最後の一杯「今日もここに来ていたのか」
「鍾離様……」
璃月港を離れ、銅雀の寺が見渡せる丘の上まで来てみた所、景色に溶け込むように魈は立っていた。
水のせせらぎが聞こえ、茜色に染まる空の、夕陽の落ちていく様子が一望できる静かな場所だ。ここ数日、何をする訳でもなく魈がそこに立っていることがあると旅人から聞き俺も足を運んでみたのだが、やはり彼はそこにいて銅雀の寺を見ていた。
「少し、話でもどうだろうか」
「しかし……」
「酒も持ってきた。たまには俺も銅雀と盃を交わしたいと思ってな」
「……承知しました。では、我も少しだけいただきます」
寺の中に入ると平安に見つかってしまうかもしれないので、その場に座り込んで酒瓶と盃を取り出した。
日が完全に沈み、街の灯も届かない真っ暗な夜空に変わる。魈が酒を注いでくれると言うので、その言葉に甘えた。俺も魈の盃に注ごうとしたのだが、懇切丁寧に断られてしまった。ポツポツと光り出す星々や月が出る様子を見ながら魈と盃を合わせ、静かに一口を味わう。
「魈も詩を書いたそうだな。俺には見せてくれないのか?」
「鍾離様に見せる程のものではありませんので……」
そう言いながら魈が一口酒を口に含む。見せるつもりがないものを無理矢理暴くことはしないが、魈が旅人や胡桃などに誘われ、詩を書こうと思った気持ちの変化が俺は嬉しく思う。
「鍾離様も、何か詩を読まれたのですか?」
「俺は審査員として論評をしていただけだ。そうだな。詩歌大会は終わったが、詩は今から読んでも遅くはない。俺が上の句を読んだら、お前は応えてくれるか?」
「……少しお時間はいただくかもしれませんが……」
魈は頷いて、また一口酒を飲んだ。このように落ち着いて隣で酒を飲んでくれるようになるまで、何千年かかっただろうか。
旅人や璃月の人々、様々な交流が彼を少しずつ変えていったのだろう。あとは……まぁ、風神にも感謝してやっても良い。
魈は真っ直ぐに前を見て星空を見つめていた。今の彼はその黄金の瞳に何を映して、何を考えているのか、知りたくなってしまう。
「……鍾離様、我はそろそろ降魔に行こうと思います」
ポツリと空へ向かって魈が言葉を乗せる。やはり気になるのは魔の気配であるのか。と独りごちた。
「……もう少しだけ、良いか?」
「……はい」
またすぐに会える。そう思っているのに、いつもこれが最後の別れになってしまわないかと思ってしまう。だから、もう少しだけ共に居たくなり、思わず引き止めてしまった。
呼んだらすぐに現れる。望舒旅館に行けば会える。それはわかってはいるが、凡人としての生活では滅多に会うことはない。
このような気持ちを、人は恋しいと名付けるのだろうか。
「今から上の句を読む。その答えを、次に会う時に聞かせてくれないか」
「……承知しました」
今の気持ちを詩に乗せ声に出すと、魈はしばらく考え込み、意味がわかったようで途端に顔を朱に染めて俯いていた。
「……さて、俺はしばらくここにいる。もう少しこの景色を堪能していたい」
「……では、我はこれにて」
慌てて立ち上がろうとする魈の腕を掴んで引き寄せた。もしかしたら、少し酒に酔っているかもしれない。
「っ!?」
一瞬だけ触れた柔らかな唇の感触と、目を真ん丸に開いて硬直している魈の全てが愛おしい。愛だとか恋だとか、そういう気持ちでは収まらない何かが溢れそうになる。
「……行っておいで、魈」
「……はい、行ってきます。鍾離様」
きゅ。と手のひらを握り込んで送り出すと、姿勢を正して頭を垂れ、風と共に魈は消えてしまった。
揺れた空気が、俺の髪の毛をふわりと浮かせ、通り過ぎる。先程まで忘れていた、水の流れる音が再び耳に木霊した。生き物が活動を始める少し前の静かな時間だ。
もう行ってしまった。先程まで隣にいた彼の姿に名残惜しさを感じながら、最後の一口を舌で転がして飲み込んだ。