苦痛のない穴にさようなら とある仕事が終わったある日の夜、コーヒーを淹れている俺の側で、狡噛はいつものようにソファで本を読んでいた。いつもと違うのは、彼が眼鏡をかけていたことだ。まだ老眼には早いだろうに、戦場で目をやってしまったのだろうか? 俺はそんなことを思い、マグカップを二つ手にして彼の側に座った。
「何を読んでるんだ?」
湯気の立つマグカップをローテーブルに置き、俺は尋ねる。すると狡噛は眼鏡を外して、「とあるゴリラの一生についての話さ」と言った。
「ゴリラ? 探偵ごっこの次は霊長類研究でもするのか?」
彼はここ数日イギリスの推理小説に夢中になっていたので、俺はそうからかった。だが、彼はそれに惑わされることもなく、俺に説明を続ける。
「二十二世紀から二十一世紀にかけて手話を使えるって話題になった、ゴリラについての調査書さ。出島のマーケットで見つけた。手に入れるのは大変だったんだぜ」
「へぇ……」
俺はその意外な本に、少し興味を持った。手話を操るゴリラ。霊長類の中でも賢いとされる彼らだが、そんなことまで出来たとは。けれど俺はコーヒーの匂いには負けてしまい、早く、早くと温かなそれを口に運ぶ。苦い味がする、焙煎を誤ったかもしれない。ミルクも持ってくれば良かった。でも、ほんのりとした酸味が美味くもある。
「ゴリラのメスだったココは、猫を可愛がりもした。その猫が死んだと告げられた時にはショックを受けて泣き、研究者とのコミュニケーションを断った」
ゴリラの名前はココと言ったのだそうだ。そのゴリラに手話を教えたのはある若い発達心理学者の女だった。ある日彼女がココに絵本を読み聞かせていると、ココは絵本に出てきた猫を気に入り、誕生日プレゼントに猫をねだったそうだ。そこで猫を殺す可能性を懸念した研究者はおもちゃの猫を与えたのだが、ココが気に入ることはなかった。そこで、ゴリラが別の動物をペットとして飼育することができるのかの実験もかね、本物の生きた子猫を与えることとなった。ココはその子猫をボールと名付けた。だが、ボールは車にひかれて死んでしまう。それを告げられたココは、ボールを愛していたと繰り返し手話をあやつり、泣き叫んだらしい。
「愛情深かったんだな……」
動物も異種族を愛することがあるのか、いや、俺たち霊長類と近いゴリラだからこそ、そう思ったのだろうか。俺はそれを不思議に思い、そして最近別れたばかりの愛犬を思った。
「それより面白いのはさ、ゴリラが死の概念を理解してたってことさ。死についてどう思っているって尋ねられた時、ココは何て言ったんだと思う?」
「ヒントもなしで答えろって?」
俺がそう言うと、狡噛はコーヒーの入ったマグカップを手に取り、それを口をつけ、読んでいた本をそっとソファの脇に置いた。そして深く息を吐きながら俺にこう言った。興味本位で読んでいたくせに、そのココとやらを悼むようにして。
「死んだゴリラはどこへ行くのかと聞いたら、苦痛のない穴にさようなら、だとさ」
苦痛のない穴にさようなら、か。妙に哲学的な言葉だ。俺はそれに何とも言えない気分になってしまい、果たしてダイムは自分が死に向かっていることを理解していたのかと不安に思った。とはいえ、彼には別れを告げられなかったのだが。弱った彼と寄り添って眠っていた時、うたた寝をしてしまった俺は愛犬を見送れなかった。もう数年前の話だ。最初こそ後悔をして自分を憎んだが、今ではあたたかな思い出しか脳裏に浮かばないようになっている。それでもそんな言葉を聞いてしまったら、考えずにはいられなかったのだが。
「まぁ、類似の研究はオランウータンでもされていて、このココの研究は嘘っぱちだったってする批判もあるんだがな。ココの手話を理解出来たのは数人だったらしいから」
それでも俺はそのココが言ったという、苦痛のない穴にさようなら、という言葉が本当であったらいいと思った。痛みのない穴。そこに消えてゆく魂。
「俺が死んだら——」
死んだら、どこに行くんだろうな、苦痛のない穴か、槙島のいる地獄か、それとも魂なんてものは嘘っぱちなのか。自分のことを不可知論者だと思ってたが、案外信心深いのかもしれないな。狡噛は静かにそう語り、そしてコーヒーを飲む。湯気はもう薄くなってしまっていて、マグカップも大分冷えてきていた。
狡噛が死んだら、俺はどうなるのだろう。そう思ったけれど、それを彼に語るのは間違っている気がした。それは俺の問題で、彼が抱えるべきものじゃないからだ。俺は一人でも歩けるってことを彼に示さねばならない。それが人を愛するということだろうから。
「お前が死んだら、骨くらいは拾ってやるよ。親父にもやってやれなかったことだぜ? 感謝するんだな」
俺はそう言ってコーヒーをすする。すると狡噛はやはり苦笑して、そうだったらいいんだがな、と言った。お前は危なっかしいから、とも。
狡噛がまた本を手に取る。俺はそれをじっと見つめる。さっきの語りは彼の柔らかい場所を晒された気になって、どうにも落ち着かなかった。俺は彼とすぐにでも寝たかった。けれど今日の彼はそうじゃないようで、また眼鏡をかけ本に没頭した。俺は狡噛の肩に頭を乗せ、マグカップを手のひらで包み込む。狡噛は何も言わない。
生と死、人類が自らに問いかけてきた永遠の問題。俺たちもいつかそれを語らう日が来るのだろうか? 俺はそれを少し恐ろしく思い、けれどやがて話し合わねばならない日が来るのだろうと思った。つまり二人の終わりについても。
コーヒーの匂い、それで薄まるかすかなスピネルの匂い、そして彼の体臭。俺はそれを吸い込んで、彼の心に触れた気になった。いつか消えるのだろうその匂いを、彼の心を吸い込んで、俺は彼の深い場所に触れた気になった。けれどあたたかなそれは、今日ばかりはどこか冷えている気がした。そして俺と彼の境界を見た気になって、彼が恋しくなって、静かにまぶたを閉じて狡噛の首筋にキスをした。
「どうしたんだ、ギノ。肌恋しくなったか?」
狡噛が笑う。俺はそれに脇腹を殴り、再び首を傾けて彼の肩に頭を置いた。いつか死について理解しなければならない日が来ても、その日までは狡噛と共にいよう。それだけしか、きっと今の俺には出来ないから。