ミルク色の夜 ある日の夜、オズが眠れず屋敷を徘徊していたときのことだった。半開きのドアから明かりの漏れている部屋にホワイトが一人でいたのを見つけて覗くと、待っていたように振り向いて彼は言った。
「眠れないのかのう?」
「……」
まるで、待っていたようだと思い少し気味が悪くなったが、訊くつもりもない。しかし答えず踵を返すのも何かが違う気もする。こういったときどうすればいいか知らなかったオズはその場にしばし立ち尽くしていたが、ホワイトに手招きされたのでそれに従うことにした。
部屋の中はまだ暖炉に火が燃えていて、廊下よりも暖かい。屋敷全体がスノウとホワイトの魔法で快適に保たれているとはいえ、あるのとないのでは違う。
「昼間の稽古が堪えたか?」
ホワイトはゆるく笑みを浮かべ、彼自身の体には大きく合わないのではないかと思われる揺り椅子に座ったままオズに尋ねた。しかし、堪えるのは今日に限ったことではないし、どんな怪我を負ってもスノウとホワイトがすぐに治してしまうので、彼らによる魔法の稽古はオズの生活に支障らしい支障をきたすものとはいえない。
違う、という意思表示をしてみせるオズに、ホワイトはほほ笑んだまま首を傾げた。それを、促されているととってオズは口を開く。
「……眠れない」
すると、瞬く間にホワイトは揺り椅子が似合いの青年に姿を変えた。どういったつもりなのかは分からないが、理由があるのかただの気分か、どちらかであるということは学習できているオズは、自分の答えに対するホワイトの答えを待つ。
「我もじゃ」
揺り椅子の傍らに立っていたオズの体に手を回し引き寄せると、ホワイトは自分の膝の上に座らせた。そういう気分、という理由があったようだ。オズはホワイトの好きにさせながら、ふと訊いてみた。
「……スノウは」
「ひとりでさっさと寝おった」
ホワイト曰く、自分が寝付けないのにスノウの寝顔を見ていたらむしゃくしゃしてきたので、眠れそうになるまで起きていることにしたらしい。成る程、そういう方法もあるようだ。オズは新たな知見を得たが、寝床に戻ろうにもホワイトの膝の上なので離脱が面倒だった。無理矢理すり抜けようにも、むしゃくしゃしてきたと言っていたから、出方を間違えると更に面倒なことになるのは火を見るよりも明らかである。
「フィガロはもう寝てしまったかのう」
「知らない」
「うんうん。どちらでもいいことじゃしの」
こんなことなら眠れなかろうがベッドに転がっていればよかったかもしれないとオズが思ったときだった。ホワイトはオズを膝の上から下ろして立ち上がった。
「それなら、ちょっと悪いことしようか」
悪いことと言うにしては何故だか楽しそうなホワイトの表情に訝しく思うも、ホワイトはさっさと歩き出してもう部屋のドアの前だ。ついてこいとは言われてはいないが、彼はそういったつもりでああしている。オズはホワイトを追って部屋を出た。
ホワイトがオズを連れてやってきたのはキッチンだった。こんな場所で何の悪いことをするのだろうかという思いを抱いたまま、片付いたキッチンの様子を見ているオズを置いて、ホワイトは小さな鍋を棚から出してくると、別の場所に収納してあった何らかの瓶を持ってきて鍋に中身を注ぎ入れた。白い液体だ。キッチンで何かするということは普通の飲食物だろうが―。
「そなたを眠らせるのは魔法を使えば造作もないことじゃが、そういう強制的な眠りはあまりよくないからの。今日は我が眠れぬ夜のためのとっておきを作ってやろう。スノウとフィガロには内緒じゃよ」
そう言い振り向いて、人差し指を立て口許にやるホワイトと、たった今彼の唇から発せられた『内緒』という言葉を、先程『悪いこと』と言っていたのと結びつけ、オズは黙ってうなずいた。別に、何か言ったところでスノウとフィガロに聞こえるわけがないのだが。
「よいか、オズ。ミルクをあたためるときは、火にかける前に砂糖を入れるのじゃ。今夜のそなたはうまく眠れないようじゃから、少しシュガーを使うとするかの」
鍋に入れた白い液体はミルクだったらしい。ホワイトが気持ち潜めた声で言いながらミルクに砂糖を入れ、その後手のひらの上に精製したシュガーをひとかけ落とす。
「蜂蜜をいれても美味じゃが、そなた蜂蜜は好きだったか?覚えとらんからまた今度じゃな」
尋ねるくせに返事を求めていないのか、勝手に話を終わらせてホワイトは鍋を火にかけ始めると今度はカップを二つ出してきた。スノウもホワイトも料理をするときはほとんど魔法を使っているのに、今夜は珍しい。魔法を使うまでもないということか、それとも、内緒だと言っていたから魔法の気配を悟らせにくくするためか。オズは鍋の様子を見ながら思うが、訊かずにいた。きっとどちらでもいいことだからだ。
そうして程なくしてあたたまったミルクを、ホワイトは慣れた手つきで二つのカップに注いでその内のひとつをオズの前にやった。
湯気の立ち上るミルクからうっすら漂う香りに、オズはゆっくりと目を瞬く。あたたかくて、やわらかい。あたためたミルクを飲むのは初めてではないはずなのに、今夜はまったく違うものであるかのように感じた。
「召し上がれ」
先にカップを持ったホワイトが、そう言い笑いかけてくる。しかし、ミルクに砂糖とシュガーを入れただけのこれがとっておきというほどのものだろうか。オズは先程ホワイトがミルクに投入していたシュガーのひとかけほどの疑いをもちながら、カップを手にして一口飲んでみた。
「どうじゃ?」
「……」
尋ねられるも、どう返したものかまるで分からなかった。しいて言うなら『おいしい』なのかもしれないが、伝えたいのはそんなことではないのだ。『おいしい』以外の、いま確かに生まれた感情があるのに、それを言葉にすることができない。一口飲んでは考えるが、残りが半分程度になっても出てきやしないのでオズは言語化を諦めてホワイトを見上げた。
「……ありがとう」
「うんうん、いいってことよ~。……え?なんて?」
「ありがとう、ホワイト」
オズとしては、いま発することができる最善の言葉であると判断したが故の言葉だったが、ホワイトは驚いたような顔を見せ、ややあってから満足そうに笑った。
「……どういたしまして。これで眠れそうかのう?」
「わからない」
このときに見たホワイトの笑みにこもった感情の名前もまた、オズの知らないものだった。ただ、今夜は何故だかあたたかくてやわらかく見える。丁度、このミルクのように。
根拠も理由もないし、それを探すつもりもないけれども、ミルクが時間の経過と共に冷めていくのを惜しむように、今夜のことを忘れたくない、覚えておきたいと感じた。
<おわり>