弟のはずだった ――たかが一年、されど一年。
たった一年早く生まれただけで、学年が違う。向こうは後輩、こちらは先輩。兄弟で仲良く遊んでいただけの頃は欠片も意識しなかったその「一年の差」が、だんだん深い溝となって二人の間に横たわっているような気がしてくる。あの子の、――悠仁の考えていることがわからない。
脹相は難しい顔で眉間にシワを寄せ、頬杖をついて校庭を見下ろした。高校三年生の春ともなれば、受験のことで頭がいっぱいにしなくてはならないのだけれど、あいにくと今の男の頭をいっぱいにしているのは一つ年下の弟のことだ。今まさに、グランドで体育の授業中らしく、駆け回って楽しそうにしている姿を見下ろした。
――九相図悠仁。
脹相の最愛の弟である彼こそ、ここのところ脹相の頭を悩ませている人物であった。
◇
物心ついたときから側にいたたった一人の弟について、脹相は「兄である自分が必ず守らなければならない唯一の存在」という印象をずっと持っていた。守らなければならない、といいつつも年が近い弟は運動神経がバツグンであり守られてくれるような子どもではなかったけれど。
それでも脹相は目に入れても痛くないとでもいうようにこの十八年間、とても可愛がってきた。
幼い頃から兄弟でいつも一緒にいた。宿題を教え、共に虫をとり、秘密基地をつくった。ゲームのアドバイスをし、自転車が乗れるようになるまで練習に付き合い、美味しい駄菓子を分け合う。脹相は今までの人生の大半を惜しげもなく悠仁に捧げてきた。
兄として当然であるし、弟に外の世界を教えてやり、共に過ごすのが自分の役目であると信じていたのだ。
だから「高校、同じとこに行きたいんだけど……」と悠仁に言われたときは本当に嬉しかったし、友人……と呼びたくもないが腐れ縁の奴らにも弟が来るんだとガラにもなく自慢し続けたわけで――それが原因で怒られたこともあった。
普段何にも興味を抱かない脹相が弟のことを可愛い可愛いと言いすぎたせいで、脹相を知る生徒たちがひと目見ようと彼に群がったのが悪かった。弟は連日上級生に詰めかけられて、「クラスメイトとかも困ってるんよ。頼むからどうにかして。もとはといえ脹相が原因なんだろ」と怒ったのだ。これには流石に反省した。高校一年生のところに上級生がわんさか押しかけるなんて、自分が彼の立場だったら不快だろう。
そうはいいつつ、もともと賑やかなことが好きな子だから脹相が思うほど不快に感じているとは思われない。だが優しい子だから、クラスメイトが困っているのを見過ごせなかったんだろう。その原因が自分の兄であれば尚更だ。
思えば、弟は人間嫌いの自分とは真逆な子だ。脹相が室内で黙々と作業するのを好むのとは逆に、悠仁はいつだって陽だまりの中で友達にかこまれていた。それでも脹相が本を読んでいる時はいつも隣にいたし、俺のことをあまり良くないように思うやつには陰ながらフォローしにいっていたのを知っている。よく出来た弟だと思うのと同時に、申し訳ないとも思っている。俺は弟に尽くしているつもりで、ひょっとして悠仁の負担になっているのではないか、と。
人は成長する生き物だ。
それに幼い頃は表情を見れば大体何を考えているのかわかった悠仁が、このところ何かを隠すように立ち回っているような気がして脹相は落ち込んでいた。
やはり俺は悠仁の負担になっているんじゃないか、と腐れ縁である真人に愚痴ったところ「んじゃさ、一度弟離れでもしてみたらいいじゃん」と楽しげに言われた。どうせコイツのことだから面白がっているんだろうとは分かりつつも「客観的に見ればわかることもあるじゃん?」という意見にぐうの音も出なかった。
――そういう経緯があって、脹相は『弟離れ』を決行したのだ。
◇
脹相は断腸の思いで『悠仁離れ』を実施した。四六時中ひっついていたいくらいには大好きな弟から距離を取るというのは、……正直死ぬほど辛かった。それでも客観的に弟を見る、という試み自体は、概ね成功したと思う。
弟は、脹相が思っていた以上にずっと格好よい男に成長していたらしい。
愛想が良く、人たらしである弟はいつも多くの仲間に囲まれているが、高校に入る直前くらいからグングンとついてきた筋肉から体格も良いし、体育祭などでは英雄のような扱いだ。
どこの部活にも属していないが、人手不足なところにヘルプに行っては試合などで活躍している。それでも決して調子に乗るわけではなく、試合の直前などは「ヘルプでいくんだからヘマするわけにはいかねーよなっ」と爽やかに笑いながら熱心に練習に打ち込む……。
そんな姿に好感を抱かないほうがおかしいと前々から思っていたが、素敵だと女子の間でもそこそこ人気があるようなのだ。中学のときから女子の隠れファンはいたようだったが、高校では学年問わずにかなり人気があるらしい。なぜかその事実に少し落ち込み、もう昔のままの可愛い弟ではないのだな、としみじみしてしまう。
ひょっとしてそのうち可愛い彼女を連れてくるかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。悠仁は兄から見てもそれはもう良い男に育った。……だがもしそうなったら、俺はもうお払い箱だろう、などと勝手な想像に落ち込み、うだうだしていた。イライラした様子の悠仁が怒鳴り込んできたのはそんな頃だ。
脹相の「弟離れ」が開始してからきっかり一ヶ月後、つまり、昨日の夜のことである。
◇
「――んで? 何の不満があんだよ」
自室のドアをノックという名の連打をしてきた悠仁は、その扉がほんの僅か開いた瞬間に滑り込んできた。その表情はひどく苛立たしげだ。
両親は二人とも研究者であり、一ヶ月の半分以上家にいないからこの家には実質二人きりだ。もし今両親がいたとしても二人が喧嘩したって放置なのだろうが、しかしいつも大らかでニコニコしている悠仁がこうしてあからさまにキレているのを見れば両親だってギョッとするだろう。そのくらい悠仁は怒っていた。
脹相とて驚きすぎて声も出ない。俺は何かしただろうか? 自分たちは今までロクに兄弟喧嘩すらしたことがないほど仲は良好なのだ。こんな風に脹相に向けてあからさまに怒気を発する悠仁と向き合うことなど、初めてと言ってもいい。
「……脹相」
「ゆ、ゆうじ。……驚いた。急にどうしたんだ……?」
「さっきも言ったろ。……何の不満があるんだよ。言え」
最初に問いかけられたことを繰り返して、悠仁は後ろ手に部屋の内鍵を回した。がちゃん。無常にも響き渡った鍵のかかる音で、逃げ場をなくしたことを知る。いやここは脹相の部屋なのだが。自室で逃げ場がなくなるというのはどういうことだろうか。勘弁してほしい、悠仁の考えていることが全然わからない。
「落ち着け、悠仁。俺は何も不満なことなんてない」
「……嘘つけ」
「頼むから、落ち着いてくれ……。そうだ、カフェオレでも作ろう。腹が減っているのなら、」
「減ってねぇよ。食べ物とか飲み物はいらない。……すこし話そうぜ」
最初の剣幕から落ち着いたように見えるが、いつもに比べて鋭い目つきだ。悠仁の美しい琥珀色の瞳は、ともすると肉食獣のような美しい輝きをみせる。……いまもそうだ。鋭く脹相を観察している。いつ喉笛を噛みちぎろうか考える獣の瞳だ。
……だが、どうしたというのだろうか。
悠仁は昔から悩みなんてなさそうに振る舞いつつ、実は溜め込むほうではあるのだが、ここまでになることは滅多になかった。大抵は自分でうまく発散するし、目に見えて酷そうなら兄として悠仁がストレス解消できるように買い物でもショッピングでも、バッティングセンターでも、なんでも付き合っていた。
ここ最近の悠仁の様子を思い返して、なにか違和感を見過ごしただろうか、と思い気がついた。――そうだ、弟離れ期間中だった。意図的に悠仁を見ることを減らしていたために気づかなかったのだ。大失敗だ。
学習デスクの椅子に座った弟はすっと背筋を伸ばし、向かいのベッドに座った脹相にまっすぐ視線を向けた。悠仁は瞬きをひとつするとゆっくりと息を吐く。
「……んで。何が不満なんだよ」
三度繰り返された言葉に、脹相は困惑した。誓って悠仁に不満など無い。というか、なぜ脹相がこの可愛い弟に対して不満を持たなくてはならないのだろうか。自分はただ――、いや、なんだ?
「距離感……っていうのかな。なんか最近俺のこと避けてんじゃん。なんか思うところがあるんだろ」
「い、いや……」
「休日も声をかけてこないし、いつも無断で俺の部屋に入って掃除とかするんも無くなったじゃん」
「……」
「学校でもそう。前はどんなに遠くからでも俺を見つけたら手を振ってきたのに、最近は無視するし」
「いや、それは無視じゃないんだが……」
「部活だって、前は暇さえあれば俺が助っ人に行ってる部活まで見に来ていたのに最近はそれも無い。なんかあるんだろ」
――言えよ。
悠仁は脹相をじっと見つめてそう言った。ぐっと言葉に詰まって、脹相は心の中で言い訳をする。
だが俺が声をかけてしまったら悠仁は、高校の友達と遊びにも行かないだろう。
前は良かれと思って掃除や片付けをしていたが、「お前それマジで言ってんの? それぜってぇ弟嫌がってンだろ」と真人に言われてから控えるようにしたんだ。それに、部屋を片付けている時に彼女との思い出の品が出てきたりしたらどんな顔をしていいのか分からない。
悠仁を見かける度に手を振っていたのも、俺がこんなことばかりするからお前という存在に興味を引かれて見に行くやつがいるんだ。
部活は、ギャラリーが。……悠仁のことなんて何も知らないくせにお前の話をしているのが、なんだか、すごく、嫌で。
「悠仁に不満があるわけじゃない。だが、その……。反省したんだ」
「何のだよ」
「お前のことを構いすぎたな、と」
「今更じゃね」
すごく嫌そうに顔を歪めた悠仁は、難しい顔のままだ。他にもなんかあんだろ、と探るような視線を向けられる。これは洗いざらい吐くしかなさそうだ。
「知人に相談したら、弟分離れしてみたらどうかと言われたんだ」
「……はあ?」
「客観的に見たほうがわかることもあると言われてな。それでここ一ヶ月程、……距離を置いたんだ」
「馬ッッ鹿じゃねぇの」
ぐぐっと眉間に皺を寄せた弟は、遠慮という言葉をどこかに置き忘れたように心に刺さる言葉を吐き捨てるように言ってきた。
「急に離れられたらなにかあったかと思うだろ」
不機嫌に言われた言葉の意味は、今更ながらよくわかった。確かに自分がこの子の立場だったら、怒らせたかもしれないと慌てたことだろう。せめて「今から悠仁離れする」と宣言でもすればよかったのだろうか。
「お前も何か考えることがあんのかなって思ったから一ヶ月は様子見してたけどさ。……怒っている様子もないし困っている様子もないじゃん。だから、なんで避けられてんのかなって考えた」
「すまない……」
「……俺に愛想が尽きたのかとも思った。それならさ、離れられるのも納得が行くじゃん」
「誓ってそれはない」
「……そっ、か」
食い気味に断言すればそれに対して、安堵したようにホゥと息を吐いた悠仁が笑う。今回の件については全面的に脹相が悪いというのに、この子はどこまでも甘い。そんなふうだから、脹相に毎日纏わりつかれるように過ごしていても嫌だと言わないのだ。今更かよ、と言われてしまったが、今からでも遅くないのではないか? 今からでも、弟という呪縛から悠仁を開放するべきではないだろうか。
「……い。……おい、脹相」
眉根を寄せて考え込んでいると、名前を呼ばれた。顔を上げればぺしりと軽く額を叩かれる。
「難しいことを考えんなよ」
言われた言葉はひどく優しげで、許容と慈しみに満ちている。
「俺は自分から引っ付きにいくのは好きだけど、引っ付かれるのは実は得意じゃないんだよね。でも脹相なら別にいい」
「……」
「学校で手を振られるのは、まあ、恥ずかしいけどさ。クラスメイトが困ってなければ別に気にせんよ。上級生のひとたちも面白い人ばっかだし。それに俺から手振り返すとお前嬉しそうにするじゃん」
「それは、そう、だが……」
「部屋だって無断で入ってくんのは、さすがにどうかと思うけど……。まぁ、もう慣れてるし。もしお前じゃなくて、例えば母さんとか父さんでも叩き出してるかもしんないけど。とにかくそこまで嫌じゃない」
「ゆ、悠仁……」
ああ、なんてよくできた弟なんだろうか。俺を喜ばせるのが世界一上手い。感動に打ち震える脹相の耳に、悠仁の言葉が続く。
「お前が俺に割く時間が減るのは嫌なんだよ」
――ん?
「部活だって脹相が見ていたからやる気が出る部分もあるし」
――待ってくれ、おかしくないか?
「勝手に離れていくなよ」
――これじゃあ、まるで。
「脹相」
いつのまにか脹相の腰掛けていたベッドまで近づいてきていた悠仁が自分の前に膝をつき、脹相の手を掴んでくる。
びくりと体が震えた。悠仁の言葉がぐるぐる回って、なんだかいたたまれないような気持ちが溢れてきた。なんだこれは。視線をどこに向ければ良いのかわからず、掴まれた手に落とす。自分より日に焼けて、骨太のすらりとした手。血管がぐ、と浮き上がる、男らしい手。なんだこれは。恥ずかしい、ようなよく分からない感情がぐんぐん湧き上がってくる。
「俺を離さなかったのは脹相だろ。……今更勝手に手を離すなんて、許さねぇから」
静かな声が、厳かに告げる。
ぴりりとした視線を感じて、恐る恐る弟に視線を向けた脹相は、その目がただじっと自分を見つめている事に気づいてぐっと息を詰めた。
おかしい。悠仁はこんなに格好良かっただろうか、可愛い可愛い弟は。こんな目をしていただろうか。こんなふうに、自分を見ていた? それはいつからだ?
「ゆ、うじ」
どうして良いのかわからず、混乱したままで名前を呼ぶ。探るような眼差しがゆっくりと脹相の指先から、体をなぞるように顔までをなで上げた。
「――俺から離れんなよ」
強い口調だった。だが懇願にも似ている声色で悠仁はそっと言葉を紡いでいく。
「もう二度と、あんな別れはごめんだ」
「別れ……? なんのことだ、」
悠仁の視線は脹相を見ているようで、他の誰かを見ている気もした。だが、確実に言えることはこの言葉は確実に己に向けられている。間違いなく脹相へ届けている言葉だった。
「ずっと、一生。……側にいてくれ」
いいな? と念を推されたとき、なんと答えたのか覚えていない。ただ脹相が気づいたときには、自分が何かを返答したあとの弟の笑顔から目が離せなくなっていた。心臓が死ぬほどうるさくて、まるで自分が楽器にでもなったような気分で、それで――。
◇
授業終わりのチャイムが鳴り響いて、終了の挨拶。せわしなく教室を出ていった数学教師を見送ってから、脹相は大きくため息をついて机の上に突っ伏した。そろそろ混乱よ収まってくれ。いい加減にちゃんと事態を把握しなくては、などと思っていると、前の席の真人が振り返った。
「どーしたんだよ、辛気くさいんだけど」
いつも通りの苛立たせるような言い方も今日はどこか落ち着く。小さくうめいて、脹相は冷たい机に頬をべたりと押し付け、なんと言おうか迷った。
昨日の夜、自分の人生がとんでもない方向に動いたような気がするのだが、すべて綺麗に説明できるほど脹相は精神が強くない。
だが、どうかしたかと問われたら、そりゃあもうどうかした。めちゃくちゃにどうかしたのだ。ただただ、あの子の考えていることが全然わからない。
「あぁ、いや、その……」
眼差しと、血管の浮き出た手の甲。熱。笑顔。
あんなものに捕まって、振り払うことなんてどうしてできるだろう。
あの子の考えていることが全然わからない? ……いや、本当はわかったのだ。あの優しげな笑顔を向けられて、悠仁の瞳の中の飴色がとろりと溶けた色を見つけた途端に全部理解した。理解したけど咀嚼しきれず、ただ返事を少し待ってくれと叫んだだけで。
だけど、返事なんてそんなもの、実質ひとつしかない。それ以外に持ち合わせていないのだ。
「――弟では、なくなった、みたいだ」
ぐらぐらと熱を持つ顔をごまかしたくて、どうにもならない。昨日去り際にそっと触れるように合わさった唇の余韻が、まだまだ纏わりつくようにうるさかった。
真人はゆっくりと瞬きをしてから「ウゲェ」と盛大に顔を顰めた。
「あーー、ウゼェーー」
どうせそうなると思ってたけど、展開早すぎだろ! と、友人は嫌そうな顔をした。
【終】