通り過ぎていく癖の付いた髪を見送って、たっ、と奏も小さな歩幅を動かしてついてくる。
    幸せに生きていく方法は、必ずしも夢を叶える方法ではない。だから「ほんの少しだけ」。その心構えを念頭に置いて、少しだけ心を守って、それでも目の前の茨さえすべてを笑顔と希望に染めていきたい。だってYUME YUME JUMP!は、夢を叶えるための努力をゆめゆめ忘れないことが信条なのだから。

    「ねえ、愛莉ちゃん」
    「はいはい、何?」
    「だったら、大嫌いなのに大好きっていう人たちには、どうしたらいいかしら?」

    陰口を叩き、衣装を隠し、最後には軽いねぎらいだけでさっさと楽屋から追いやった。元チームメイトの彼女たちを雫はかつて「元気でね」と皮肉ばかりの別れで呪った。だがその傍らには、本気でそんな友達だった彼女たちに希望を届けられない自分への呪いと、大好きだったと嘆く自分もうずくまっていたのである。
    今はまだ同じ事務所内にいる。あの子たちに、これからどう償ったらいいのか、それともどう突き放したらいいのか、自分はきちんと決めなければいけないと思う。

    愛莉はコースを再び走り出し、青春を叫ぶように言い放った。

    「そんなの、好きか嫌いか、アンタが自分で決めなさいよ!」

    決められないなら愛するしかないのだ。結局は。……分かっていた。なんとなく、今の愛莉ならばそう言うと思っていた。雫は目頭に感じた熱いものを振り切って、奏に促すように笑いかけ、愛莉の後を追って走った。


    ────────────────


    セカイのことは秘密だよ、と瑞希はみのりに囁いた。何で、と訊き返されてもしれっと躱していたが、引き下がらない何で何で攻撃に耐え兼ね、仕方なくみのりの耳に唇を寄せた。内緒話だと言うのなら志歩はしれっと目を逸らしておく。踏み込まない彼女の態度にちらと視線を送っていた瑞希もみのりも少しだけ好感を抱いた。

    「ボクらのセカイは借り物なんだから」
    「えー、でも……」
    「仮に良いって言われてても、カイトさんのためにもあんまり荒らすようなことしたくないんだよ」

    彼が覚えている天馬司の面影をきちんと残しておきたいし、あの人がいつ戻ってきても居心地のいいセカイのままにしておきたい。人を招いてもいいのは彼か、彼の想いに呼ばれた彼か、彼に幸福を願われセカイを預けられた彼女だけ。
    納得したのか諦めたのか、みのりは軽く頷いて前へと大きな一歩を踏み出した。

    「もういい?」
    「ああ、うん。ありがとね志歩ちゃん、今日いろいろ気を遣わせちゃってるでしょ」
    「いいよ、多分私、そっちの方が向いてるんだ」
    「人に気遣うことが? 一匹狼系なのに意外~」
    「いや、そういうのじゃなくて。バラバラの個性を一個の方向に持ってくのがさ」

    みのりを追って二人も走っていく。汗かいちゃうなぁ、と瑞希は笑っていた。予定外の運動にスカートが慌てて翻る。

    「じゃあじゃあ、志歩ちゃんはやっぱりリーダーだねっ!」
    「ん?」
    「わたしずっと思ってたの! ユメジャンは志歩ちゃんがマネージメントしてるみたいって!」
    「いや、うちは普通に事務所のマネージャーがいるけど……」
    「あれ? でもでも、一番最初のゲリラ配信、あれってすぐBANされたの事務所には無断だったからじゃないの? みんな言ってるよ?」
    「えっ!? なになに、ユメジャンってそんな面白いことあったの!?」

    ぐ、と言葉に詰まる。代わりのように志歩は足を速めて二人を追い越した。それがほとんど肯定だった。きらりと表情を輝かせたみのりが無邪気に歩幅を大きくして隣へ並んだ。

    「志歩ちゃんマネージャー向きなんだ! いいなぁいいなぁ、志歩ちゃんがマネージャーになったらわたしたちも有名にならないかなぁ」
    「あー、音楽グループ? そりゃ応援はしてるけどね」
    「けどそういえば、事務所と上手くいってないんだっけ? じゃあもう全部志歩ちゃんがやっちゃえばいいのに!」
    「え?」

    足は止めないが、驚いてみのりの平然とした顔を見た。街並みが前から後ろへ流れていく。道行く人たちはみな様々な顔をしていた。今は志歩も、みのりも、そして夕暮れの涼しさに目を細める瑞希もすべて、街に溶け込む自然の一部である。きっと、別の歩道を走っている姉も。いや、奏がいるから今は歩いているかもしれないな。志歩はひそかに、そうして現状を見つめた。
    みのりの一言は端的で、そして母親に縋る子供のように愛情深い。その愛に、救われたいと願ってしまった。

    「わたし、志歩ちゃんたちが自分で自由にプロデュースしたユメジャンが見たいなぁ」
    「……それは……」
    「ね!」
    「それは……私も、見たいっていうか、そうしたい、かも……」

    自分で、自由に、愛するファンの前へ、愛する自分の姿をさらけ出す。それができたらどんなにいいだろう。そうさせてあげて、そしてそんなアイドルがきちんとファンに愛されるよう、愛するグループを導いてあげられたら。
    自分のステージで輝く雫は、嘘偽りない輝きを纏う杏は、誰も呪わず呪われず自分の足で立つ奏は、一体どんなに眩しいのだろう。

    「だったら、そうしたらいいよ!」
    「え? いやでも、そんなの普通に考えて無理……」
    「無理なことなんてないよ! 志歩ちゃんたちはアイドルなんだから!」
    「どういう理屈?」
    「はは、出たよみのりのアイドル妄信病。っとに軽々しく言うんだから……」

    どこか苦々しいようにみのりを見ながら瑞希はそれを笑い飛ばした。しかし志歩がまだ困惑と期待を拭い去れないのを見ると、その横顔にひそかに微笑みを向け、こちらも空を仰いで軽く言った。

    「ま、何か思うところがあるなら考えてみたら? うちの踊り手の直感は結構優秀だよ~?」

    空は杏の瞳の色をしている。この時間が終わったら、雫と奏の色を混ぜた紫が満天を埋める。そして朝になって、昼になって、空は雫の色になる。自分はどこにいようか。願わくば世界のすべてを見届ける若葉でいたいと思う。

    世界は想像よりもずっと美しいはずだ。それを夢見て、志歩は「そうするよ」と唇に笑みを浮かべた。


    ────────────────


    「気になるんだけどさぁ、それって疲れたりしないの?」

    遥がぐっと天高く腕を上げ、背筋を伸ばした姿勢のまま屈伸途中の杏を見下ろす。じっと無言で見下ろしてくるままの顔になんとなく疑問らしきものを感じ、それ、と繰り返しながら杏は自分の両頬に人差し指を当てて見せた。ああ、と納得の声とともに腕を下ろし、遥は光差す雲を遠く見つめた。

    「別に何も。アイドル時代の経験で表情も言動もコントロールするのには慣れてるし、人が求めてるものを読み取るのも得意だから。何も欲しがらない座長と、ころころ顔変えるピエロと、何しても喜んで受け取るお姫様に比べればみんな単純だよ」
    「うわー性格悪っ」
    「失礼だな、喜んでほしいだけだよ」

    走る準備は万端、と言わんばかりに遥は公園の入り口に立った。杏が肩を並べる。
    遥はふと、その横顔を横目で見てみた。いつの頃も変わらない、けれども少し大人びたか。いや、気のせいかもしれない。分からない。杏の気持ちなど昔から分かったことはない。競う相手で、話していると楽しい相手でしかなかったから。誰より理解してくれた友達だったと思う。だが、親友以外になれる相手ではなかった。

    「……私は、広く浅く愛されるスターだからさ。深く私を見てもらおうとは思ってない。私がみんなの心に深く刺さるのが目的」
    「ふーん。宗教だね」
    「そうだね」

    神は友人など作らない。ただ信仰対象であれればそれでいい。そしてショーに乗せて数多の絶望と希望を、人生にありふれたひとときの笑顔を施そう。
    ゆえに、杏ほど深く知り合ってしまった者には、今更施すものなど何もない。

    だから、率直に言おう。

    「率直に言うんだけど」
    「んー?」
    「さっきの花里さんの言葉、私はいいかもと思ったよ」
    「みのりちゃんのー……どれ?」
    「嫌ならやめればってやつ」

    夕焼けを吹き飛ばすような風が吹いた。杏の髪が、飛んでいく布のようにぶわりと膨らみながら靡く。

    「嫌なら事務所を辞めればいい」

    遥の視線は常に真っ直ぐだった。逸らせないほどにまっすぐで、人の目を見て発される揺らぎのない言葉は、正しい、とどうしても思わされる。少なくともたじろいで、まともに考えさせるほどの説得力を否応が無しに感じさせる。みのりの時は聞き流したそれが、今では杏に刺さっている。正しい。その言葉は、圧倒的に正しい。

    「か……簡単に言うけど、移籍ってこと? そんな簡単に……」
    「簡単じゃないのは分かってる。でも、楽して苦しむならそれは『楽』じゃなくて『怠惰』だよ」
    「……言う、よねえ……ホンット」

    顔を覆ってどっと押し寄せる複雑なものを溜息にして吐き出した。遥がほんの微かにだけ笑みを浮かべたような気がした。きちんと向かい合ったときには、もう練って固めたような能面だったけれど。だがやはり、この方が落ち着く。彼女はきちんと笑っている。

    「遥、何気にすごいよ」
    「急に何」
    「人に合わせて笑ったり悩む顔してさ、そのくせ本心じゃ『私の思い通りに』でしょ?」
    「人聞きが悪いな。ま、役者だからね。世界には脚本通りに動いてほしい」

    ひどく傲慢なその願いごと、そしてそれを叶えるために尽くす最善。杏は彼女の横顔にアイドルとして許されるすべてを向けた。本人には言わないけれど、尊敬した。好きだと思った。

    忘れられない言葉がある。凪のことで揉めたあの夜、雫と喧嘩していた志歩が、当たり前のように言った言葉だ。

    ──しぃちゃんは誰の味方なの……!?
    ──私は私!!

    あれは、すごいことだ。

    「どんな顔して媚売っても、遥は遥なんだね」
    「言い方が悪いのどうにかならない? けどそうだよ、私は私。いつでもスター」

    きっと彼女の言う「スター」は、ショースターとは違うのだ。個人的な解釈に基づく単語で、彼女だけの定義で名乗った傲慢な「神」の代名詞。けれど、それがいずれ真実になる。彼女にまつわるすべてが真実になっていく。彼女の立つステージが誰もが信じる聖体になったとき、彼女の仮面の下にある「私はいつでも私」が証明されるのだろう。

    それはとても、良いことだ。そしてまた、憧れることだ。
    奏に、いつでも胸を張っていられる舞台を用意してあげたい。雫に、いつでも気を抜いていられる日々をあげたい。志歩に、ここまで導いてくれた感謝がしたい。夢は叶う、遠くはない、そんな希望をみんなに見せてあげたい。
    そのための手段だと言うのなら、それもひとつの選び取るべき選択肢かもしれない。どくどくと胸が高鳴る。期待と、それから拭えない躊躇いで。……振り切るように、杏は公園の方へと顔を上げた。

    「考えとく! あーもーモヤモヤする!! 思いっきり動いて、帰ったら歌って、そんでまた明日考える!!」
    「後回しにするとこ、何も変わってないね」
    「私は抱え込まない担当なの! さ、どこまで勝負する?」
    「……じゃあ、まずはこの広場を二周」
    「オーケー、全力で勝つよ!」

    公園のガードフェンスを意味もなく乗り超え、先を見据える。隣の足並みを見て、その場で軽く跳んで気持ちを落ち着ける。深呼吸すれば涼しい空気が胸の熱を冷ましていく。しかと、淡い夕焼けに目を輝かせた。

    「ゴー!」

    少女が二人、風のように走り出していった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏👏😍😍💖💖💖😍💖💖💖💖💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator