東の国の海の おはなし 王国の東。海に近い砦のような城に住む王子は立派な体躯と濃い碧色の双眸の美しい青年だった。
王国の第三継承者で成人すると望む場所に住む事を許されたので、海が好きだった彼はこの場所を選んだ。
外海へ続く湾とは別に、城の東には美しい入江が広がっていて夕暮れ時には紅く、満月の夜には青白く、海を照らす。
ある新月の夜に。
書き物から顔をあげて窓辺に立つ王子は、人魚の歌を聴いた。
言葉のない節回しで柔らかなアルトから高音で伸びるテナー。
不思議な旋律は幼い頃に聖堂で聴いた祈りの合唱曲のようにも、はたまた海に沈んでいるという太古の釣鐘のようにも感じられた。
さっきまで張り詰めていた思考がゆっくりほどけていく。新月の暗がりに目を凝らすと、見下ろした入江の少し沖にある小さな岩場からぱしゃんと音を立てて何かが水へ潜るのが見えた。
大きなヒレが水面を叩く音を聞いて王子はそれが人魚だと知ったのだった。
王子は海に潜ることに長けていたし、小舟を一人でかることも、大きな商船の操作指揮を取ることもできた。
国政の合間をぬって入江を散策しながら声の主の手がかりがないかを探ってみたりしたものの、相手は人では無い。
夜の海は神域とされ、潜ることは叶わなかったので、新月の夜に窓辺に立ち歌が聴こえてくるのを待ち侘びることしか出来ない。
夜の海面に映る青白い月が欠けていくのを眺めながら、王子はいつかその姿を目にしたいものだと、心から願っていた。
ある暴風雨の翌朝。
湾から流出した商いの荷物を拾い集めるために湾から小舟を出した王子は、自分が岸からだいぶ流されてしまっていることに気がついた。
そこここに散らばった木箱を追いかけるうち、離岸流に乗ってしまったらしい。
嵐の名残とばかりに黒い雲の漂う海域に出て、これはまずいことになったと思う間も無く雨が額を打ちつけてくる。
いつもより大きな波が近づいてくるのが見えた次の瞬間。
王子の小舟はまっ逆さまに波に呑まれた。
波間に投げ出された木箱たちに脚を挟まれ、水が赤く濁る。
痺れたような痛みに舌打ちするも囲まれた荷の残骸を避けるのが精一杯でいつものようには動けない。
背後からふたたび大波が叩きつけ、荷の角に頭を打ちつけた王子は意識を失って水底へと落ちていった。
伝えきいたものと同じ…紅い髪が水中に広がる。
一度姿を見たら心を奪われて二度と海から戻れない
それでも構わなかった。
これが最後になるなら願いは叶った。
白い肌に映える紅の下の双眸は紫水晶。先ほど沈めてしまった荷物の宝石と絹織物が水中に広がり、ゆっくりと水底へ向かって落ちていくのが見えた。
「……」
綺麗だな。
声は出ず、口から溢れたのは泡。困ったように下がった眉が近づいてくる。ふぅぅっと唇から息を含まれて目を剥いた。
「大丈夫 君はぜったいに死なせない」
僕が助けるからね。
水中なのにはっきりと聴こえて来たのは、あの新月の歌声と同じ声。ぐっと掴まれた両肩を抱きしめるようにして水中を進んでいく。結構な速さだ。
意外と力強いんだな。頼もしいぜ。
緩んだ意識がまた遠のいていく。
目が覚めると王子は入江の波打ち際にひとり、寝かされていた。
沖とは違って陸に近い海面は静かなものだった。先刻までの荒々しい海は遠く体のあちこちの痛みがなければ、夢でも見ていたのかと思う。
雲間から射し込んでくる陽に右の頬を焼かれ、じくりと後頭部が痛む。
駆けよって来る城の衛兵の怒号を聞きながら、海の底に連れて行くんじゃなかったのかよと、王子は独りごちた。
波にさらわれた荷の損害はなかなかのものだったが、数日後入江に打ち上げられた王子の小舟とおぼしき船の残骸を見て、人々は「王子の命と引き換えと思えば安いものだ」と言い合った。
王国は栄え、中央の城下市は異国からの商人も行き合い、芸術家や楽師入り乱れて大変な賑わいを見せていたので、東の海の国の小さな損害などものともしなかったのだ。
中央と東の海の国を結ぶ中継点には王子の祖父の治める荘園があり、行き来も盛んであったため怪我を案じていること、沈んだ荷はまたすぐに送るので気にするなと書かれた書簡が届いた。
しかし怪我をした王子は自らの失態を取り戻すべく遮二無二働くことにした。
「安静に」と御殿医から言い置かれてから二日目には、脚を引きずって城と湾を行き来し、包帯を変えるのを忘れるので、医師たちは頭を抱えて若い医師を張り付かせた。
動き回ったことが良かったらしく王子はめきめきと回復して「さすがは星の一族の血統」と益々名を挙げた。怪我の功名とはよく言ったものだ。
そうこうするうちに、嵐から数えて最初の新月の夜がやってきた。
瞼の裏に残る鮮やかな紅い髪色に思いを馳せ、いつものように王子は窓辺に立ったが、その夜人魚の歌は聴こえてこなかった。
海の端から白靄の立つ明け方近くまで待ったが聴こえてくるのは鶏の声ばかり。
落胆した王子は外套を羽織ると入江へ向かった。
明け方の茜さす入江はいつものように美しく、打ち寄せる波音と共に傷心の王子の胸を癒した。
ふと、いつも見慣れた風景に違和感を感じて王子は立ち止まった。
何かが違う。
目を凝らして見ると昨晩、漂着したらしい大きな流木の影にこの近海では見たこともない海藻が…いや違う。人だ。まさか。
はやる気持ちのまま駆け寄ると、一糸纏わぬ白い肌に紅い髪の若者が、砂に突っ伏すような格好で倒れていた。
死体にしか見えないのは裸足であるせいか。
いやこの男はまだ死んではいない。
希望を込めて抱きかかえると、んんっ…と身じろいで小さく息を吐いた。
安堵し髪についた砂を払ってやると、ゆっくりと瞼が開いていく。
感情を覗かせない透明な瞳は夢にまで見た紫水晶で、王子は胸が温かいもので満たされていく心地がした。
ぱちりと大きく瞬きをひとつして王子の姿を認めると、大きな口をあけてにっこりと笑う。たまらず抱きしめてしまってから、そういえば相手が服を着ていない事に気が付き、自身の外套を脱ぎ捨ててばさりと羽織らせた。いちばんに見つけたのが自分で良かった…
「やれやれだぜ」
口を出たいつもの口癖に特に反応するでもなく、すりと赤毛が肩に寄りかかってきた。
どうも衰弱しているようだ。
さっきから一言も話さないのは具合が悪いのか…。
こうしてはいられないとばかりに王子は彼を抱き込んだまま勢いよく立ち上がり、ぐったりとした身体を肩へ抱え直すと城へ向かって歩き出した。
俵担ぎした冷え切った白い肌をさすって眉を顰める。
何か温かいものを用意させよう。服も…先日中央の市から届いた絹織物があった筈だ。好きなものを選ばせてやろう。
部屋も用意しなくては。
いや。とにかく医者が先だ。
湯浴みを嫌がるので水浴びをさせて、ゆったりとした白いローブで包んでから、急拵えとは思えない豪奢な寝台に寝かせる。若い男は物珍しそうに目をくるくるさせているものの、力が入らないらしく大人しく横たわっている。若い医師が呼ばれると、王子はその横に仁王立ちして様子を伺った。
「脈は弱くなっていますが正常です。体力が戻るまで安静になさっていればじきに回復するかと思います。それと…」
「なんだ」
先を促すと言い淀んだ若い医師は小さく首を振って答えた。
「声が出せないようです」
声帯に異常は無いのですが…精神的なものなのかそれとも話せないのか…
「まだ分かりませんが、見た目の特徴はこの近隣の者では無いですね」
「そうだな」
「何かご存知ですか」
「いや…ようわからん」
見下ろすと紫色の瞳と目が合った。
紅い髪も紫水晶色の瞳も、覚えはあるがあの時、彼はしっかりと喋ったのだ。声が出ないだと。
そして毛布からはみ出しているのは大きなヒレではなく白い立派な両脚だ。
よく知っている人魚だ。というのも馬鹿馬鹿しくなって剥き出しの白い脚に目をやる。…寒くないか。
寝台に近寄るとおもむろに毛布をかけ直して、若者の両足をしっかりくるみ直した王子の様子を見て、若い医師と部屋付きの女官が目を白黒させた。意外ッ!それは献身。
「あんなに丁寧でお優しい姿は初めて見た」
御殿医省に戻った若い医師の第一声である。
とはいえ威圧的な見た目と違い、王子が大変情深いことは東の海の国では知れ渡っていたので民の間では、見ず知らずの漂流者を介抱したことは‘お優しい気まぐれ‘とされた。
素性の知れない若者を最初は訝しむ者もいたが、回復と共に洗練された物腰を見せるので、きっと異国の王族だろう、難破した彼を探している者がそのうち現れるだろう、それまで失礼があってはならない、言葉が話せなくなってしまうなんておいたわしい…徐々に周囲も慣れて不問とした。
何より王子が気に入って側に置いているのだ。
中央の市から届いた美しい絹織物で作らせた翠色の服は彼によく似合った。細い腰。すっと伸びた長い指。一房長く垂らした前髪という不思議な髪型。
柳の様な佇まいはどこか中性的で美しく、声は出なくとも人の機微に敏感なので城の者はすぐに彼を好きになった。
王子は相変わらず国政と湾の外交とに忙殺される毎日を送っていたが、前とは違って一人で海に潜ることはしなくなった。
そのかわり彼を連れて入江を散歩する姿がよく見られる様になり、風の強い日には長い指の手を引いたり上着をかけてやるのだった。
王子がただひとつ残念に思っていたのは、新月のあの歌がもう聴けないということで、
「あれはおまえだろう もう歌ってはくれないのか」
時々、責めるように言えば若者は困ったように眉を下げる。
同時に引き結んだ大きな口を王子が大変好ましく思っているのは周囲にも明らかであった。
しかし寝所をひとつにしましょうか という提案に、顔を耳まで真っ赤にした彼は頑として首を縦にふらなかった。
めんどくせぇヤツだな。
そう言いながら王子は若者の前髪に指を絡ませて笑った。
ゆるやかに時が流れていく。
異国の商船の話にも中央の市場で聞き込んだ情報にも、若者の素性は上がらず、縁者と名乗る者も現れなかったので、東の海の王国では「そろそろお輿入れでは」と噂が立つほどになった。
王国の資金は潤沢で東の海の国もその一端を見事に担って国をますます発展させたので、特に世継ぎがどうこうという厳しいお達しなどなく、王子は我が道を迷いなく突き進んでいた。
特に隠すこともないとばかりに、城にいる時だけでなく外に出る時も彼と一緒にいる姿が日常になった頃。
王国の一代目が退位する旨を国中にふれた。
中央都市の王宮に住む王は首が無かったが、良政をしいて民にも手厚くしたので王国全土から絶大な尊敬を集めていた。
お后様は医者の家の生まれで各地へ病院を建設させ医療充実に努めていたので、こちらもまた賢妻として人気があった。
二人は大変仲睦まじかったが、王は退位後の人生を約束している悪魔を義理の兄弟としていて、そろそろという運びとなったのだった。
首が無くても 立派に健康で生きているのは
その悪魔と契約させられたからだ
というのがもっぱら民の間で言い交わされていた話である。
二代目の国王はもう決まっていて、王子の祖父にあたる人物であった。
退位と即位の式典にあたって中央から招待状が届き、王子も一族の継承者として臨むこととなった。
出発の日。なぜか悲しそうな表情で送り出す彼に、すぐ戻る 何も心配するような事はない と王子は何度も言い聞かせた。
王子を乗せた馬の一団が、大地の稜線に消えて見えなくなるまで若者は門の外に立ち、それから部屋に戻ると篭ったきりになった。
食事の回数が減り、東の入江を窓から眺めている時間が長くなり、このままではまたお医者様を呼ばなくてはならなくなりますので食べて下さい と侍女に言われても首を横に振るばかり。
きっと王子が居ないと水から上がった魚のように干上がってしまうんだよ。
水魚のまじわりの如く仲睦まじくあられていたから。
そう口々に噂されるも、中央の城下を目指す王子にこの事を伝える術は無く、周囲は頭を抱えてしまったのだった。
⇨⇨⇨ to be continued