女神の加護 自分が無神経な人間だということは分かっていた。そしてそれを強く感じるのは、カミューという男と、よりにもよって親友と話している時なのだった。神に誓って、心から誰かが傷付けばいいと思って行動したことはない。知り合う人皆が幸せに暮らせるよう、騎士として手を尽くして生きてきたと思うし、実際のところ周りからの評価もそんなところだった。真面目で面白味に欠ける男。祖国を離反しても騎士としてなお行動しようとする石頭。けれどそんな男の側にいるのは、馬が一番あったのは、西の国からやって来た、奔放な男なのだった。
その男が国に帰ると聞いたのは、同盟軍の勝利が決定的になり、城で記念の祭りが催された時のことだった。彼は最初に俺に話すつもりだったらしく、「実はまだ誰にも言っていないんだが」と、人々に配られたワインに口をつけ、自室の窓辺に寄りかかって言った。窓からは満点の星空と、誰かが組んだ焚き火の火が見えた。人々は歌い、踊り、花が舞い上がり、自分たちの勝利を喜んだ。人々は言葉に尽くせない高揚の中にいた。俺だってさっきまでその中にいた。脅威は去った。明日、盟主殿と軍師のシュウ殿によって、正式に建国が宣言される。各国の大臣もこちらに来る準備をしていると聞く。だというのに、お前は。
「グラスランドに帰ろうと思うんだ。務めは果たしたと思っているし、笑ってしまうんだが、騎士の誓いを立てた時に古い友人に貰った、遺品の時計が壊れてね。それが壊れたら祖国に帰る約束をしててさ」
馬鹿みたいだが、大切な約束なんだ。そうカミューは言った。そして彼が胸元から取り出したのは、黄金の懐中時計だった。ひと目見て良いものだと分かる、そんなものだった。だとしたらその友人は大切なものを彼に託し、祖国から送り出したのだろう。そんな友人のためならば、彼は新しく出来た俺という友人を、いや、仲間を、いや、地位の等しい騎士を、置いて出て行ってしまうのだろう。
「お前はマチルダ騎士団の再建だろう? 厄介な役目を押し付けられたな」
カミューは笑ってまたワインを飲んだ。そのペースは早く、彼は手っ取り早く酔っ払いたいのだと思った。酔っ払って寝たいのだろう。俺も彼のように酔っ払って寝てしまいたかった。だが、カミューが自分の前から姿を消すのだと思うと、共に辛苦に耐えた友人が、親友が、たった一人の男が自分の側からいなくなってしまうのだと思うと、酔うことなんて出来るわけがなかった。
「俺の、育った場所だから……」
「私もだよ」
声は枯れていた。もうこれ以上カミューとこの日何を話したのかは覚えていない。ただ、俺は珍しく酔っ払って自分より先に寝てしまった友人の胸元から懐中時計を盗み出し、この道一筋の職人に見せた。だが彼はこれは前も見たが、自分にも直せないと言うだけだった。その時カミューも修理しようとしていたことを俺は知って、彼が自分の側にいようとしたことを暗く、嬉しく思った。だが懐中時計は動かなかった。動くそぶりを見せなかった。俺はその時久しぶりに女神マチルダに祈った。どうかこの懐中時計を再び動かしてくれと、俺から友を奪わないでくれと、マチルダ再建にはあの男が欠かせないなんて御託は嘘で、真実出来た初めての親友を奪わないでくれと。だが、やはり時計は動かなかった。女神は決して俺には微笑まなかった。どれだけ祈っても、日頃の不信心が祟ったのだろう。それか、マチルダ騎士団を離反した時、加護は消えてしまったのかもしれない。カミューがいつ同盟軍を出るのかは知らない、旅立つのかは知らない。だが、それは明日のようにも、明後日のようにも、それどころか俺の寝ている間ではないかと思えた。
「もう行くのか」
カミューが愛馬に乗り、城の裏門から出ようとしていたその時まで、俺は彼に声をかけることができなかった。出立の日にちを教えられていなかったから、俺はずっと彼が出てゆく日を探っていた。彼曰く気軽な旅だ、軽装で、すぐそこまでの街まで行くような格好で出て行ってしまうだろうから、彼が念入りに馬を世話をしている時を探した。そしてその目論見は当たった。俺は執念深い男だった。
「お前もそろそろマチルダ騎士団再建に乗り出さなきゃならない頃合いだろう。潮時だよ」
彼は妙にすっきりとした顔をしていた。もう守るものがないからだろうか? 同盟軍を抜け、マチルダ騎士団を抜け、ただ故郷に帰る、それだけの旅だからだろうか? でも俺は違う。一人の旅はまだ始まらない。始まるのは二人の旅だ。そしてそれはお前なしには始まらないんだ。
「考え直さないか。お前の力が必要なんだカミュー」
絞り出したのは陳腐な言葉だった。だからなのか、カミューはそれに返事をしなかった。そして馬を走らせ、俺から遠ざかってゆく。俺は諦めを覚えた。女神は最後の最後に俺を打ちのめした。だが、どうも様子がおかしい。カミューが城から出てそう経っていないところで、あろうことか馬を止めたのだ。
俺はそれを見て走り出す。時計なんてどうでもいい。俺には、マチルダ騎士団には、いや違う俺には、カミュー、お前という友人が、親友が必要なのだ。
「せめて手紙を書いてくれカミュー。お前の頭脳なしにはマチルダ騎士団は再建出来ない」
なのに、俺の口から出る言葉は、そんな簡単な、誰でも思いつくような懇願だけだった。だが、カミューは胸にそっと手を当てている。俺にもそれは聞こえる。カチ、カチ、カチ、懐中時計が動き出す音。
「友人の出立を止める時ぐらい、仕事の話はやめるんだな。あぁ、もうエールを飲もう、それからだ、再建計画を叩き直すのは……」
馬に乗ったまま、カミューは言った。俺は自分の顔が明るくなってゆくのが分かった。俺は得難い友人を再び得た。マチルダ騎士団の再建が終わった暁には、その記念には、彼が旅立つ時は笑顔で見送ろう。それまでは、この友人と共に人生を過ごそう。
空には美しい太陽がある。まぶしくて、見ていられないような光がある。俺はその光の中でどこかまごついているように見える親友の目に、鮮やかな思い出を見出して、そしてようやく女神の加護を自分が得られていたことに気付いたのだった。