ホワイトデー「この日に手伝いを頼みたいのだが、空いているだろうか」
鍾離が指しているのは三月十四日だった。特に何の疑問も持たずに二つ返事で魈は了承し、当日鍾離の家へと訪れていた。
「朝からすまないな。装具を外して上からこれを羽織り、そこの紙袋を持って俺と共に璃月港を回って欲しいんだ」
「……承知しました」
凡人に扮して鍾離の手伝いをして欲しいということなのだろう。手伝いならばといそいそと葬具を外し、身の丈程の長い外套を羽織った。紙袋はいくつも用意してあり、確かに鍾離一人で持ち歩くには大変そうだった。
「では行こうか」
「はい」
璃月港を鍾離と共に歩く。何処へ向かうのかと思ったが、三歩程歩いたところで鍾離が女人に話し掛けていた。魈の知らないただの凡人へ、鍾離は紙袋から一つ包みを渡し手短に会話をした後、別れの挨拶をしていた。そして、また三歩程歩いては別の女人へと声を掛けに行っている。何用で女人へ話し掛け、何用で包みを渡しているのか、魈へ説明がなかったので想像もできなかった。これは一体どういうことだろうか。疑問を口にしたくても次から次へと鍾離は女人に包みを渡すべく声を掛けているので、口を挟むこともできなかった。
結局朝から夕方まで、璃月港中を回って腰の曲がり掛けたような者から幼子までのほとんどの女人に声を掛け、鍾離は包みを渡していた。ちなみに往生堂にも寄り、胡堂主にも包みを渡していた。益々謎が深まるばかりであった。
「お、私のところにも来たってわけね! お返しありがとう。鍾離さん先月い────っぱい貰ってたもんね~」
そう胡堂主は言っていた。つまり、鍾離は先月何かを貰って、そのお返しにと今日港を練り歩いているようだった。
……先月? 先月と言えば、鍾離の家に行った際に、両手に抱える程の紙袋を持った鍾離に遭遇したことがある。あれはそう、バレンタインデーとやらの日だった。
魈も鍾離に手作りのチョコを渡し「これは義理か?」と聞かれ、咄嗟に「違います!」と返答したのは記憶に新しい。あれから鍾離と顔を合わすのが気恥ずかしいのだが、それ以上鍾離はその話を深掘りしてくることもなく今日に至っている。つまり本命のチョコという話題を鍾離は流したのだ。ああそうか。鍾離にはこれだけ相手の候補がいて、魈など眼中にないことを伝えたかったのか。嬉しそうな顔はしていたが、鍾離にとってはそれ以上でも以下でもない事柄だったのだと今になって気付いた。元々成就するつもりもなく、旅人に感化されただけだ。心を乱す訳にはいかないので、あの出来事は忘れた方が良いと、魈は思った。
「では堂主、また後ほど」
「はいはい。頼みたいこといっぱいあるから、待ってるね~」
鍾離の後ろでぼんやりそんな事を考えていると、鍾離は胡堂主へ挨拶を済ませ、往生堂を後にしていた。
「……時に堂主、質問があるのだが」
「降魔大聖から質問とはね、なになに?」
先行く鍾離を前に、少しだけ聞いておきたいことがあった。本人に聞けないのなら、知っている者に聞けば良い。
「今日……なぜ客卿殿はああやって包みを渡して回っているのか、知っているか?」
「う~ん? 今日はホワイトデーっていって、バレンタインデーにチョコを貰った男子が、そのお返しをする日なの。鍾離さん先月いっぱいチョコ貰ってたでしょ? だから港中にお返しして回ってるんだと思うよ~。降魔大聖はそのお手伝いしてるのんじゃないの?」
「ああ、そんなところだ。……なるほど。そのような日があったのだな。感謝する。ではまた……いずれ」
「うんうん。往生堂は、いつでも来てくれていいからね~!」
相変わらず騒がしく元気な堂主に手を振られ、魈も往生堂を後にした。先ゆく鍾離の後を少し急ぎ足で追っていく。魈の持っていた紙袋分は渡し終え、あとは鍾離の手持ち分だけになっていた。
「あらかた渡し終わったな。魈。手伝ってくれて感謝する。時に、お前は何か欲しいものはあるか?」
「? え、えぇと……急には思い浮かばないのですが……なぜでしょうか?」
「お前にもお返しをせねばならないだろう?」
「我に……?」
「他の者へは義理のお返しということで同じ物を包んだが、本命からのお返しとあってはそういう訳にはいかないだろう。時に、ホワイトデーとは貰った物の三倍程の物で返したりするようなのだが、お前の手作りチョコの三倍に値するものが何なのか、今日まで思いつかずにいてな……まだ用意できていないんだ。すまない」
鍾離でもわからないことがあるのかと、魈は一瞬驚いてしまった。しかも三倍にして返そうなどと思われている。とんでもないことだ。益々手作りチョコなどを渡してしまったことを後悔せずにはいられなかった。
「ホワイトデーなる日があると知らずに鍾離様へチョコをお渡ししたことは、軽率な行動でした。すみません。我に返礼品など不要です」
「まぁ、そう言わずとも良い。何か褒美だと思えばいい」
「しかし……褒美など貰えるような武功も立てておりませんゆえ、やはり、不要かと……」
「魈」
先程までにこやかに話をしていた鍾離が、一瞬だけ怪訝な表情をしたのでひゅっと喉が鳴った。一瞬だけ肩を跳ねさせてしまったことは鍾離にはバレているだろう。しかし、本当に欲しいものが思いつかないのだ。
「我は……その……」
「お前は何をしている時が一番楽しさや安らぎを感じるんだ……?」
楽しい? 夜叉に楽しいなどという感情は不要だ。休息を取るのは確かに安らぎを得られるが、次の戦闘に備える為に行っているので、鍾離の聞きたいことではないかもしれない。
「……わかりません……」
「物でなくても良い。俺にして欲しいことでもいいぞ」
「鍾離様に、してほしい、こと……」
じっと石珀色の瞳を眺めた。この瞳を見ていると酷く安心する。安らぎを感じる。もう少しだけ寄り添いたいと思ってしまう。それは事実である。
「今日、もう少しだけ鍾離様と璃月港を……歩いてみたいです」
「ほう? そんなことでいいのか」
「はい。我にはそれで充分です」
鍾離の瞳と同じような色をした空模様が、段々と暗く染まっていく。荷物がなくなって両手が空いた魈の手のひらに鍾離の手が重なり、魈の外套の中で手を繋いだ。今度は別の意味で肩が跳ねてしまったのだが、鍾離は離すつもりはないようだった。
ゆく宛もなく、ゆったりと璃月港の中を歩いていく。日中散々鍾離は凡人に話し掛けていたので、誰も鍾離と魈に目もくれなかった。
「お前にも、どういう者にチョコを貰っていたか見せたくて付き合わせたのだが、嫌だったろうか」
「いえ、鍾離様の交友関係の広さを垣間見ることができて、良かったです」
「そうか。実は俺にも本命がいてな。今日は柄にもなく緊張している」
「そ……うなのですね。そうとは知らず、鍾離様の時間をいただいてしまい……」
「お前の話をしているんだぞ、魈?」
「なっ、あっ、うぅ……」
ぎゅうっと手を握り締められて、全身の血液が沸騰しそうになってしまった。緊張しているのは魈も同じだ。握り締められている手に、感覚が何も感じないのだ。
「早く俺は家に帰りたい」
「すみません、気が利かず……」
「早くお前に好きだと返事をして、その唇に口付けたくて堪らない」
「なっ、ぁっ、へ」
思わず二度目の素っ頓狂な返事をしてしまったが、鍾離がすかさず指と指を擦り合わせてきて、じっと魈の瞳を見ている。鍾離は真剣だった。だからもう、これは逃げられないのだ。
「し、鍾離様……」
「ふ、はは。日が暮れたら俺の家に行こうか、魈」
「は……はい……」
日が暮れたらどうなってしまうのだろうか。鍾離の家に行ったらどうなってしまうのだろう。鍾離は、魈が本命だとチョコを渡したことを覚えていて、それに今日応えようとしてくれているのだ。そして、もうその答えをさっき聞いてしまっているのである。
「ぁ……」
顔が熱くて堪らない。鍾離の家に行ってしまえば、恋に疎い魈でもこの後どうなってしまうのか、想像がつかないほど幼くはない。
「魈」
「し、鍾離様、おまちくださ……ンんッ」
「俺は一ヶ月待った。今日は本命のチョコを貰ったことに対する返事をする日なのだろう?」
鍾離の家に入った途端に玄関の扉に背を押し付けられ、口付けをされた。鍾離の唇はやけに熱く、何度も何度も啄まれてしまえば、熱が移ったかのように、魈の唇も甘く痺れてきてしまう。
「お前のことを好いている。欲しいものがないのなら、今日は先日魈に貰った気持ちの三倍返そう。魈、お前のことが好きだ」
「な、う、うぅ、鍾離さま、それは……ぁっ」
ぎゅっと抱きしめられて、再度口付けをされた。鍾離から与えられるものを享受するしかなく、息を吐く暇もなくて目が回りそうだった。
「ゆ、ゆっくりで大丈夫です……鍾離様、我は逃げませんので……」
「しかし、それでは俺の気が済まない」
「では、今日は共寝をするのは、いかがでしょうか?」
「なに……?」
何でもいいから一旦鍾離に落ち着いてもらいたかった。それが功を奏したのか、共寝と聞いて、鍾離の行動がピタリと止まったのだ。
「魈は、俺と共寝をして欲しいということか……?」
「そ、そうです」
勿論鍾離に共寝がしたいなどと所望したことはない。しかし、このまま愛の言葉を囁かれ湯水のように口付けをされるのは、魈の方が根を上げてしまいそうだった。
「では身を清めた後、寝台で共に眠ろう。お前は望舒旅館とこの部屋とどちらがいいんだ?」
「では……鍾離様のお部屋に失礼致します」
そう言ったのは、今からわざわざ鍾離に望舒旅館に来てもらうのが手間だと感じたからなのだが、後々になって鍾離の布団で眠るという事実を噛み締め始めると、どちらにせよ魈の心臓が持たなくなりそうだった。
「魈……俺は、お前から気持ちを告げてもらえて、本当に嬉しかったんだ」
「わ、我も、まさか返事をいただけるとは思っておらず……う、嬉しいです」
布団の中でも抱き合って、ただ夜を共に過ごし眠りについた。
それは、心は落ち着かないものの、久しぶりに安らぎを感じる、静かな夜のことだった。