眠りの酒 コツコツと扉を叩く音がした。こんな夜更けに一体誰だろう。と凡人の俺は思うべきだろうが、生憎と扉の向こうにいる人物は気配でわかるものである。
「どうした? 鍵は開いているぞ。入ってくればいい」
扉の向こうへ声を掛けてみたが、全く扉が開く様子がない。俺が開けるのを待っているのだろうか。なんともまぁ律儀なものだ。
去る気配もなければ、そこから動く様子もない。どうしたものかと思い扉を開けたところ、やはり目の前にいたのは、凡人の身からすれば中々お目に掛かることのない仙人様だった。
「魈、どうした?」
「……」
彼は断りもなく俺の家を訪ねて来ることは今までないに等しい。大事があったのかと思い尋ねてみるが、魈は俯いたまま返事の一つもしない。言い難いことでもおきたのか。特に彼から酷い業障の気配もしなかったので、全く状況がわからなかった。
「とりあえず中へ入るといい。茶でも入れよう」
ここで対峙していても埒が明かないので魈の手を引いて家の中へ招き入れた。特に抵抗すこともなく、魈は家の中へと足を踏み入れた。
「……帝君……」
「ん?」
椅子に座らせ待つように伝えると、ようやく魈が言葉を発した。
「なぜ、帝君が目の前に……?」
こてん、と首を傾げ、不思議そうに金色の瞳を丸くして俺のことを見ている。
「それは俺も聞きたいところだ」
「我が、先程帝君に会いたいと思ったので、会いに来てくださったのですか?」
「んん?」
ようやく魈が会話をしてくれるようになったので傍へ寄ったのだが、へにゃ、と顔を緩ませ椅子にもたれかかっている。このような魈の表情を見たのは初めてで、心臓がざわつき動揺してしまうのも無理はなかった。
魈はゆっくりと瞼を閉じては、またゆっくりと開いて瞬きをしていた。とても眠そうにも見える。
「やはり帝君には敵いません」
ふふ、と笑う魈にどうしたものかと思い悩む。このように顔の筋肉を緩ませ笑う顔を見るのも初めてではないだろうか。これはこれで物珍しく愛らしいとは思うが、どう見ても普通ではない。
「魈、先程まで誰かと共に居たのか……?」
「……風神と……」
「バルバトスか……?」
まさか彼の名前が出てくるとは思っていなかったので、心底驚いてしまった。
「はい、風神に酒を共に飲もうと言われたので、少し付き合いました」
「なぜ……そのようなことに……なったのだ……?」
バルバトスと魈は酒の飲む仲だったのか!? と少しの嫉妬心を抱かずにはいられない。俺は酒の席へ何度か魈を誘ったことがあるが、降魔があるので。といつも彼は断るのだ。
「笛の音のお礼に付き合って欲しい、と」
なるほど。酒を飲むことになった理由についてはよくわかった。律儀な魈は断れなかったのだろう。今度バルバトスに会ったらどのようにしてやろうか。と思うが、できれば会いたくないところでもある。
「魈は、俺に会いに来ただけなのか?」
「? 帝君に、会いたかったのです」
それだけ言うと魈は瞼を下ろす。再び金色の瞳が見えることはなく、静かな寝息だけが聞こえ始めた。
「魈……?」
器用に椅子にもたれかかり、そのまま眠ってしまったようだ。どれだけ飲まされたのだろうか。やはり今すぐにでも奴に文句の一つでも言いにいってやりたい気持ちになった。
このまま魈を放置しておくわけにもいかず、かと言って酒を飲んでいる魈に何が起こるかわからないので望舒旅館まで送っていくのもはばかられる。
「俺に会いに来た、か」
先程の魈の言葉を口の中で転がすと、自然と口角があがってしまう。普段の魈ならそのようなことは口に出さないだろう。いつも俺が魈に会いたくて望舒旅館へ通っている節があったが、魈も俺に会いたいと思ってくれていたとは。嬉しいことを言ってくれるものだ。
いつでも会いに来ても良いと伝えてはいるが、彼が実際に尋ねて来たのは初めてだった。
このまま帰すのも惜しいので、自分のベッドへと運んで布団を掛けてやったが、魈が起きる様子はなく深く眠っているようだった。
朝起きたらどのような反応をするのか、今の出来事は覚えているのか。
その瞬間を見逃したくなくて、今日は眠れそうにない。