地下室の花束 小学校にもまだ上がらない頃、もし十年経ったら、自分はとんでもない大人(いや、子どもか?)になるって思っていた。それくらい俺に意見する人はいなくて、親でさえ俺を持て余していたからだ。
父は俺が六眼や無下限呪法を持つ子だと分かった時、母を褒め称えるとともに、俺を恐れて違う女に手を出したのだという。母はそれを悲しんで俺に慰めを求めたが、やはり俺の目が恐ろしくなって、お抱えの呪術師たちに我が子を任せて子育てをしなかった。とはいえ、これは五条が呪術界の御三家というものだから仕方がなかったのかもしれない。生まれた時から尊大な名を背負うと定められた古い名家だ、昔の風習が残っていても誰が責められただろう。そんな家に生まれた男と、そんな男が選んだ女だ。最低の人間が出来たってしょうがない。
でも、それから十年経っても、俺はグレることもなく普通に呪術師のための学校に通っていた。別に誰かを助けたかったのじゃない。別に普通の高校に行ってもよかった。でも、それでも俺は呪術高専にいて、こうやって世の人々を助けているのだった。多分、自分と同じか、それ以上に辛い人と出会いたくて。
「腹痛い。今朝の目玉焼き生だったのかな。白身がやばかった気がする」
「目玉焼きで腹下す人なんて聞いたことないよ、悟」
俺たちはそんな雑談をしながら、とあるビルの薄暗い地下室に入った。俺たちをここに案内したビルの持ち主はあからさまに怖がっていて、いつの間にかいなくなっていた。まだ昼間だというのに、そんなにやばいんだろうか? そう思うけれど、確かにそこらじゅうに残穢はあって、それはいささか強かった。彼ら何も見えない人々が恐れてしまうくらい、この地下室の幽霊という名の呪霊は強かったのだ。
高専にあった依頼はこうだ。ビルの地下室でホームレスの男が排水管で首を吊った。それからここ数日ずっと、死亡推定時刻と思われる時間にアラームが鳴るのだという。水漏れしていますって、警告がビルの管理部で鳴るのだという。水などあふれていないというのに。
だが、確かに地下室の排水管には、ゆらゆらと揺れる男の死体が見えていた。何もしない無害な呪霊だ。苦しい、辛い、もう生きていたくない、また我が子に会いたい——。
また我が子に会いたいか。だったらどうしてこの男は死んだのだろうか? 俺の親は絶対に死に際にそんなことを思ったりしないだろう。ホームレスになるなんてろくな大人じゃなかっただろうが、それでもうちの親よりはずいぶんマシだ。
「悟、どうしたの? もう祓っちゃったのに、何か見えるの?」
傑が言う。俺はそうか、祓っちゃったのかって思って、それでも耳に残る男の我が子に会いたいって声が頭の中を繰り返しぐるぐるしていた。駄目だ、同情してはならない。すぐに忘れなくては。この男がどんなふうに子どもを愛していたって、結局無責任に死を選んだのだから。
「……父が死んだのは、ここですか?」
誰も入れないでくれって言ったのに、喪服を着た三十代前半くらいの女の人が地下室のドアを開けた。その女の人によると、死んだホームレスは支援団体と繋がっていたらしく、そこから彼女の家に連絡がいったのだという。自分の子どもの家の連絡先を知ってもなお連絡せず命を絶ったのはどうしてか分からない。俺はこういう問題には聡くないから。でも、彼女が来るんなら、そんなに早く祓わなくても良かったのかもしれない。そう思ったけれど、あの強さの呪いが漏れ出していたのでは、普通の人間ならあてられていたかもしれない。だからこれでよかったのだ。
女の人は花束を排水管の下に備えて、手を合わせて帰っていった。俺たちのことは尋ねなかった。というよりも、俺たちと関わり合いを持ちたくないようだった。もしかしたら父親とも、これきりで縁を切るつもりなのかもしれない。それでも、女の人が持ってきたのはきれいな花束だったけれど。
「俺が死んでも花はいらないよ」
そう言うと傑は笑って、「だったら甘い匂いの花にしようかな」と目を細めた。頬骨に黒く艶やかな髪がかかって、それは薄暗い地下室の中でも美しく見えた。傑が死んだら、俺はどんな花束をおくるだろう。どんなふうに弔うのだろう。俺は足りない頭で頑張って考えたけれど、結局分からなかった。ただ俺たちはもう何の残穢もない地下室で手を繋ぎ、まるで交わるみたいにしばらくの間、別れるにしては華やかな花束を見つめていた。
子どもに会いたかったのなら会えばよかったのに。そう出来ない理由があったって、ただそう思われていたってだけで子どもは救われるのに。
俺がそう思うのは、俺が父や母に愛されたいと心の底で願っているからだろう。あのホームレスがどんな父親だったか知らないが、会いたかった我が子は花束を持ってきてくれたのだ。少し踏み出せば、絶望から逃れられたのに。
「行くよ、悟」
傑に促されて、俺たちは地下室を出る。俺たちはその時に、軽いキスをした。誰にもバレなくらい、ひそやかなキスをした。それは甘いキスだった。多分アイスキャンディーか何かの。もしかしたら、購買で買ったガリガリ君の味かもしれない。俺にもくれれば良かったのにな。
俺たちを呼んだ人々は、完全に扉が開いて俺たちが無事に現れると、みんなあからさまに安心したって顔をしていた。どうやら、俺たちがこもっていたのは、ビルにアラームが鳴る時間帯だったらしい。ホームレスが死んだ時間帯。俺はそんな彼らを見て、硝子に頼まれた、煙草をカートンで買うのを忘れないでいなきゃいけないなって、そんなどうでもいいことを考えていた。
呪霊となった父親は傑が飲み込んでしまった。だから、あのホームレスが我が子に会うことは二度とない。別れというものはそんなものなんだろう。俺と傑にいつか別れが来たって、ただ二度と会えなくなる、ただそれだけなのだろう。一体別れがいつかなのか、それだけが分からないだけで。
ビルから出ると、外は珍しく雨だった。あのホームレスが流した涙雨かと思ったが、そんなのは俺が勝手に想像したことでしかない。雨が降っても、雨が止んでも、あの娘は二度とあのビルを訪れない。そしてあのホームレスの呪霊は、傑に使役されるのだ。二人は二度と会わない。道は交わらない。ただ、それだけの話だ。どこにでも転がっている、それだけの少し悲しいばかりの話。