校内恋愛「どうするかなー……」
困った。本当に困った。
虎杖悠仁は、自宅のパソコンデスクに座って頭を抱えていた。机の上にはとっくにぬるくなったコーラの缶が一本。すでに深夜を回ろうかという時刻、もう寝なければ明日が辛いのはわかりきっていた。けれども、明日が来るということはつまり、出勤しなくてはならないということだ。体育教師という職業に就いている悠仁が出勤するとなると当然行き先は学校だ。そうして、学校へ行くと当たり前のように隣の席にあの男がいる。
あの男――こと、九相図脹相は、科学教師の産休に伴い臨時で雇われた年若い青年だ。男同士のほうが気楽かなと、世話係を買って出たのが全ての元凶であった。学校を案内したり、彼の疑問に対して答えてやったりしているうちに、いつの間にか一緒にいるのが自然になり、生徒たちからも先生たちって仲いいよねーなんて言われるほどになっていた。
……実際、仲は良い。三十路を超えた悠仁から見れば、二十代の脹相は「俺にもあんな頃があったなぁ」の一言に尽きるが、不思議と話はあったし、好きなもの、嫌いなものの基準がそれほど変わらなかったおかげで一緒にいるのが苦ではない。職場に友人がいるというのは良いもので、悠仁は去年までより職場に出勤するのが楽しみになっていた。
友人……そう、友人だったはずだ。
「なんでこうなるかなあ……!」
うめいて、悠仁は机の上に突っ伏す。ぬるくなったコーラの缶。油性マジックで書かれたメッセージ。その文字をじぃっと見つめた。
◇
放課後のことだった。
職員室で小テストの採点をしていた悠仁に、隣の男が「映画を見に行かないか」と誘ってきたとき、珍しいなとは思ったのだ。職場の人間を私生活に踏み込ませるようなことは嫌いそうな男だと思っていたのに、と。
実際、そのあたりも悠仁のお気に入りポイントの一つだった。賑やかなことは嫌いではないし、飲み会も楽しいとは思う。だがしつこく飲みに誘ってくるような同僚は苦手だし、休日を職場の人間と過ごすと休んだ気がしない。悠仁がそう思っていることを、脹相は理解していると思っていた。
一瞬返事が遅れた悠仁に、脹相は、淡々と付け足した。
「レイトショーだ。悠仁が好きだと言っていた映画の最新作」
「えっ、マジで!」
休日に付き合わせるつもりはない、という意思表示もありがたかったが、それよりもサラッと話しただけの雑談を覚えてくれていたことに、悠仁は少し感動した。映画好きなのは公言しているが、好きなシリーズも覚えていてくれたとは。二人のときにする会話なんて、ほとんどどうでもいいような話ばかりだというのに、それをきちんと聞いていてくれたことに好感度はまた一段と上がってしまった。
「おっ、いいなー! いつにする?」
「……明日、はどうだ」
「んー、明日は午後授業ないから定時で上がれるかな……。どこの映画館?」
「駅前の●●シネマなんだが」
「おっけー!」
新しくできたばかりで、椅子も座り心地の良いところだ。うきうきした気分で返事をした悠仁に、脹相はじっと探るような視線を向けた。
それから、静かに。
「悠仁にはデートのつもりで来てほしい」
と、のたまった。
「……は?」
「デートのつもりで来てほしいんだ。来るということは、そういうことだと解釈するからな」
「え、」
あまりにも淡々と、顔色も変えずにそんなことを言うものだから、悠仁はあっけにとられた。今の言葉は……?と必死に咀嚼している間に、脹相はコーラの缶を悠仁の机にひょいと置いて、立ち上がる。
「悠仁、また明日」
「え、あ、おう?」
すたすたと歩き去った背中をぼんやり見送り、そのまま小テストの採点を二枚続けたところで、ようやく、理解した。
「……はあ!?」
デートのつもりで。
来るということはそういうこと。
なんだそれ。
つまり、つまりは――。
「あいつ俺のこと好きだったの!?」
――職員室に誰もいなくてよかった。本当に、よかった。
そして今、自室に帰った悠仁の前には、あのとき脹相がくれたコーラの缶がある。前もって用意していたらしく、油性マジックで書き込まれた文字をもう一度目でなぞって、「うー」と何度目かつぶやく。
何が一番困るって、何度考えてみても、別に嫌じゃないという結論に至る自分だ。ああ本当に困った。
『教師同士の校内恋愛は禁止だと思うか?』
脹相らしい几帳面なその文字に、やけくそのように悠仁は文字を書き足す。
『不本意だけど、禁止じゃない!』
禁止だったら断れたのに。プルタブのあるシルバーの飲み口には赤くなった自分の顔が映っている。どうしよう、もう断る理由がなくなってしまった。
「……デートって、何着てくもんなんだろ」
深夜過ぎ、訳の分からないらない高揚感で眠れないまま、悠仁はついに観念した。
【終わりっ】