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    法科大学の三年生の二人。振り回すの練習のために書き換えてみるも、やっぱりしっくりこない………。振り回す攻めなど存在しないのだ……

    法律と潮風と、お前と。「そこまで。筆記用具を置くように」

     教室に試験官の声が響き、詰めていた息を答案用紙の上に吐き出した。記述し過ぎて痛む手からペンを離し、隣の席へ振り向くと男は涼しい顔で六法を閉じていた。

    「販売者Aの動機が明確な意思表示として表示されていない。95条、法律行為の要素に錯誤があるためこの取引は無効。AB間の売買契約は無効になる……で合ってる?」
    「通説ではそうだな。だがこの教授は捻くれているから、途中に出てくる善意の第三者Cの発言が重要だ。売買契約は有効になる」
    「え……!?ま、まじ!?」
    「嘘だ。おそらく悠仁の回答が正解だ」

     これで単位取得だな、と笑う男に六法を投げつけたくなったが、周りにゴリラと呼ばれている俺が投げたら確実に刑法208条に引っかかる。どう考えても暴行罪だと止めておく。

     冷房が効きすぎて肌寒い大教室には、前期試験を終えた学生たちの脱力した声、笑い声、一部からは悲鳴があがって騒がしい。

    「俺は次は刑事訴訟法、その後はバイトだ。悠仁は?」
    「国際取引法、同じくその後は俺もバイト」
    「わかった、じゃあまた夜に。無理はしないでくれ」

     そっと頭を撫でて、脹相は席から立ち上がる。俺の分の回答用紙も持って、教室の一番前の壇上に提出するとそのまま廊下へ出て行った。アイツの背中を複数の女の子たちの視線が追いかけているのを見て、机に頬杖をつく。

     階段状に机と椅子がずらりと並ぶ広い大教室。後ろから3列目、ちょうど今座っているこのあたりだったと思う。

     入学して初めての授業があったあの日、知り合ったばかりの友人たちと緊張しながら席に座って、興味深く辺りを見渡したときだった。文系の中でもお堅くて真面目だと呼ばれる学部であったとしても、所属している学生の浮ついた雰囲気の中であの男だけが違っていた。
     恐ろしく顔立ちは整っているが鉄面皮がごとく、その表情は動かない。まるで精巧な人形のように無表情で六法全書をめくっていた男。
     ソイツと目が合った瞬間、身体の中心がどくりと音を立てて動いたのを、覚えている。





     席から立ち上がり、六法が重たく主張するバッグを肩にかけて廊下へ出る。

    「お疲れ、虎杖。民法の試験はどうだった?」

     声を掛けられて振り向けば、同じ高校出身の友人が歩み寄って来た。

    「おつかれ伏黒。ぎりぎり……、何っっとか単位は取れそうかな……」
    「脹相さんに教えて貰ってたんだろ、なら楽勝じゃないのか」

     どうせ試験も仲良く並んで受けたんじゃないのか?と問う友人に頷いて、大学内を移動する。都会の真ん中にある校舎の窓から見上げた青空は狭く、けれど蝉が元気よく鳴いているのが聞こえた。

    「成績優秀学年主席、花形の刑法ゼミに所属、サークルには所属していないが、実家は資産家だと噂あり、愛想がないが、モデル体系のイケメン。そんなヤツといつも一緒にいるからか? 元気ないな」
    「んー、そかな? ……まぁ、でも多少元気ないかも」

     次は伏黒と同じ授業の試験だ。先ほどよりも小さな教室へ入って、二席分空いているうちの片方の席に座る。
    バッグから机の上に出した、書き込みだらけの授業のレジュメを見下ろす。

    「――なんで、俺なんかな」

     嫌味か自慢かと邪推されるのが怖くて、同性異性問わず友人には言えないことが、俺たちのことをよく知る伏黒の前ではするりと口から出た。
     伏黒は一瞬黙り込んで、呆れたように言う。

    「もう3年生になったってのに。いまだに1年生の頃からの悩み言ってんのか」
    「……ダセェなぁ〜とは思ってる」

     レジュメを手に項垂れると、慰めるように頭をぽんぽんと叩かれた。

    「告られたのはお前だろ。胸張ってれば、いいと思うぞ」

     そう、告白してきたのは脹相だった。
     大教室で目が合ったあの日。その次の週の同じ授業で、突然脹相が声を掛けてきて名前を聞かれた。
     その後だんだんと会話するようになって、脹相の弟が俺の友人だということが分かって、みんなで遊びに行こうという話になり。その後もなんやかんやあって、一年生の夏に告白された。まさか同性に告白されるとは思わなかったから混乱したし、悩みすぎて熱も出したけど、結局は付き合うことにした。熱心なアプローチに絆されたのかもしれない。それでも俺は脹相のことを好きになった。


     試験官が教室に入って来て、筆記用具以外のものを机の上から片付ける。ピリリと引き締まった空気を肌で感じながら、頭の中を切り替えた。

    「始め」

     試験管の声と共に、一斉にこの場の学生がシャープペンを回答用紙に滑らせていく。
     筆記具のカツカツというだけが響く静寂のなか、力を入れすぎたのか俺の先端の芯はぽきりと折れた。







     日が沈んでも東京の夏の気温は下がらない。聞きなれた私鉄の発車メロディを耳にしながら、人の波に流されるまま改札口を出ると、ロータリーのガードレールの上に腰掛ける男が見えた。目が合うと僅かに綻ぶ顔は俺だけの特権だ。

    「悠仁、お疲れさま」
    「脹相。家で待ってりゃ良かったのに」
    「いや、俺も今さっき着いたんだ」

     重いバッグを取り上げられて、友人よりもずっと近い距離でアパートへ続く賑やかな商店街を歩く。
     ふざけて取った脹相の手は真夏でも少しひやりとしていて冷たかった。体脂肪が足りないからだろうか。細い腰回りを思い出す。

    「肉つけたほうがいいよな……やっぱ」
    「肉か?今日はあのスーパーで鶏肉が安い日だぞ」
    「よし、今夜は鶏の唐揚げにしよう」

     そう言えば、僅かに嬉しそうな笑顔を咲かせる。大人びた顔をしているくせに、コイツはカレーとかオムライスとか、子供が好むような料理が好きなのだ。
    それを茶化せば、「実家では精進料理のような和食ばかりだったからな」と星の見えない夜空を見上げていたことを思い出す。

     スーパーで材料を買い込んで、築15年7畳ワンルーム、家賃月6万円のアパートの軋むドアを開ける。
    玄関に入って出迎えるのはいきなり洗濯機。2口コンロの小さなキッチンと2ドア冷蔵庫、その対面にユニットバス。
     エアコンの電源を入れて荷物をベッドの上に置いて戻れば、脹相は手を洗って炊飯器の釜を持ち上げていた。

    「俺、先に洗濯物片付けちゃうね」
    「ああ、こっちは任せてくれ」

     慣れた手つきでキッチンを動き回る脹相に微笑んで、ベランダに干していた洗濯物を取り込む。半分は自分の服。もう半分はアイツの服。

     脹相はもっと都心にある高層マンションに自分の部屋を持っていて、けれどそこに帰るのが好きではなくて。たまに荷物を取りに戻るくらいしかしない。
    レザーのボストンバッグ1つに私物を詰めて、俺の借りているこの狭くて古いアパートに彼はもう長いこと住み着いていた。所謂半同棲状態だ。
     一人っ子の俺には違和感のあった自分以外の男の洗濯物も、今ではもう当たり前の光景として畳めるようになってしまった。

     じゅっと油の跳ねる音が聞こえる。ベッドシーツを張替えてキッチンへ戻れば、菜箸を片手に額に汗を浮かべた脹相が息を吐いた。

    「この季節の揚げ物は過酷だな……」
    「ははっ。応援してるぜ」

     狭いキッチンにぎゅうぎゅうに並んで、手早く味噌汁と簡単なサラダを作る。
     脹相の揚げる唐揚げがほぼ完成するのを見て、棚から食器を取り出した。

     一人暮らしを始めるときに、柄物はすぐに飽きるからと爺ちゃんの勧めで選んだ無地の真っ白な食器たち。
    確かに飽きはしていないが、かわりに愛着も湧いていない。来客用にと買い揃えた1セットをそのまま脹相が使い続けている。

     シンク下の収納から小さなフライパンを取り出して、しょうゆ・みりん・砂糖・白ゴマをその中に入れて、火にかける。

    「まだ何か作るのか?」
    「この前ネットでレシピを見てさ……。えーっと、これをこうして……」

     ぶくぶくと沸騰したそれを焦げないように混ぜ合わせて、大皿に盛り付けられた唐揚げの山にとろりとかける。おお……!と横から声が上がった。

     部屋の中央にあるローテーブルの上に、作った料理を並べて「いただきます」と二人で手を合わせた。
    お味噌汁に口をつけながら、向かい合って座る脹相を眺める。胡坐をかいた少し猫背気味の背筋、品よく少しずつ口に運んでいるものの、皿の中がすぐに無くなるほどの良い食べっぷり、そして美しい箸使い。コイツが食事をする姿を見るのが俺は好きだった。

    「このたれ、美味いぞ。悠仁は天才だな……」
    「天才はレシピを考えた人だって。んー、でもほんとにうまいな!」

     二度揚げされてさっくりジューシーな鶏肉に、甘辛いゴマ風味のたれがよく絡んでごはんがすすむ。次々と唐揚げを食べていく脹相は、子供のようで可愛らしかった。


    「夏休みに入る前に、ゼミで模擬裁判をすることになった」
    「ふーん、設定は?」

    再び狭いキッチンに並んで、小さなシンクで食器を洗う。脹相がお皿を受け取って布巾で拭いていく。

    「夫婦間の殺人事件。女がマンションのベランダから落ちて死亡。近隣住民が死亡推定時刻に夫婦の言い争う声を聞いている。夫は無罪を主張。妻は以前から家庭内暴力を受けていると友人に相談していた」
    「うわぁ……。脹相はどのポジションをやるんだ?」
    「検事だ。厄介なことに弁護士役が真人でな」

    真人。脹相と同じゼミの、同じく非常に成績優秀と名高い学年次席の学生だ。

    「明確な悪意を確立させられるかどうかが鍵だ。落としどころは傷害致死だろうが、俺は殺人罪を狙う」

     楽しそうな笑みを浮かべる彼を見て、対峙する二人の男を想像する。大学の敷地内にある模擬とは言え神聖なる法廷、入廷する学生にはスーツ着用が義務付けられている。
    スーツで法廷に立つ脹相はさぞやかっこいいだろう。けれどそれは検事と言うより、

    「重要参考人、夜の歌舞伎町を取りまとめているヤクザ加茂脹相」
    「……悠仁」
    「ははっ、ごめんごめ、……」

     背の高い男を見上げて笑えば、降りてきた唇に口を塞がれた。腰に手が回されて引き寄せられる。
    泡だらけの両手では抵抗出来なかった。抵抗、する気もないんだけれど。


     シャワーを浴びて髪を適当に乾かし、部屋着に着替えてベッドの上で雑誌をめくった。
     もう読んだからと友人がくれたその誌面の雑貨のページに、この夏の新作だというカラフルな食器を見つけて思わず顔を近づける。けれど小さく書かれたその価格のゼロの桁を見て、溜息をついて寝転がればユニットバスから脹相が出てきた。濡れた髪をタオルで拭きながら、ベッドを背もたれに絨毯の上に腰掛ける。

    「もう寝るか?」
    「んー。まだ、大丈夫……」
    「無理するな。民法の試験対策で、昨日ほとんど徹夜だっただろう」

     確かに朝方まで勉強をしていた。そして、コイツはそんな俺に付き合ってくれて、丁寧に解説をしてくれた。

     俺は脹相ほど頭の出来が良くない。
     成績は頑張っても中の中。
     弁護士や検事等の法曹を目指すことは難しいと自分でももう分かっていて、だからこそせめて留年しないように、来年きちんと卒業できるように、いつだって必死だった。

     音量を抑えてつけたままにしていたテレビの画面が、鮮やかな青に染まった。
     何となく視線を向ければ、それは南太平洋の南国リゾート地。楽園のような美しい白い砂浜と、透き通った青い海。コロニアルな造りの水上コテージは、テラスからすぐに海に飛び込むことができる、とリポーターが興奮した声で伝えていた。
     ぼんやりとその映像を見ていると、脹相はバッグから書類と六法を取り出した。

    「勉強、すんの?」
    「模擬裁判用に、少しな。俺もすぐに寝る」

     脹相の六法には沢山の付箋が貼られていて、それなりに使っているはずの自分のものと比べても随分とくたびれているように見えた。

    「なぁ、脹相」
    「なんだ?」
    「法科大学院に、行くん?」

     法曹になるには、大学卒業後に2年間大学院へ通う必要がある。コイツほどの頭脳があれば、きっとその先の司法試験も突破できるだろう。

     書類をめくる手を止めて、脹相は緩く首を振った。いつもは結われているはずの湿った黒髪が肩先で揺れる。

    「……いや、まだ決めていない」

     ……そっか、と返事をして瞼を閉じると、だんだんと意識が遠のいていく。
     くすりと笑う声が聞こえて、身体に薄いブランケットがかけられた。


     就活か、大学院進学か。
     大学3年生の夏、岐路は目前まで迫っている。






     窓の外をバイクが走り抜ける音で目が覚めた。
     手を伸ばしてスマホを探ると、その手にするりと少し冷たい指が絡んだ。

    「おはよう、悠仁。よく寝たな」
    「はよ……。いま、何時」
    「朝の9時だ」

     先に起きていたのか、脹相ははっきりとした口調でそう告げる。狭いシングルベッドで、長い手足を折りたたんでコイツは俺を腕に抱く。

    「今日はもう試験はないだろう。授業はあるか?」
    「3限に、1コマだけ」
    「俺も4限に1コマあるだけだ。……悠仁、」

     唇が寄せられる。歯を立たせずに耳を柔く食まれて、びくりと反った背のラインを男の手が這う。

    「……いいか?」

     熱を帯びた目で見つめられて。まだぼやける視界の中、頷いて両腕を脹相の首へ回した。


     平日の午前中。
     世間の大人たちが仕事をしている時間に、自分たちはベッドの上で裸で抱き合い、淫らな情欲に酔っている。
     カーテンの隙間から眩しい太陽の光が見えて目を細める。覚醒させられた意識で、3日ぶりだなと思った。

     付き合った当初は毎日、一晩に何度も脹相は俺を抱いていた。
     それがいつの間にか1日おきになり、2日おきになり。その頻度は不規則だけれど回数は確実に減っていた。

     脹相のことをキャーキャーと追いかけている可愛い女の子のような体ではない。太っている訳ではないけれど、筋肉質で柔らかさのかけらもないこの身体。
     もう2年もこんな身体を食べ続けて食べ飽きて、食指が動かなくなったのだとしても、それは当然のことだろう。コイツを責めることなど出来ようもない。そう理解していても寂しさを感じてしまう、卑屈な自分が嫌だった。
     脹相が低く声をあげて、強く抱きしめられる。
     まだ、夢を見ているようだった。



     シャワーを浴びて汗を流して、簡単なブランチを作って食べてアパートを出る。
     途端に照り付けてくる強い日差しと熱波にげっそりとした顔を見合わせて、足早に駅へ向かって冷房の効いた電車の中へと駆け込んだ。

     ガタンゴトンと揺られながら、車内にいるたくさんの子どもの姿を見て、そう言えばもう小中高生は夏休みなのだと気づいた。

     もうすぐ始まる大学の夏休みは長い。2ヶ月近くある。
     けれど1年生と2年生の夏休みに何をしたかと問われれば、ゼミやサークルの合宿と数日実家に帰省したことくらい。あとはひたすらバイトをしていたことしか思い出せなかった。
     ほぼ毎日脹相と一緒にいて、けれどお互い自由に使える金は少ないから、都内をぶらぶらするくらいで。遠くに旅行へ行ったりもしていない。

     隣に座り、窓の外を眺める脹相を見る。
     コイツの実家は関西の旧家で、大きな企業をいくつも率いている一族なのだと前に聞いた。
     彼がその家の息子の一人だということも。
     親族の反対を押し切って東京に飛び出してきたことも。父親を毛嫌いしていて、出来る限り親の援助は受けたくないと考えていることも。

     アナウンスが大学の最寄駅名を告げ、顔を上げた脹相と視線が合った。
     同時に立ち上がって電車を降りた瞬間に、よく通る低い声が彼の名を呼んだ。

    「あれ〜?脹相じゃん」
    「…………五条悟」

     突然現れたサングラスの男と、脹相の浮かべた嫌そうな表情に驚く。

    「久しぶりじゃん? 同じ大学にいてもなかなか会わないもんなぁ〜。元気にしてた?」

     飄々とした態度と笑顔。脹相が呼んだ名前を聞いてこの人の正体に思い至る。
     文学部の五条教授だ。ものすごく美形で優秀だけれど、真面目という単語を母親の胎内に置いてきたようなちゃらんぽらんな人だ、と友人から聞いたことがある。

    「会っても用などないだろう」
    「それが俺にはあるんだよねぇ。可愛い親戚の子の様子が気がかりでね。先日もそちらさんの当主から泣きつかれたばっかりなんだよ? まーた見合いをすっぽかしたんでしょ」
    「っおい、」
    「来年度卒業したら、京都に戻して加茂のグループ企業へ入らせる〜とか言ってたかなぁ」
    「五条!」

     脹相が鋭く睨みつけても、青年はにこにこと笑顔を浮かべたまま。
     サングラスがあるせいで見えないはずなのに、その不思議な目に射抜かれた気がして、思わず肩が強張る。そんな俺の肩を脹相が抱いた。

    「へぇ……。まっ、うまくやるんだよ〜?」

     そう言い残して、彼はゆったりとした足取りで改札へ向かって去って行った。人で混み合う駅のホームの雑踏の中で、脹相がはあと息を吐いたのが聞こえた。

    「五条教授と、親戚だったんだ」
    「……ああ。五条の方が余程やんごとない家系なんだが、変わり者ばかりでな、っていや、違う」

     珍しく焦ったように言葉を詰まらせて、脹相は俺の両肩を掴んで目を合わせた。

    「見合いのことは、黙っていてすまなかった。だが俺は受ける気がなく、おま」
    「脹相」

     昨日俺が畳んだTシャツの裾を緩く引っ張る。愛しい男を見上げて笑顔で請う。


    「海、見に行きたい」


     脹相は目を丸くして、けれどすぐに頷いて了承してくれた。ホームに置かれたベンチに座って、スマホを操作して行き先の候補を調べる。伊豆、房総、いっそ日本海?

     けれど伊豆も房総も日本海もなかなかに遠い。ならばレンタカーを借りようかと考えて、だけど俺達にとってその料金はとても高額で手が出なかった。
     だがお台場の東京湾では何か違う、と結局湘南の海へ行くことに決めて、乗ってきたのと反対方向の電車に乗り込む。

     今期最後の授業を欠席することで、成績を下げられてしまうかもしれない。脹相を巻き込んで申し訳ないとも思っている。

     でももう決めた。
     今日は自主休講にして海を見に行く。

     
     高校生だったら、無断欠席をしたら家に連絡が行くだろう。先生と親に怒られて、友人には心配されて。

     社会人だったら、無断欠勤など許されないだろう。信頼と評価、失うものはとても大きい。

     ガタンゴトンと揺れる車内から、窓の外を流れるコンクリートの街を眺める。

     ――今だけなのだ。

     こんな思いつきで、自由に行動することが許されるのは。


    「そういえば、先週OG訪問したと言っていたな。どうだった?」

     聞きなれない私鉄の発車メロディを聞いてぼんやりしていると、隣に座る脹相に問いかけられた。

    「詳しい仕事内容を色々聞けて、為になったよ」
    「そうか。その企業を受けるのか?」
    「……ん。第一志望のところだから」

     たぶん、と心の中で付け足す。


     忙しいスケジュールを調整して時間を作って会ってくれた、卒業生の先輩のことを思い出す。
     格好いい大人の男性だった。きちっときまった髪と清潔感のある肌、しなやかな細身のスーツに艶々と輝く革靴が似合っていた。

    「――とてもやり甲斐のある、誇りに思える仕事ですよ」

     大人びた唇で微笑んで、冷たそうに見える瞳は自信に満ちていた。

    「けれどその分責任は重いですし、犠牲にしてきたものも多い」

     その目がほんの少し伏せられて、ティーカップの中の紅茶を見下ろした。

    「帰宅は毎日深夜。完全なる時間外労働です。しかも月の半分は出張で東京にいません。休日は不規則で、その休日も勉強にあてなければ最前線には立っていられなくなる。この世界に飛び込んで来るのなら、覚悟が必要ですよ」

     メモを取っていた手を止めて、ペンを置いて彼を見た。

    「本当に大切なものは、しっかりとその手に握りしめているように。社会の荒波に飲まれて、流されてしまってはいけません。……無くしてから、後悔しないように」

     眩しそうに俺を見て微笑むこの人は、いったい何を失ったのだろう。

     彼の目元に隠しきれない隈を見て、漠然とした不安に押しつぶされそうになる。

     同じ道を行こうとする自分は、何を失うことになるのだろう。





     終点の駅に到着し、ホームに降り立った瞬間に潮のかおりの風が吹いた。コンビニに立ち寄って飲み物を買って、看板表記に従って歩く。

     晴天だった都内と違い、空は灰色に曇っていた。砂浜も海の水も同じような灰色をしていてとても綺麗とは言えないけれど、それでも波の音を聞いてはしゃいだ声が出る。

    「海だ……っ!」
    「ああ、海だな」

     夏休みだけれど平日だからか、あまり人は多くなかった。浜辺へ降りる階段の端に腰掛けて、脹相はコンビニの袋から缶ビールを取り出した。受け取ったそれを開ければ、かしゅりと軽やかな音がする。

    「乾杯!」

     缶をぶつけ合って、口をつける。強い炭酸が乾いた喉に染み渡る。海を眺めながら二人並んで飲む冷えたビールは、とてもとても美味しかった。心の中の澱みを出し切るように、息を大きく吐く。

    「電車で来てよかったな」

     車で来ていたら、きっとこの手元にあるのはジュースだった。こんなにも美味しいものを飲めないだなんて悲しすぎる。微笑んで見上げれば、脹相は驚いたように目を見開いた。そして。

    「……ああ、そうだな」

     俺の前でしか見せない愉快そうな笑みを浮かべて、目を細めて俺の髪を撫でた。

     向けられた男のその表情に、心臓が痛いほどに締め付けられる。
    優しい微笑みが、とけた甘い視線が、溢れるような愛と慈しみを伝えてくる。


     誰か。
     誰か、どうか。
     今この時を止めてくれ。


     握りしめた缶がへこむ。
     願っても止まるはずはないと、絶えず打ち寄せる波の音が答えた。

     灰色の空と海、風に揺れる黒髪、長い睫毛、柔らかな眼差し。

     シャッターを切るように目を閉じて、瞼の裏側に脹相の姿を焼き付ける。
     ずっと色褪せないように。
     いつだって思い出せるように。
     俺は今この瞬間を、生涯忘れない。

    「……悠仁? 何を泣いて、」
    「脹相」

     体温の低い大きな手に触れる。

    「この先、一緒にいられなくなっても。……俺のこと、忘れないで」

     微笑めば涙が頰に流れた。
     脹相の表情が強張る。

     握った手を握りかえして、彼は口を開いた。

    「心裡留保」
    「……え?」

     静かな低い声で言われた単語に、呆けた顔をしてしまう。

     1年生で習う法律用語。
     表意者が、真意ではないことを知りながら行う意思表示のこと。簡単に言えば嘘のことだ。
     脹相は息を吐いて、淡々と話す。

    「民法93条。相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は無効とする。……悠仁が、たまにどこか遠くを見て何かを考え込んでいることには気づいていた」
    「……、」
    「教えてくれ。お前が考えていることを、抱えている不安を、ぜんぶ」

     首を横に振っても、脹相は手を離してくれなかった。真剣な目に真っ直ぐに見つめられて身体が震える。

    「言ってみろ。何を聞いても、悠仁の本心ならば呆れたりはしない」

     口端を上げて笑って見せる彼に、噛み締めていた唇が自然と開いた。

     ざざん と波が鳴る。


    「……1年生のあの日から、ずっと。俺は、長い夢を見てんだよ」


     大教室で出会ったあの日。
     魔法にかけられたかのように、この男から目が離せなくなった。
     想いを告げられて、葛藤しながらも恋人同士になって。一緒に大学に通って、勉強をして、食事をして、抱き合って、眠って。
     いつだって一番近い場所にコイツがいて。

     幸せで。幸せで。
     あまりにも幸せで、いつもどこか現実感がなかった。

    「夢は覚めるものだって、この歳になれば知ってる。その終わりがもうすぐ来ることも、分かってんだ。脹相には、輝かしい未来があって、俺にも、目指したい未来があって。社会に出たら今みたいな時間はなくてさ、自由はなくて……、ただ、毎日忙しくて。こんなにもずっと一緒にいられるのは、きっと今だけなんだよ。大学生の間、だけで」

     言葉を紡ぎながら、俺の目からはぽろぽろと涙が溢れた。

    「最初から、釣り合ってねぇことくらい分かってた。もっと広い世界に出たら、お前はきっと、もう、俺なんかに振り返ってはくれない」

     この男の姿を目で追うだけで満足できる、ファンの1人でいられたら良かった。
     一度知ってしまったこの体温を、一度得てしまったコイツからの愛を失ったら。ボストンバッグ1つに荷物を詰めて、コイツがあの部屋から消えてしまったら。

     脹相がいない世界で、自分が立っていられるのかも分からない。それでも自分の人生を、歩いていかなければならないのだろう。
     無限大の未来などと言えば聞こえは良いが、俺にはこの先の未来が真っ暗な暗闇に見えて、恐ろしくて堪らない。どうしようもなく、足が竦むのだ。


     黙って俺の言葉を聞いていた脹相は、勢いよくビールを呷った。ごくりと喉仏が上下する。

    「悠仁は随分と悲観的なんだな」

     空になったアルミ缶を腰掛けているコンクリートの上に置けば、軽い乾いた音がする。

    「残りの学生生活だけが、人生最後の楽園なのか?大人は辛いことしかなくつまらないだなんて、誰が決めた」

     長い足を伸ばして立ち上がる。一度海を見つめて、脹相は俺に振り向いた。

    「大人になって仕事をすれば車を買える。予約の必要なレストランにも入れるし、お前がいいなと思っている北欧ブランドの食器だって買い揃えられる。こんな濁った海じゃなくて、透き通ったブルーの海の、南の島にだって一緒に行ける。今出来ないことが出来るようになる。辛いことは多いかもしれない。だがその分、今知らないもっと楽しいことがたくさんあると、俺は思う」

     夜空のような黒い瞳が、空想するように空を見上げた。

    「……親に頼りたくないなんて口ばかりで、結局は学費を払って貰っている今の状況を終えられる。悠仁には悪いが、俺は早く大学生のその先に行きたい。早く自立して、自分の力で好きなように生きたい」

     潮風が吹いて、思わず目を瞑った。
     そっと瞼を持ち上げれば、揺れる黒髪ををそのままに脹相は微笑んでこちらを見ていた。

    「それに釣り合わないとか振り返らないとか……、それはなんだ。惚れているのは俺の方だろう。大教室で目が合ったとき、お前だって思ったんだ。世界中の誰よりも、虎杖悠仁が良いと思ったんだ。付き合ってからだって、日々悠仁の良いところを知って惚れ直すばかりだと言うのに」
    「そ、……」

     そんなこと、そんな笑顔で、恥ずかしげもなく言うなんて思わなかった。頬に熱が集まっていくのが分かる。面白そうに笑みを深める脹相に、首を横に振った。

    「え、だって、最近あんま……! し、しなくなった、じゃん? 飽きたからじゃ、ねぇの……?」
    「は!? い、いや、いきなり大声を出してすまなかった。悠仁、な、泣くな、頼む」

     再び溢れてきそうになった涙をぐっと堪えると、脹相は慌てたように俺の目の前にしゃがみこんだ。しばらく視線を泳がせて、はあと息を吐く。

    「悠仁、1年の頃の俺は18だ。10代の男の性欲は異常なんだってことくらい同性ならお前にも分かるだろう」
    「うん……?」
    「一晩に何度もして、次の日大学に行けなかったりしただろう。俺なりに反省していた。20を越えてようやく少し落ち着いて、自制心が身についたんだ。飽きるとかそんなわけないだろう。それに、」

     彼の白い頬が、照れるように色づいていくのが分かった。

    「最近は、悠仁と一緒に眠るだけでも幸せなんだ。……だが、そうだな。俺はきっと言葉が足りていない。毎日思っていても、伝えなければ意味がないな」

     両手を大きな手に包まれて、真剣な表情をした男に正面から見つめられた。

    「お前のことが好きだ。ずっと傍にいてほしいと思っている。この先俺がどんな道を進んでも、悠仁がどんな道を選んでも。俺は悠仁を手離すつもりはない」

     また強い風が吹いた。けれどその眼差しから目を逸らすことが出来なかった。零れた涙が頬に流れる。こんなこと、いつもは外ではしないのに、止まらないそれを、脹相は顔を近づけて唇で拭った。

    「これが俺の真意だ。悠仁、お前の真意は?」

     近すぎてぼやける視界の中で男が首を傾げる。耐え切れなくて、衝動のままにその首元に両手を伸ばして抱きついて。
     神に願うように胸の中の本心を曝け出した。





     曇り空の隙間から、夕焼けに染まった茜色の光が差す。打ち寄せる白波を避けながら、寄り添って波打ち際を歩いた。

    「あの島には橋を渡れば行けるらしい。行ってみるか?」
    「うーん……あんま行きたくねぇ、かな」

     意外と近くに見える島を指差す脹相にそう言えば、恋人は不思議そうに何故?と尋ねてきた。

    「あの島には女神様がいて、恋人同士で行くと嫉妬して、別れさせようとするんだって誰かが、」
    「……悠仁は、迷信を信じる方だったか?」
    「…………もし本当にそうなったら嫌じゃん」

     唇を尖らせて不服そうに言えば、脹相は俺の手を引いて橋の方へ歩き出した。

    「平気だ。行こう、生しらす丼を食べたいと前に言っていただろう」
    「は!? ちょ、おい!! やだって言ってんのに!!」

     俺の抵抗をものともせずに、脹相はずんずんと砂浜を歩く。けれどふいに立ち止まって、こちらに振り返った。


    「たとえ誰かが俺たちを別れさせようとしてきても。別れなければ良いだけだ」


     そうだろう?と自信満々にいう。

     夕日に照らされる脹相の顔は美しくて、何よりも頼もしかった。

     ――先の見えない未来を照らす、確かな光に見えた。







    「生しらすも良いけど釜揚げしらすも捨てがたいよなぁ…」
    「……フッ、世話が焼ける。いいぞ、両方食べよう」



     潮風に吹かれながら、俺たちは共に歩き出した。




    【終わりっ】
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