迷迷糊糊『やあ、烏麻亜蝶。』
耳の近くで、まとわりつくような声。「なんだ、ルイ…。」そう言いかけてハッと我に返る。今日はオフ、ベッドにある時計は10時を指している。そうすると、ルイはもう美術館に行っているはずだ。じゃあこの声はいったい、誰だ。『ハハ、残念』だらしなく口をあけているそいつは、じりじりと烏麻亜蝶に詰め寄る。『今日はオフだろ?お前はいつものように、哲学や心理学の本を読むのか?もしくはそれに紅茶もセットか?そんなことしててもまだ時間は余っているだろうから、気休め程度のエゴサーチでもすればいいんじゃないか?』そう言ってケタケタ嗤う声は胸のあたりが詰まるような気持ち悪さをはらんでいた。「うるさい…黙れ。」目覚まし時計を強めに置きなおす。『烏麻亜蝶、オフの日のお前はまるで充電の切れたスマホよりも動かないただ・・の・がらくた・・・・だな。いや、お前の現状に近い表現としては…(ミズの切れたお華)のようだ、というのが適切か?』目の前の男は、今にも笑い出しそうな声色でこちらをじろじろと覗き込むが、目元がぼんやりとしてよく見えない。それが一層不快感を増長させた。「うるさい。へたくそなたとえ話は時間の無駄だ。」相手にしてはならないと思い、亜蝶は正反対の方向を向いた。『まあ、今日のその身体じゃ、ずっとベッドでうなだれているのがお似合いじゃないか?』なぜか、直前まで後ろにいたはずの男が目の前に立っていた。男は首を不自然に前に動かした。男はどんなに向きを変えてもこちらの目の前に立つ。『なあ、なあ、烏麻亜蝶、がらくたの、偽物の、張りぼての、人形』亜蝶はそれらのワードを聞いて、神経が磨り減る想いがした。
「黙れ、だまれ……黙れ!!!!!」持っていた目覚まし時計は壁に打ち付けられ、赤い目は鋭く相手を睨みつけていた。目の前の、真っ黒な靄がかかったように見えていた顔が、はっきりと見えた。その時、烏麻亜蝶は─亜蝶は、心底気味が悪いのだと言いたげな、苦虫を噛み潰したような顔をした。「は…」目の前のそいつは、烏麻亜蝶と同じ顔のつくりをして、全く同じ声を持っていた。そいつはこちらが存在を認識したことに気が付いて、嗤った。『やっと気づいたのか。お前はつくづく愚鈍なやつだ!』ただ、口元のゆがみと、そこから見える歯の鋭さだけが、目の前の男が怪物であることを示していた。黒く染まって血管が強く浮き出た手が、亜蝶の顔を歪めた。『お前もそろそろ、枯れた華の仲間入りだなァ!ミズビタシ、、、、、は早くこっちへきたらどうなんだ?はははははハハハハは羽歯爬%*!#6$!!』手が震えていた。その手が、目の前でどんどん黒くなっていく。そのうち砂のようになり、先端からサラサラと、宙に消えていく。亜蝶は腕まで侵食しているそれを見ながら声を上げることしかできなかった。「おい」「ふざけるな」手が消えていくと同時に、視界がぐらぐらと歪みはじめているのが分かった。「やめろ」歪みが強くなっていき、意識がぼんやりとしていく。「やめろ、何なんだ、おい、消えるな、やめてくれ、ルイ、ルイ!」渇いた喉を振り絞って出た声だった。視界が途切れた。「亜蝶、起きているか。」手が、いや、頭も冷たかった。目の前に、ぼんやりとした人の影が見えている。少し手を伸ばすと堅い感触があった、ベッドの脚だ。少し遠くに、原形をとどめていない目覚まし時計の姿があった。どうやら、俺はさっきの気味の悪いあれこれの後に、床に倒れ込んでしまったらしい。起き上がろうとすると、ルイがさっと背中に手をかけた。「ああ、急に起き上がるのはよくない。頭に血がのぼる。」「う…うるさい。」結局すぐには起き上がれずに、ルイの手を借りてゆっくりと起き上がった。ペットボトルに入った水をのむと、少しばかり頭がクリアになった。「帰ってきたら不自然にドアが開いていてな。」鉛のように動かない身体を、ルイは軽々とベッドまで運ぶ。「まさか倒れているとは思わなかった。」亜蝶は、助けてもらった身で感謝の意を述べるのも、だからと言ってこれを拒否する気にもなれなかった。「…ああ」と、単語未満の音を発した。ルイは、亜蝶を安静にできる体勢になるように位置を調整した。「医療棟には連絡を入れてある。まあ、疲労と、それによる若干の熱だ。明日のスケジュールは別日に変更したから、休んだ方がいい。」そう言って、亜蝶の頭を軽く撫でる。「勝手なことを…」亜蝶はそういいつつも、それがベストであることはわかっていた。ルイの手を払おうとした手は届かず、がくんとシーツの上に戻った。力が出ない。身体が鉛のように重い、とはよくできた比喩だと亜蝶は思わずふっと笑った。「鬨も心配しているからな。」「ああ。」ルイの腕時計は18時を回っていた。「俺は、一度医療棟に行ってくる。」鉛のような身体がビクッと動いたかと思えば、亜蝶の手は、彼に背を向けたルイの腕をつかんでいた。ルイが振り返ると、背後には、お化けに怖がる子供のような、ひどく弱った目をした男がいた。
「まだ、もう少し、行かないでくれ。」
その手はとても小さく思えた。